助けのない海の上で

 子曰しいはく道不行みちおこなわざれば乗桴浮于海いかだにのりてうみにうかばん……(論語)


 こうして、僕はボート一艘でドーバー海峡のど真ん中に放り出されたのだった。

 持たされたのは、1袋の金貨だけ。

「ちょっと……これはいくらなんでも」

 さすがに、船の縁を見上げて抗議しないわけにはいかなかった。

 どこにあるか分からないアトランティスを探させるために、無人の海上を漂流させようというのだから。

 高い所から、あのジジイが僕を見下ろしながら、眠たそうに言った。

「1日おきに船団をよこしてやる」

「そこで拾ってくれるんだな?」

 声を限りに問いただすと、ザグルーは呆れたように答えた。

「島が見つかったら、いつでも上陸できるように船をやるだけだ」

「体のいい監視じゃないか!」

 問答無用で遠ざかっていく船影に、僕は無駄だと知りつつも、力の限り非難の声を浴びせかけた。

 叫ぶだけでどっと疲れて、僕は船の底にへたり込んだ。

「無茶振りもいいとこだよな……」

 あるとは到底思えない、アトランティスを探して辺りを眺め渡す。

 夜が明けて間もない頃で、海面には霧が漂っていた。

「しゃあないか……」

 とりあえず、確かめてみたいことがあった。

 右に左に揺れるボートの上に立ち、遠ざかっていく船影に向かって「顕示」の呪文を唱える。

 主に、探し物をするときに使う魔法だ。人間の集中力を高め、普段は見逃してしまうような些細なことでも見つけ出すことができるようになる。

「まず……あると分かっているものから」

 感知できるもののありかには、光のゆらめきを見ることができるはずだ。

 だが。

「……ない」 

 船は見る間に、海上の薄闇の中へと消えてしまった。

「……ということは」

 船は見えていても「なかった」ことになる。

 「顕示」の呪文は、その場にあるものを術者に感知させる。ないものは感じ取れない。

 つまり、ここは間違いなく別の空間だった。

「ザグルーの読みどおりってことか」

 アトランティスは、「この世の何人も入るべからざる」結界で覆われている。

 ところが、僕は21世紀の世界から12世紀末にやってきた、いわば異世界の人間だ。

 つまり、この世の者でない僕は結界を越えてしまったのだ。

「拾ってもらうどころじゃないな、これは」

 呪文さえ効かないのだから、生身の身体が再び結界を越えられるわけがない。

 僕はボートの底へ座り込んで、オールを両手に握った。

「こんなの、海洋実習以来だよ」

 世界中に散らばった魔法使いたちは、たとえユーラシア大陸のど真ん中に暮らすものでさえも、操船の仕方やボートの漕ぎ方を知っている。

 小学校や中学校のうちは、夏休みになると集団で海へ行くことになっているが、海水浴はあくまでもオマケで、メインの目的は船に乗る練習だ。

 高校に入ると、しっかり動力付きのはしけに乗せられて操舵を学び、ボートでは右舷に6人、左舷に6人乗せられて、大きなオールでカッター漕艇をさせられる。

 これは魔法使いたちに、先祖たちがアトランティスから海を越えてやってきたことを思い出させる儀式みたいなものらしい。

「でも、これはそんなんじゃない」

 現実に生き延びるための課題だ。アトランティスの方角へ、死に物狂いで舟を漕ぐしかない。

「まさか本当に使うことになるとは……」

 12人のカッター漕艇でさえも、こなすのには体力の限界を要した。ましてや、1人で2本のオールを操るなど、いつまで続けられるか分からない。

 それでも僕は、オールの先の重い水を掻きつづけた。

「やってやるさ……」

 だが、無限に続くのではないかと思うほどに、霧の中の海は果てが見えなかった。

 しかも、疲れてくるとオールはどんどん動かなくなる。

 いつ終わるか分からない、きつい作業を延々と続けさせられるというのは拷問にも等しい。

 僕は船を漕ぐ手を止めた。

「せめて、ゴールだけでも分かんないかな」

 ボートの上に立ち上がると、再び「顕示」の呪文を唱える。

 物理的な影響を及ぼす魔法ではないので、その効果の範囲には限界がない。

 見えていないものの在処を指し示す魔法だから、船乗りが漂流してしまったときなどは島の位置が分かるのだ。

 そして今は……。

「あれは……」

 水平線の向こうに、まるで大火事でも起こったかのような光の揺らめきが見えた。

 その大きさからみて、陸地があるのは間違いなかった。

「アトランティスだ!」

 はっきりと海岸の位置が分かった僕は、ボートに座って全力で船を漕いだ。

 見透しがはっきりしていれば、どんな無茶なことでも多少の無理は利くものだ。

 でも、海の上には目印になるものがない。 

「意外に遠いな……」

 すっかり遠近感が狂ってしまったところへ持ってきて、波は荒く、両手のオールは重かった。

「たしかに実習で習ったけどさ……」

 そもそも、実生活では公園の池のボートさえ乗ったことがないのだ。

 ボートの向かいに載せる彼女もいない。

 だから、船乗りでも何でもない僕はすぐに力尽きた。

「もう、ダメだ……」

 少し休もうと思って手を緩めると、強い横殴りの波がいきなり来た。ボートが大きく揺れて、僕はその縁にしがみついた。

「ああっ!」

 返す波が、21世紀のか弱い少年の両手からオールをもぎ取っていった。

「いけない!」

 慌てて立ち上がり、「牽引」の呪文を唱える。

 割と便利な魔法で、自宅でも母がカウチに座ってテレビドラマを食い入るように見ながら、手を伸ばせば届くところにあるポテチの袋を引き寄せたりしている。

 だが、僕がやっているのはそんな温いことじゃない。

 命がかかっている。

 波の力は強かったけど、オールはそれに逆らって、ボートの両脇にピタリと付いた。

「うかつに休憩も取れない……」

 再びアトランティスめざしてオールをこぎ始めると、辺りが明るくなりはじめた。

 太陽が昇り始めたのだ。 

 海面が、朝日に光る。

「眩しい……」

 といっても、魔法の光は自然光とも人工の光とも質が違うので、見失うことはない。

 問題は、僕の体力だ。

 この先、太陽が高く昇れば昇るほど、日差しも強くなる。

「少なくとも、冬じゃないし」

 直射日光はさぞかしつらかろうと思われた。

 こんな小舟で海のど真ん中に放り出されて、生きて大陸にたどり着けということ自体、無茶な話なのだった。

 風が強くなり、波もさらに大きくなってくる。

 恋人同士が公園の池で乗るような小さなボートは持ち上げられ、また引き下ろされた。

「彼女でなくていいんだよ! 誰か、もうひとり!」

 誰か漕いでいてくれれば、転覆は「均衡」の呪文で回避できる。だが、オールを掴むのがやっとでは、とても唱えられない。

「やられた……!」

 とうとう、体力が限界に達した。

 手を止めたところでオールは流され、船は波にすくわれた。

「うわあああ!」

 青空に向かって高々と捧げられ、続いて勢いよく海に放り出された。

 海風にもまれて、きらめく水面へと真っ逆さまに落ちる。

 沈む前に考えた。

 ……そういえば、何の荷物も持たされなかったな。

 確かに、ここで海に呑まれてしまえば意味のないものではある。

 と、いうことは。

 ……最初から分かってたな! こうなるって!

 だから、ザグルーはほとんど身体ひとつで放り出したのだ。

 ニヤニヤ笑う長い髭の老人の顔が目の前に浮かぶ。

 ……あのジジイ!

 だが、怒りに震える間もなく、海面が深く暗い青色に変わった。

 もちろん、こういうときの魔法はちゃんとある。

 とっさに「呼吸」の呪文を唱えたが、大量の海水を呑みこんだ。鼻や口の奥に来た、鋭い刺激が痛くてむせ返る。

 でも、苦しくはなかった。

「これが、魔法なんだ」

 代謝機能を極限まで下げて酸素の消費を遅らせているのだが、呪文で命が助かったのは、初めてだった。

 しかし、助けが来なければ、いずれ魔法が解けて一巻の終わりだ。

 ……あのジジイ! そらみろ、結界を解いてくれる協力者以前の問題じゃないか。

 ましてや、赤毛の少女「カリア」なんか、探してもいるわけがない。

 怒りと絶望が全身を駆け巡ったとき、昨日からの疲れのせいか、一瞬で眠気が襲ってきた。

 水の中で!

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