結界の少女
夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは……(源氏物語)
結界を越えた後で海に沈んだ僕は、激しく打ち寄せる波の音で目を覚ました。
「ここは……」
夜が明けたばかりの冷えきった色をした空が見えた。
そこから降ってきたのかと思うほど冷たい滴が頬を濡らす。
「君は……」
髪から水滴をぽたぽた垂らした女が、完全な逆光で僕を見下ろしていた。
顔は分からないけど、朝日に逆光になったその影は、ちょっと覗いてみた大人向け写真雑誌のグラビアみたいに色っぽい線を描いていた。
それで、分かった。
「あ、そういうことか……よろしく」
ここが、あの世ってやつなのだ。
だったら、もうムキになることはない。
ゆっくり休めばいいのだ。
早合点でもう一ぺん気を失いそうになった僕の身体を、女は細い腕で抱き起こした。
そんなに大きくない胸が当たって、やわらかい。
まさに天国だった。
でも。
「痛い!」
両の頬に、しなやかな手で往復ビンタが飛んだ。
張りのある声が、まだ夢うつつの僕を叱りつける。
「起きなさい!」
僕はシャキッと背筋を伸ばして起き上がった。
小学生くらいの頃からの条件反射だ。
トレセンに行きたくなくてベッドの中でぐずぐずしていると、こんなふうによく母にドヤされたものだ。
だが、それよりもずっと優しくて、何よりも若々し声だった。
「誰……?」
誰かと思ってその顔を見れば、早朝の淡く青い光に照らされて、冷ややかな眼差しをした少女が僕を見つめていた。
僕は息を呑んだ。
そのチュニック姿の少女は、ずぶ濡れだったのだ。
美しい……まだ水に濡れている長い髪のせいかもしれなかったが、その美しさはこの世のものとは思われなかった。
どことなく、魔法女子プロレス界のアイドル、伊能カリアに似ている。
試合中の彼女みたいに、少女は眉ひとつ動かすことなく僕に尋ねた。
「あなたは何者?」
命を助けてもらったのだから、知らん顔はできない。
でも、どこまで答えたらいいのか分からず、僕は唇を噛んでうつむいた。
少女は業を煮やしたのか、自分のことから話しはじめた。
「私は毎朝、この崖の上で結界を張っているの」
それでも答えられなかった。
迂闊なことを言えば、命がない。
僕には、ザグルーのギアスがかかっていた。
あの憎たらしい髭のジジイの。
思い出すのも忌々しい。
……来るべき世のことは語らずともよいぞ、クモン。
……敵に語れば、お前は消えてなくなる。
それなら。
僕が21世紀の人間だと言わなければ済むことだ。
だけど。
それなら僕は何者なのか。
答えを出せない僕は、口を閉ざしたままでいるしかない。
赤毛の少女は、軽蔑と哀れみを込めて僕を見つめた。
「そう……無理には聞かないわ」
その先は、唇を固く結んで何も言わなかった。
太陽が、高く昇っていく。
次第に辺りが明るくなっていった。
昇り始めた太陽から吹くかのような風が、海水で濡れた僕の頬をひやりと撫でる。
その風が吹いていく方向へ目を遣ると、海と空の青をはっきりと濃淡に分ける水平線が見えた。
海へ向かっていた風が、いつのまにか陸へと吹き始めているのだった。
ばさりという音に目を戻す。
重く濡れた少女の髪が、風にばさばさと煽られていた。
燃えるような赤毛だった。
彼女は、その髪が気になるのか、目を伏せて何度となく撫でつけて押さえた。
しばらく沈黙が続く。
やがて、僕は思い切って口を開いた。
「ありがとう」
微かなつぶやきが返ってきた。
「溺れたと思ったから」
その裏には、「助けるんじゃなかった」という意味が読み取れないわけでもない。
少女は重ねて尋ねた。
「あなたは、何者?」
「どうして……」
誰かとは聞かないのが気になって、僕は尋ねた。
少女は眼を伏せたまま、微かに唇を動かして言葉を選んでいるようだったが、思い切ったように口を開いた。
「だって、海の向こうから現れたもの」
来た……。
最初のピンチだった。
僕をギアスの魔法で操っているザグルーは、アトランティスから見れば裏切り者だ。
もしや監視に来てはいないかと再び振り向いてはみたが、船の影はなかった。
まだ、とぼけられるかもしれない。
「沖で船が沈んだんだ」
間髪入れずにツッコミが返ってきた。
「沖へ行く船は、水平線に出ると戻ってくるの。いつの間にか」
それが結界だということか。
すると、あの「顕示」の呪文は、もしかすると自分のボートを光らせていたかもしれない。
もし、アトランティスを見つけられなかったら、の話である。
その点では、僕はツイていたのだ。
少女は重ねて尋ねた。
「だから、あなたは誰?」
それは迂闊に答えられない。
だから、僕は尋ね返した。
「どうして助けたの? 僕が結界の外から来たと思うんなら」
「溺れたかと思ったから」
少女は目をそらしたまま繰り返した。
そこで、更に突っ込んでみた。
「どうやって?」
話をはぐらかそうとしたのだ。
だが、その必要はなくなった。
海岸の崖からは岩場が広がっているが、やがてうっすらと草地が見え始め、遠くへ行くに従って緑が豊かになる。
その彼方から、白い縦長の旗が何本も現れた。
魔法使いじゃない人たち向けの放送で見たことがある。でも、それがどういう類のものなのかは思い出せない。
それでも、肌にビリビリ来るものがあるのは、僕が魔法使いの端くれだからだ。
「あれは……」
感じた危険の正体を見極めようとして、必死で考える。
そのうち、微かに蹄の音が聞こえてくる。
「時代劇!」
侍たちが馬なんかに乗って出てくる戦闘シーン。合戦の場面だ。
やっと思い出したところで、低い声が叱りつけた。
「声をたてないで」
少女が、僕をまっすぐに見つめている。澄んだグレーの瞳に、冷たい光が宿ったような気がした。
上級の魔法使いは呪文を唱える前、こんな目をする。
背中にゾクっと冷たいものが走って、僕はつい謝った。
「ごめん」
そういう口をしなやかな指で押さえた彼女の口からは。聞きなれない響きの言葉が漏れはじめた。
当然、魔法を使っているのだ。ここは魔法使いの結界で覆われた島、アトランティスなのだから。
そして……。
僕の周りの景色が歪んだかと思うと、別の風景が現れた。
朝の光が漏れ出でる、小さな窓。
ところどころシミのある天井。
板壁の向こうからは、ゴトンゴトンと何か回る音がする。
大きな石か何かが擦れ合う音……。
耳を澄ませば、小川の流れるような音がする。
「ここは……」
見当がついたのは、水車小屋の中らしいということだけだった。
「ねえ、ちょっと……」
辺りを見渡して呼んでみたが、赤毛の彼女はいない。
だが、何があったか理解するのに時間はそれほどかからなかった。
「あれが……狭間隠し」
彼女が使った魔法で、僕はここまで運ばれてきたのだ。
それで、僕の身体も彼女の服も濡れていた理由が分かった。
「あのときも……」
僕が海に沈んだところへ、彼女はこの魔法で飛び込んできたのだろう。
そして水中で僕を捕まえて、再び「狭間隠し」で崖の上へ戻ってきたのである。
「何度も使える魔法じゃないはずなのに」
現代で「狭間隠し」を使える者は、魔法の後に疲れ果てて動くこともできなくなるという。
この時代はどうだろうかと考えて、僕は当惑した。
現代と同じことが起こるのであれば、そんな危険を冒してまで僕だけをここへ送った理由が分からなかった。
「何者だ……あの子」
分かるのは、少なくとも危害を加えるつもりはないということだけだった。
様子のわからない土地だけに、僕は最も安全な、この水車小屋から動かなかった。
部屋の中に干した服は昼ごろになって乾いた。再びそれを着てみたけど、彼女はまだ姿を現さない。
「どこ行ったんだろ……」
そんなことを気にしているうちに、辺りが騒がしくなった。数騎のものと思われる馬蹄の音が、水車小屋の周りを取り囲む。
開けろ、という声が聞こえて、鍵の外れる音がした。
扉がさっと開かれる。
「君は……」
そこには、さっきの少女がいた。
だが、僕の言葉はそれ以上、続かなかった。
彼女のチュニックが引き裂かれ、白い肩が覗いていたからだ。
「何てことを!」
いつもは、近くにいても気にもならない「普通の人間」に、怒りが込み上げてきた。
自分たちに魔法が効かないことを知っているくせに、魔法使いには勝手に怯えて暴力の限りを尽くす。
それが「普通の人間」たちなのだ。
「お前ら……」
魔法使いは、歴史的にそういう目に遭わされてきた。
こいつらも、たぶん。
「恥を知れ!」
動けない彼女に、複数で襲い掛かったのだ。
武装した大の男が、力ずくで!
そのうえで呪文が唱えられないようにしたのだろう、赤毛の少女は猿轡を噛まされている。
だが、大きく見開かれた眼はこう言っているように見えた。
(あなた、どうしてここに!)
既にどこかに逃げおおせたと思っていたのだろう。
だから自宅を真っ先に捜索させて従順さをよそおい、少しでも白旗隊の追及を逃れようとしたのだ。
どうやら、僕がその思惑をふいにしてしまったようだが。
「ごめん……」
謝っているヒマなんかなかった。
背後から黒い鎧を着た男が彼女を突き飛ばす。床に転がされた赤毛の少女の背中には、太い縄で痛々しく縛り上げられた両手があった。
華奢な指が充血している。
男が縄を引いて彼女を持ち上げると、その身体は弓のように反り返った。
どんなに抑えても抑えきれない呻き声が、僕の口から洩れた。
「触るな……」
がっくりと首を垂れた彼女が目を開いて、僕を見つめる。
一筋の涙が、その頬を伝ってこぼれた。
もう、我慢できなかった。
「触るな!」
一声叫ぶと、ここは魔法使いの国、アトランティスだという思いが僕の怒りに火を点けた。
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