第7話 偶然を起こす種

放課後の教室は自然と静寂に包まれていた。


その静けさの中で、耳を澄ませば音楽室から吹奏楽部の演奏が聞こえ、窓を開ければ運動部や下校する生徒の声が聞こえてくる。


僕はそんな空間が嫌いではなかったが、雨の日の教室はあまり好きにはなれなかった。雨になれば、居場所を失った運動部の面々が校舎の至る所で中練を行うこととなる。その姿を、あまり見ていたくはない。


しかし、今日は雨ではなかったが、静寂の空間にはならなかった。雨は降っていないものの、雨を降らせる存在がいる。僕だけの残った教室で、夢野小晴は楽しそうだった。




「下界の学校は凄いですね。こんなに人が多いなんて思ってもいなかったです」




小晴は教卓の上に座り、浮いた足をバタつかせていた。


昼間、他の教室に行かせておいて良かったと思う。もしこの子が周りにいたらきっと僕は奇異の目に見られるようなことになっていたに違いない。


一呼吸置いて、言葉を返した。




「昨日も思ったけど、やけに人の多い所を好むよな」




声高に小晴は言う。




「向こうは数が少ないんです。みんなこちらに降りてきてしまいますから、これだけ人が集まっているのは珍しいことなんですよ」


「高等学校でも?」


「そうですね。この教室にいる人数が一学年と同じくらいです。雨の降る頻度を考えてもらえれば大体想像はつくかと思います」




言われてみて、そうだと思った。人と同じだけの精霊が存在しているのならば、地球は毎日雨に包まれていることだろう。


しかし、数十人程度で驚かれてしまっては。もし小晴が渋谷のスクランブル交差点を見たら仰天してしまうのではないだろうか。




「さてさて」




仕切り直すように、ぴょんと小晴が教卓から降りた。その教卓の上の時計を見る。そろそろ動かねばならない時間だった。




「それでは、行きますか」




小晴の言葉に僕は頷いた。赤坂光夏の目標を叶えるため、僕らはグラウンドへ顔を出すことにしていた。




「案内するよ」




小晴の言っていた『光夏の夢』が何であるのか、僕には分からない。分からないが、小晴が光夏の手伝いをすると言った以上、僕に出来ることはついていくくらいのものだ。


教室を出て、グラウンドへと向かう。うちの学校の体育は基本的に体育館で行われるため、運動部以外はグラウンドを使うことはなかった。僕も中学時代の下見で一度足を運んだ程度で、ここの生徒としてグラウンドへ足を踏み入れるのは去年の体育祭以来だ。




「なるべく全体を見渡せる場所が良いですね」




小晴がそう言うので校舎の裏側からグラウンドへと出た。正門側から行けば部室へと繋がるが、裏側から出ればグラウンドの端、高台となっている場所へとたどり着く。


そこからならば、陸上部の活動もよく見えるはずだ。




「偶然を起こす為には種が必要です。その種を、探しに行きましょう」




呟くように小晴は言った。その意味はよく分からない。






多くの生徒が部活動に励む中、外周を走る集団の姿が目に止まる。


緑色のラインが入った陸上部のジャージ。各選手が調整を行っているその姿は他の部活動よりも特に目立って見えた。うちの陸上部は他の部活と比べれば強豪の方で、部員数も多い。その影響だろうか。




「あ、いましたね」




外周を走る緑色。その中で、とびきり速度を上げて走っている部員。華奢な体型ながらしっかりと鍛えられた脚を大きく伸ばし、風を切るように疾走している。光夏だ。




「やっぱり速いな」


「そうですね。圧倒的です」




集団の流れが決して遅い訳ではない。ただ単純に、光夏が早い。光夏はそのペースを落とすことなく、周りをぐっと引き離していく。




「光夏さんは長距離の選手なんですか?」




僕はかぶりを振った。




「いや、専門は短距離らしい」




それだと言うのに、光夏は苦しい顔一つ見せない。


僕は続けた。




「ただ、中学までは長距離でも試合に出ていたと聞いた記憶がある。中学レベルだと、身体能力の高い奴の独壇場って所なんだろう」




少し前のことだ。卒業から一年ということで開かれた同窓会の席で、確かそんなことを言っていた。




「私はそんなに走れないので、どちらにしても尊敬です」


「そっちの世界にはスポーツとかあるのか?」


「一応、あるにはあります。でも、下界のように競技的な種目は少ないですね。私達がやっているのは、どちらかと言うとお遊戯です」


「なんだか緩い響きだな」


「みなさん目標が同じですから、競争という概念が無いんですよ。雨を降らせるタイミングは気まぐれですからね」




だったら、梅雨の時期は何だというのだ。




「あっ」




そんなことを話していると、唐突に小晴が声を上げた。何かと思ってグラウンドに目をやると、集団から光夏を追って飛び出す選手が見える。ちょうど、ペースを上げた所らしい。


察するに、残り一周といった所だった。長い髪を後ろで束ねた、背の高い選手が光夏の後を追う。恐らくここまで温存していたのであろう力を一瞬に解き放ち、この一周で光夏を抜いてやろうという勢いで迫る。その様子に気付いているのかいないのか、光夏は一定のペースを保ったまま走り続けていた。




「速いですね、あの人」


「たぶん、陸上部の部長さんだ」




なんとなく、思い出していた。日焼けした高身長の部長。名前は確か、如月沙希きさらぎさき。卒業式の前準備の際に一度だけ話したことがある。




「あの人が長距離の選手だよ」




気が付けば、如月さんは光夏の横で並走していた。必死の表情で光夏に食らいつくが、さすがに光夏も実力者。そう簡単に前を譲ろうとはしない。


しばらくの間、並走が続く。グラウンドの反対側にマネージャーらしき生徒がいることから、恐らく残りは半周。勢いだけなら如月さんが有利か。いや、それとも。




「ここまでですね」




小晴が呟くのと、ほぼ同時のタイミングだった。二人の間に、目に見て分かる差が開いた。


前に出たのは、光夏。


如月さんがペースを落とした訳じゃない。光夏がペースを上げた。縮まったはずの差はあっという間に開き、光夏はその勢いのまま、颯爽と半周を走り終えてしまった。圧倒的な差。確かに、ここまでだった。




「部長さんも速かったんですけどね」


「それでも、光夏には敵わないか」




しばらくして、如月さんがゴールへとたどり着いた。他の部員に大きな差をつけたものの、その表情は決して満足そうではない。むしろ、自分に納得していないような、そんな表情に見える。


声をかける訳にはいかないのだろう。スポーツドリンクを手に取りながら、光夏は如月さんの様子を気にしている。気にしているが、近づこうとはしなかった。




「厳しいですね」




その様子を見ていた小晴は目を細めるようにして言った。




「あれだけ速いのに、全然笑ってない」




如月さんのことか、光夏のことか。


恐らく、両方だった。




「練習…だからかもしれないですけど、勝っても笑えないというのは、なんだか残念です」


「立場的にも、笑えないんだろ」




例え実力が上だとしても、日常的な立場は変わらない。小晴は、分かっていないようだった。




「光夏が先輩なら、まだいい。だが、相手は長距離専門の部長さん。ましてや、それなりの実力者だ。相手の心境を考えた時、光夏が笑える訳がない」


「実力の世界と言ったりもします」


「それはそれ。また別の話だ。トッププロならともかく、学校でも顔を合わせる相手と気まずい関係には出来ないだろう」


「そういうものなんですね」




分かったのか分かっていないのか、ぼんやりと頷く。




「さて、祈吏さん。今の光夏さんを見て、何か分かったことはありませんでしたか?」




そうしてまた、僕の思考を置き去りにするかのように、小晴は切り出した。




「分かったこと? なんだよ、それ」


「私のやるべきことは人の目標、夢を叶えるお手伝いをすることです。それに関して、何か気が付いたことはなかったでしょうか」




それに関して、と言われても。




「別に、見ての通りなんじゃないか。光夏は部内でも圧倒的に強くて、今度の大会で成績を残そうとしている。夢や目標があると言ったらこれくらいのもんだろ」


「祈吏さんは馬鹿なんですか」


「お前に言われたくはないな」




まったく、なんで僕が馬鹿扱いをされなければいけないのか。


だが、小晴はふざけている訳ではなさそうだった。身を乗り出し、陸上部のいる方を懸命に指さす。




「もっとよく、見てください。人間観察です」




その先。指のさされた方向を見る。




「何に気が付いたんだ?」




何も、変わったことはない。走り終えた陸上部員達が、水分補給に勤しんでいるだけ。




「特に何も…」




周りを気にした。これじゃあ、登校した時と同じではないか。周りから見れば今の僕は、陸上部員を傍目から眺めるヤバい奴になってしまっている。




「祈吏さんの目線で、見てください」




僕の目線で。


幸い、周りに人はいないようだった。


放課後のこの時間に残っている帰宅部など、そういないのだろう。




「まず、光夏さんを」




仕方がないから、このまま続けることにした。


言われて、光夏の方に目を向ける。


周りよりも一足早く走り終えた光夏は次の練習に備え、入念にスパイクの紐を結んでいた。曇り空の中、身体を冷やさないためだろうか。長袖のジャージを着こなし、休息を取っている。


本当に抜かりがない。




「光夏がどうしたんだよ」




もういいだろう、と小晴に視線を戻した。当の小晴は光夏ではなく、なぜだか僕の方を見つめていた。




「それでは次、部長さんです」




一体何がしたいのか。


見ろと言わんばかりに指さす小晴に、仕方なく従う。


陸上部の部長、如月沙希。


他の部員に囲まれるようにして、如月さんは部室の前で水分を補給している。


一度だけ話したことがあるが、人当たりの良い頼れる先輩というイメージだった。そのイメージ通りと言うべきか、声をかけてくる部員に対し、一切の疲れを見せず応対している。


が、その中で一瞬、如月さんの視線が泳いだ。横目に見ている視線の先。きっと、光夏を見たのだろう。


如月さんが今いる所と光夏の座っている所とはかなりの距離があるが、さっきの練習を見ている限り、互いが互いを意識していることは間違いない。ただ、どちらが強く意識しているかと言えば恐らく如月さんの方だ。先輩としての立場は上だが、実力では劣っている。


報われない世界だ。


例えそれまでの過程で幾ら努力を重ねようと、結局の所は結果に勝てなくなる。如月さんを見ていると、なんとなくそんなことを思ってしまう。


同情?


そんなことは言えない。僕に、同情するだけの価値はない。




「今度は目を逸らさないんですね」


「えっ」




視界を遮るように小晴は僕の顔を覗き込んできた。




「ちょっと、ぼーっとしてましたよ?」




そうだったのだろうか。あまり意識はしていなかった。


思った事を、そのまま聞いてみる。




「これに何の意味があるんだ」




小晴は両手を広げた。




「何か、深い意味があるって訳じゃないですけど」




そう前置きをしてから、小晴は一歩前に出た。


そして、僕に向け首を捻り尋ねてくる。




「見ていて、気が付きませんか? 光夏さんの抱える種に」


「…種?」




さっきも言っていた。種を探してやるのだとか。




「偶然を起こすための種です。光夏さんの目標、祈吏さんには、どう見えているのでしょう」


「どうって言われても、さっきも言っただろ。光夏は陸上で…」




いや。


言いかけて、留まった。




「陸上で結果を残す。恐らくそれも光夏さんにとっては大事な目標であり夢の一つです。ですが、それと引き換えに失っている何かに私は気付いてしまったような気がするんです」


「何か、ね」




僕は何度か頷いた。




「どうかされましたか?」


「いや…」




思い当たる節がない訳ではない。


僕に構わず、小晴は続けた。




「光夏さんの思っていること。そして、周りが光夏さんに期待していること。この二つの間に大きな溝が出来てしまった場合。それは、夢を叶える中での大きな壁になり得ます」




言わんとすることが、なんとなくだけど分かる。




「私より、祈吏さんの方が詳しいかと思います」




心の内を捉えるかのように、真剣な眼差しでこちらを見つめてくる小晴。


その表情はさっきまでの緩い雰囲気ではなく、どこか使命感を背負っているかのような表情だった。




まったく、こんな話は聞いていない。


確かに僕はやることがなかった訳だけれど、厄介事に首を突っ込んだつもりはなかったんだ。


それが、まさか光夏のことで、僕が関与する形にまでなるとは。


目の前にいる、雨の精霊とやらを見る。


小晴が何を考えているのかまでは分からないが、もしかすると、僕は相当厄介なことに足を踏み入れてしまったのではないのだろうか。


そんなことさえ考える。


ただ、小晴の言葉を聞いて、僕にはある程度の状況を把握することが出来ていた。


確かに、小晴の言う通りだ。


他人に決められた基準など、それこそ『他人事』と言わざるを得ない。


僕はもう一度、光夏の姿を見た。


ああ、そういうことね。と。




「分かったよ」




ぶっきらぼうに吐き捨てる。


協力すると言ってしまった以上、僕がここから逃げ出す訳にもいかない。


どうせ、やることはないのだから。




「それでは、次の行動に移りましょうか」




僕の回答を待っていたかのように、小晴は笑顔でそう言った。




赤坂光夏の夢は、赤坂光夏の目標ではない。

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