第18話 知らぬ間にかけられたマジック
まだ空が青いうちに校舎を背にしているのは、とても久しぶりな気がする。あおいはそんな心地の悪さを感じながら、いつもよりも重たいバッグを抱えていた。荷物だけでなく足どりまで重く、表情はいつにも増して冴えない。
「オーハラちーん!!」
聞き覚えのあるその声だけが、
荷物の重さにふらつきながら、なんとかして振り返る。一人の女子生徒が飛びかかろうとする、まさにその瞬間だった。
「ぎゃああっっ」
実際の体当たりは回避したが、必死にそれをかわそうとした勢いで、あおいはその場に倒れ込んでしまった。
「ぶ、無事かいっ……!?」
短い金色の髪が、冷や汗をかきながら取り乱す。
「な、なんとか……」
あおいはひっくり返った亀のような格好になっている。そのかわり痛みを感じることはなかった。それまで苦しめられていた重たい荷物が、うまくクッションになってくれていた。
あおいの声を聞いて、彼女の顔がぱーっと明るくなった。
「よかったー!」
あおいの両脇を抱え、勢いよくその場に立ち上がらせる。あおいはきょとんとした顔になって、すぐにその表情は緩んだ。
「お久しぶりです、クロさん」
ぺこりと頭を下げると、バッグの重さに少しだけふらついた。
「なんか久しぶりだねー! 元気だった?」
「はい! それに部活も、もしかしたら上手くいくかもしれないんです」
「聞いたよー。ほんと、やるなあ」
クロは遠い目で、グラウンドの向こう側にある部室棟の方を見やった。
「いったいどんな魔法を使ったのさ」
「私は何もしてないんです。きっと、本物のアイドルの魔法ですよ」
「ほんもの?」
「これなんですけど」
あおいはスマホの画面を掲げて見せた。
一人のアイドルが儚げな笑顔でポーズを決めている。
部室の中にあったポスターと、同じ写真だった。
「馬場絵里」
「クロさん、知ってるんですか」
「えっ」
あおいは初めて、クロのたじろぐような表情を見たような気がした。
「まあ顔と名前くらいは、ね。……ところで今日は部活ないんだね」
クロはあおいから目をそらして、スタスタと歩き始めた。
「テスト期間は部活禁止らしいので」
あおいにとって高校で初めての中間テストが始まろうとしていた。
だからいつもなら置きっぱなしだった教科書の束が、今日ばかりはバッグに詰め込まれている。荷物が重たい理由はそれだった。
今のアイドル部は、正式に部として認められているとは言いがたい微妙な立場だった。しかし、だからこそ学校のルールに忠実であるべきだというのが、榎本の言い分だった。
「そっか」
あおいはクロの背中を眺めながら、いそいそとついていく。
「あの、もしかしてクロさんって……」
クロの足が止まる。それに合わせて、あおいもそこに立ち止まる。
「きゃああああーー」
その瞬間だった。
あおいの背後から甲高い悲鳴とともに突っ込んでくる。
振り向けばそこに、自転車だった。
「うわああああああ」
あおいが、自転車に、轢かれた。
……ようにクロには見えたが、またもあおいの反応が早く、彼女自身の勢いが余って倒れるのが先だった。今度の受け皿は地面ではなく、目の前にいたクロだった。
「ありがとうございます……」
「今日は災難だなあ、大原ちん」
ケラケラと笑うその本人が最初の災難であったことは、恐らく忘れ去られている。
「あの、大丈夫ですか?」
あおいはクロから離れると、無残に横倒しになった自転車とその脇に転がった女子生徒の様子をうかがってみる。自転車のタイヤはまだカラカラと回り続けていたが、生徒の方はピクリとも動かない。
「……だ、だいじょうぶです」
動くよりも先に声が聞こえたので、あおいは身体をビクッと震わせた。事故のあとにふさわしくないほど、優しい声だった。
「慣れてるので」
そう言うと彼女はひょこっと立ち上がり、パタパタと両手で制服をはたくと、慣れた手つきで自転車をもとに戻した。
「これはこれは、学年トップの
クロが明るい声を張り上げると、菅原と言われた生徒はようやくこちらに目をやった。
「あら
あおいは見とれていた。ここで出会った中で、群を抜いて上品な笑顔だった。クロのあっけらかんとした気持ちのよい笑顔とは違う、控えめだが美しい品の良さがあった。
つやのある長い黒髪が、その清らかさをさらに際立てている。まさに今、事故を起こした張本人だとは、まるで思えなかった。
「あ、ごめんなさい。そちらの方、おケガはありませんか」
その顔はすぐに申し訳なさそうに歪み、あおいの顔を覗くようにした。その目に見つめられた一瞬、あおいは緊張して言葉を返すことすらできないでいた。
「だいじょぶだいじょぶ! 大原ちんは頑丈だから!」
「なんでクロさんが答えるんですか!」
あおいは彼女に見つめられている時間がクロに奪われたような気がして、憤った。
「おおはらさんって……」
歪んでも品の良いままの顔が、ハッとした色を見せる。
「もしかしてあの大原さん?」
「え?」
「菅原ちゃん、大原ちんのこと知ってるの?」
あおいはもう一度自分の記憶をさかのぼってみたが、やはりこれほどの淑女に出会った覚えはなかった。
「知ってるも何も、有名人じゃない。知らない人のほうが少ないくらい」
「ええ……!?」
気づけばあおいは自転車に轢かれてから、驚嘆の声しか発していない。
そんなあおいの様子がおかしくて、クロは隣でケタケタと笑い始めていた。
「ははは! たしかにそれもそうかー」
「ど、どういうことですか……?」
「これだけ毎日毎日ステージを占領し続ければ、有名にもなるよねー」
あおいは泣きそうな顔になって、クロを見た。
「な、なんか憎まれてるってことですか……!」
「ちがうよ」
同じようにクスクスと笑い始めた菅原という生徒が、その優しさを保ったまま、儚げな視線をあおいに送った。
「彼女たちがまた部活を始めるなんて、誰も思っていなかったから」
強い風でも吹けばすぐに壊れてしまいそうなほど繊細に見えるその表情を、あおいはずっと見ていたかった。そこに流れる時間だけが、ゆっくりとしているような気がした。
そしてそれを遮るお馴染みのクロ。
「菅原ちゃんはさー、アイドル部……」
「黒柳さん」
遮りながら、遮られるクロ。
彼女には珍しく、言葉少なにおとなしくなった。
しばし流れる妙な沈黙。クロの金髪に遮られて、あおいから女子生徒の表情はよく見えない。
「そうだ。ごめんね、明日の試験の勉強しないとね」
そう言うと彼女はすっとクロをよけ、自転車をゆっくりと進め始めた。
クロは笑顔のままでいたが、さきほどまでのそれとは少しだけ違っているように見えた。
「頑張ってね、大原さん。応援してるから」
その女神のような笑顔が応援してくれるのは、明日の試験のことなのか、それともアイドル部のことなのか。あおいには分からなかったが、応援されているのだと思うだけで、体がムズムズするほど嬉しかった。
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