第8夜 痛みは言葉とともに

「凪ぃぃぃっ、ごめんんんっっ!!」

「いや……別に僕は構わないから……デニー、ひとまず、君は自分の怪我の手当てを……」

「んんんっ……」


 えぐっ、ぐすっ、と涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら言う同僚の夢渡し、デニーに、そう声をかければ、彼は桟橋の階段の上で肩を支えられながら何度も頷く。



「……デニー、大丈夫かしら……」


 桟橋についた僕らを出迎えた、本来の『彼』の担当の夢渡しと帰り道の担当の背を見送りながら、リリスが心配そうに呟く。


「まあ……傷は治るから」

「そうだけど……でも痛いものは痛いじゃない」

「……まあ……」


 そりゃあね、と声に出さずに答えながら、ゴンドラをオールで軽く叩く。


「今回のは、黄色い粒、なのね」

「みたいだね」


 桟橋の段差に座ってゴンドラを眺めていたリリスの髪に、光の粒がかかる。


「リリス」

「なあに?」

「髪についてる」

「え、どこ?」


 ぱたぱた、と叩くものの、どうやら上手く落ちないらしい。

 ゴンドラを降り、座ったままの彼女の髪に手を伸ばして、粒をはらう。


「凪」

「何? って、おわっ」


 グイと突然、リリスに上着の胸元を引っ張られ、バランスを崩す。


「っ、と」


 バンッと慌ててリリスの顔の両サイドに手をついて転倒を免れたことに、ほっ、と息をはく。


「リリス、急に」

「好きよ、凪」

「リリス?」


 目の前に、リリスの顔がある。

 そう認識すると同時に、手首をグッ、と掴まれる。


「いッ」

「やっぱり」


 そう言ったリリスが、僕の腕を掴んだまま、かかっていたコートをバッとめくる。


「ほらやっぱり怪我してる」


 ざっくりと裂け、赤い色を帯びた袖の間から、パックリと割れた傷口が覗いている。


「気づいてたの?」

「もちろん」

「……何も言わないから気づいていないのかと……」

「彼が居たから、凪は絶対に言い出さないだろうし、言われるのも嫌がるだろうなと思ったから言わなかっただけよ」


 さっきとは違い、そっと腫れ物に触るかのように慎重に、僕の袖をめくりながら、リリスが眉をしかめる。


「ならそのまま黙っててくれても……」

「わたしが気になるの」


 そう言ったリリスが、自身の制服のポケットからハンカチを取り出して、僕の腕の傷に巻きつけていく。


「でも、僕は傷もすぐなお」

「わたしね、好き。凪が好きよ」


 きゅ、と傷口に巻きつけたリリスのハンカチに、ほんの少し赤い色がにじむ。


「リリス?」

「凪の、ディアボロと戦う姿は、とても格好いいわ」

「え、あ……うん? ありがとう……?」

「普段は、のんびりしているのに、戦闘になった瞬間に変わる凪の周りの空気も好き」

「……うん?」

「灰色の瞳に、青白い炎が走る瞬間が好き。いつもは何も捕らえていない凪の瞳が、何かを捕らえる瞬間が好き」

「あの……」

「でもね」


 そう言って、リリスが僕の指先を、きゅっ、と掴むけれど、その力は、とても弱い。


「自分を大事にしない凪は嫌い」


 リリスの瞳が、ほんの少し揺れる。


「……リリス」

「凪が他の人よりも、傷の治りが早いことなんて、そんな事、知ってる。知ってるわ。この傷だって、もう半日もしたらしっかりと塞がることだって分かってる。でも、傷を負えば痛いでしょう?」

「……まあ……そりゃあ……」

「痛いのに黙っていたら、痛いのを黙っていたら、いつか、本当に痛いことも、苦しいことも、言葉に出来なくなってしまうわ」

「それは……」


 僕を見るリリスの瞳から逃れたくて、視線をそらしたまま、口を開く。



「痛みなんて」


 言葉にしても

 琥珀先輩に届かないなら


「自分以外には、分からない」


 本当の痛みが、誰のところにも届かないなら。


「口にする意味なんて無いよ」


 言わないのと一緒じゃないか。


「僕が言葉にする意味なんて、無いじゃないか」


 どうして、どうせ誰にも本当のことなんて伝わらないのに、言葉にするんだろう。

 無駄じゃないか。

 投げやりになりそうな言葉が、喉元で止まる。


「届いているわ」

「……?」


 リリスの言葉に、彼女を見れば、リリスが僕を見て、微笑む。


「凪の言葉、いま、わたしに届いてる」

「それは、リリスがいま目の前にいるから」

「でも、凪が言わなきゃ、凪が言葉にしなくちゃ届かなかった。聞けなかったわ」

「……リリス……」

「ね、凪。無駄じゃないよ」

「リリ」

「凪がしてくれたように、わたしも、凪の声を、ちゃんと聞きたい」

「……僕が? いつ?」

「秘密」


 思いがけないリリスの発言に、思わず彼女の手を握れば、彼女は片目を瞑って笑う。


「人違いじゃない?」

「そんなこと無いわ! それは凪に失礼よ!」

「いや、凪は僕で……」


 むうと頬を膨らませたリリスは、僕が困りながら言った言葉に、「知ってる」と笑う。


「ね、凪」

「ん?」


 よいしょ、と段差を降りてきたリリスが、僕の前に立つ。


「わたしは、凪の声を聞くわ」

「ん?」

「凪が痛いなら、凪が寂しいなら、凪が悲しいなら、いつだって凪の言葉を聞くわ」

「……リリス」

「だから、言葉にするのは、無駄じゃないでしょ? だって聞く人がいるんだもの!」


 弾ける炭酸水のように笑ったリリスに、ぱち、と瞬きを繰り返す。


 けれど、そんな彼女の発言に、僕の中の何かが、ストン、と胸の中の何処かの部屋にはまった気がする。


「……君には、敵わないね」


 思わずそう呟いた時、


 ー 「良かったね」


 そう言った先輩の声が聞こえた気がして。


「…………せっ」


 先輩に、名前を呼ばれたような気がして。


 バッと声のした方向を見あげても、誰の姿も見えない。


「凪?」


 見えるのは、

 聞こえるのは、

 不思議そうな顔をして、僕を見るリリスと、桟橋にぶつかる水の音だけ。


 なぜだか、琥珀先輩に背中を押されたような気分になって。


「帰ろうか」


 リリスにそう告げれば、彼女は静かに笑って頷いた。







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