第五章、その六

 ○月×日。


 さすがにここにきて、この蔵の食糧も尽きかけてきたようだ。


 しかもそれに伴い、座敷牢の中においては、何とも摩訶不思議な現象が生じていた。


 何と僕の飢餓感が増していくにつれ、何だか鞠緒まりおからいい匂いが立ちこめ始めたのである。


 部屋中に充満する、えも言われぬ芳醇にして馥郁たる香り。

 ──そう。まるで夜毎よごと宴の席で提供されていた、あの絶妙なる味わいの肉料理そのままに。


 いかん、これぞ空腹のあまりの『幻臭』なのだろうか? しかも男のルームメイト相手に、まったくシャレにはなっていないぞ。

 思わず当人に疑問をぶつけてみたところ、その巫女姫の少年は少しももったいぶることなく、事もなげに言ってのけた。


「ああ、これか。『満月ルナフェロモン』と言うてな、我が一族だけに伝わる特異体質のようなもので、愛する者を必ずゲットできる魔法のアイテムなのじゃ」


 ……いや、『フェロモン』とか『魔法のアイテム』とか言われても。むしろそそられるのは、食欲のほうなんですけど。

 まあたしかに許斐このみ氏の御説が正しければ、人魚の肉を食べた一族にとって、性欲と食欲は不可分なものらしいからな。


 ──では果たして、今僕が鞠緒に対して感じているこの激しい欲望は、性欲と食欲との、いったいどちらであるのだろう。


          ◇     ◆     ◇


 ○月×日。


 この前は、鞠緒まりお自身のために彼の生を終わらせてやるだなんて嘯いてみたけれど、果たしてそれは本当に正しいことなのだろうか。


 実は僕はただ、恐れているだけではなかろうか。このまま彼と一緒にいては、自分の醜い欲望が目を覚ましてしまうのではないのかと。


 ──自分があの残虐非道で人でなしの『叔父』と、同じ人間になってしまうのではないのかと。


 もちろん最初のうちは、本気で自分の言葉を信じていた。これはすべて、あの少年自身のためなのだと。

 しかし徐々に、座敷牢内の食糧事情が逼迫し、心身共に追い込まれていくうちに、僕の中で極自然に、『人類の種の保存』の欲望がかま首をもたげてきたのだ。

 人間は追いつめられたときや健康を損ねたとき、あるいは今回のように自分の周りで戦闘が始まったり飢餓状態になったときには、とても『色事』などに余分なエネルギーを割く余裕はないと思われているが、実はこれはまったくの誤りなのである。

 自分自身という個体の生命の維持続行がピンチの状態であるからこそ、身のうちのDNAが新たなる個体に生命を受け継がせるべく、本能的に生殖行動を促進するように緊急命令を発動し始めるというのが、生物として至極真っ当なあり方なのだ。


 そしてそれを強力に後押ししているのが、まさに鞠緒のいうところの『満月ルナフェロモン』なのだった。


 巫女姫みずからが自信満々に、『我が一族だけに伝わる魔法のアイテム』と言うだけあって、その効果のほども絶大きわまりないようである。

 しかも始末の悪いことにこれは、単に性欲誘発フェロモンというだけではなく、同時に激しい食欲をも催してきたのだ。

 それはあたかも目の前にいる相手に対する感情が、どこまでが性欲でどこからが食欲かわからないほど不可分に混在しており、この狭い空間は今や、いろいろな意味で非常に危険な状態となっていたのである。

 まあ、正直なところを申せば、今現在僕がこの仄暗い座敷牢のルームメイトの少年に、かなりそそるものを感じてしまっているというわけなのであるが、果たしてそれが純粋に性欲なのか何なのか、自分でも今一つ釈然としないうちに、いつしかこれまでに感じたこともない暴力的な衝動へと変わりつつあり、このままでは身も心も乗っ取られてしまい、本人の意思を無視して本能的な行動へと走らされてしまうのではないかという、焦燥感に苛まれていたのだ。


 ──鞠緒のことを抱きたい。彼に人肉を喰らわせて『女の体』にしたい──と。


 そのためになら、あれほど馬鹿にしていたサバイバル・ゲームにあえて乱入していき、ミステリィおたくどもを血祭りに上げることすらも辞さないほどに。

 ……ちょっと待ってくれよ。これではまさに、手記の中の『叔父』そのものではないか。まさかこれこそが、僕の『本性』であるとでも言うのだろうか。

 いやちがう。これは極限状態による、一時的な気の迷いにすぎないのだ。落ち着けば消し去ることのできる、ただの幻覚なのである。

 僕は自分自身に無理やりそう言い聞かせながら、とりあえずその場をしのぎ、時が解決してくれることをただひたすらに願い続けた。


 しかし事態は刻一刻と、悪化していくばかりだったのである。


          ◇     ◆     ◇


 ○月×日。


 この山奥の隠れ里も、すっかり秋めいてきたようだ。


 懸案の『完全密室クローズド・サークルサバイバル・ゲーム』も、最近ではまったく音沙汰がなくなり、母屋のほうもすっかり鳴りをひそめていた。

 すでに決着がついたのか、それとも全員共倒れになってしまったのか、いずれにせよ今の僕には、うかがい知る術は何も無かった。


 一方この仄暗い蔵の中では、もうすでに食糧が底をついていた。


 それに相反するように、鞠緒まりおの『満月ルナフェロモン』のみだらで香しき芳香が、座敷牢中を蔓延し始めている。

 ほんのちょっと手を伸ばせば届く距離で、無邪気に寝息を立てている、いまだ幼き横顔。

 薄く開いた桃花のような唇。寝乱れたひとえの裾からはみだしているなまめかしい両の太もも。畳の上に蜘蛛の糸のごとく広がっているつややかなる絹糸けんしの銀髪。

 それらのすべてがはからずも、僕の心の奥底に潜んでいる『くらき欲望』を、揺り起こそうとしているかのようであった。


 ──僕はいったいいつまで、自分の中に棲んでいる『叔父うしお』を、自制していくことができるのであろうか。


 もはや猶予は許されない。彼を一日も早く、この穢れた現世から解き放ってやらなければ。


 この純真無垢なる少年が、僕の欲望の餌食となる前に。

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