第19話 最後のキャッチボール

久々にボールを握っていた。


自分の手で触れることさえ禁じた白球を僕は強く握りしめていた。

ここは決してグラウンドではないし、夢を追いかけたマウンドの上でもない。

平坦な公園の芝生。

空はオレンジ色に染まっていて、真夏の青い空とは大違いだ。


僕が目指していた、甲子園のグラウンドとも違う。

当時、僕は十八メートル先の強打者に向けて、最高のボールを投げ込むための練習をした。

それが今、報われるような場所ではないということはよく分かっている。


それでも。


「祈吏さーん! 私、準備おっけーです!」


距離にして十メートルあるかないか。

その先に、今の僕を受け止めてくれるであろうキャッチャーの姿があった。


その姿はどこか儚く尊い。

小柄な雨の精霊は、今にも消えてしまいそうなその身体を懸命に伸ばし、僕が投じるその一球を今か今かと待ち構えている。


「小晴…」


相当な体力を要するはずだった。

小晴は言っていた。

物に触れることは出来るが、ちょっとばかり疲れてしまうのだと。

それなのに、小晴はグローブを右手に身に着けながら、元気そうにこちらへ手を振っている。

ボールを投げることはおろか、グローブを着けることでさえも、今の小晴には辛いはずなのに。


それでも、だ。


それでも小晴はこの僕とキャッチボールをしたいと言ってくれた。


ボールを握る手に力を込め、僕は大きく足を上げた。

身体が覚えている。

腕より先に肘を前に出し、左足を地面に着けたと同時に大きく全身を捻る。

そして僕は、放った。

大きな放物線を描いて、ボールは小晴のグラブの中へと収まっっていく。


「ナイスボールです!」


―届いた。


「さすが野球部のエースだったことはありますね! 祈吏さん、ナイスボールです!」


僕の投げたボールが小晴の元へとしっかり届いた。


距離は決して遠くない。

肩を故障している僕には、この距離で限界だ。

こんな距離では野球部なんかには到底いられないし、ピッチャーを務めることなんか夢のまた夢だ。


だけど。


「投げられるのか、僕…」


投げられた。

肩の痛みとか肘の痛みとかを関係なしに、僕はボールを投げることが出来た。


「良かったですよ! 私も行きます!」


そう言って今度は小晴が僕を真似て振りかぶる。


「ああ、これだ…」


受け入れられた。と思った。

少なくとも今、僕は野球の出来ない今の自分を素直に受け入れることが出来たんだと思った。

小晴の投げたボールは僕の手前でワンバウンドになる。

そのバウンドしたボールを僕は胸の前で受け取った。

そして、言ってやる。


「ナイスボール」


照れくさそうに笑いながら、小晴はひょこっと頭を下げた。


「結構、難しいんですね」


「そんなことはない。さっき、僕の球をちゃんと捕れてたじゃないか」


「そういえばそうでした。練習した甲斐があったかもですね」


練習?


「練習してたのか?」


「そうで…って、あっ!」


この子は本当に不思議な子だと思っていたが、案外本当に…。


「うっかりでした」


うっかりだったのかもしれない。


「実は、祈吏さんの話を聞いてちょっぴり練習してたんです」


知らなかった。そんなこと、思ってもいなかった。


「いつやってたんだ。大体、いつも僕と一緒に行動してただろ」


「いえいえ、いつもとは限らないですよ」


密かに笑って、小晴は人差し指を立てる。


「祈吏さんがご飯を食べている時です」


「ああ…」


道理で、僕は小晴の食事について知らないのだと思った。

僕といない時間に何をしているのかとは思っていたが、まさかそんなことをしていようとは考えもしない。


それに、それなら…。


「だからなのか?」


「何がでしょう?」


「だから、昨日は寝込んでいたのか?」


どんな練習をしたのかは知らないが、何かに触れれば小晴は疲れる。

昨日、小晴が疲労で寝込んでしまった要因の一つに、そのことがあるのではないかと思った。


「まあ、それはそれですね」


しかし、なんとなく濁されてしまう。


「私の身体がこんな風になっているのは、何も疲れているからだけではありません」


そう言って小晴は両手を大きく広げた。

その身体は半透明。

小晴に視線を向けると、その奥にある木々が揺らめくのまで見える。


「なんだ。原因不明の病じゃなかったのか?」


言って、僕はボールを投げる。

小晴はそれを受け取ると、神妙な表情を浮かべた。


「予想はできているんですよ」


どこか、寂しげな声で。


「もしかして、本当は知っていたのか」


「そうですね」


何度も頷きながら、小晴は確かめるように言った。


「なんだ、初めから言ってくれれば良かったのに」


「言いにくかったんですよ。でも、いつか言おうと言っているうちに今日を迎えてしまって」


その想いを晴らすかのように、小晴は再度、大きく振りかぶる。

華奢な身体を懸命に動かすそのフォームは、どこか僕の投球フォームに似ているような気がした。


「ただ、今の私に言えることとしては…」


そうして僕に白球を投げ込み、穏やかな声で言ったのだった。


「恐らく、このキャッチボールが祈吏さんと過ごす最後の時間になるということです」



僕は、その球を捕ることが出来なかった。

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