そして誰でもなくなった

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第1話 始まりの記憶


 もし神がいるのであれば、

 どうして彼は虐待に苦しむ子供たちを救わないのか?


      ヒョードル・ドストエフスキー

      『カラマーゾフの兄弟』より


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「ねぇ、カムイ。……生まれかわったら、なんになりたい?」

 薄暗く陰気な小屋の中で、折茂環奈おりも かんなは兄にそう聞いた。

 もっとも兄と言っても血は繋がっていない。そういう種類の兄を「義兄ぎけい」と呼ぶのだと、十歳に満たない環奈は最近知った。

「んー、おれはアメリカ人になって、広い家に住みたい。『大草原の小さな家』みたいな」

「『小さな家』じゃ、広くないしょ」

「うっさいなー。この小屋よりマシだよ」

 実際、神威かむいのいう通りだった。狭い上に壁が薄いこの小屋では、ここ北海道の寒さを耐えるには貧弱すぎる。そのせいで、まだ秋にも関わらず二人は震えていた。

「そういう環奈はどうなのさ?」

「うちはね、小さくていいから、あったかいおうちに住みたい。そんでイギリス人になって、ハリーの魔法学校に行くのさ。ホグワーツ。フクロウも飼いたいなぁ。真っ白いやつ」

「いいねー。ドラゴンにも乗りたいね。最新型のほうきも欲しい」

「本の中でいいからさ。本当のお父さんとお母さんにも、会いたいよね……」

 白い息を吐いた二人は、この小屋に来る以前に児童養護施設で読んだ『ハリー・ポッター』の世界に想いをはせた。小学校も卒業していない彼らはそれが世界的な名作だとは知らなかったが、その素敵な魔法の世界が大好きだった。

 何より両親が死に、親戚の家に引き取られて虐待を受けていた主人公のハリーが、そこを抜け出し大活躍する物語に心が躍った。

 そして、まだ幼く外の世界を知らない二人がただ一つ分かっているのは、自分たちの置かれている境遇は「ハリーよりも格段に悪い」ということだけだった。

 遠くから、石畳を叩く足音が聞こえる。

「ハリーがいた階段下の物置より、ここの方が絶対寒いよね」

 神威の問いに答えず、環奈はただ震えている。

 その原因が、零度近い気温だけではないことを、神威は良く知っていた。

「大丈夫だよ。おれが……おれが何とかするからさ」

 コツコツと、足音が近づいてくる。環奈の目には、涙がにじんでいる。

「お家いっぱいに、魔法学校からの招待状が溢れてさ……。あの大男のハグリッドが、迎えに来てくれればいいのに。あいつら全員、やっつけてくれればいいのに……」

「大丈夫だからね。おれに、お兄ちゃんに、任せとけばいいから」

「……本当の、本当のお父さんに会いたい」

 二人は本物の両親に会ったことがない。両親という存在も、絵本の中でしか知らない。

 それでも、確信があった。

 ――アイツだけは、「本当のお父さん」じゃない。

 冷たい足音が、小屋の扉の前で立ち止まる。

 神威は環奈の涙を拭い、その小さな手を握る。

 『――人の幸せは、どう決まるのか?――』

 ふと、神威はそう思った。

 施設の先生は「どう生きるかが大事」とか難しいことを言っていたが、神威はそれが嘘だと知っていた。ただその時は上手く言い返せなかっただけで、今ではもう答えは出ていた。

 ――人の幸せは、「どう生まれるか」で決まる。

 生まれた時、親がいなければ、親に愛されなければ、親がクズならば、それで人生は終了だ。非力な子供ができることなど何もない。紛争や爆撃の真っ只中に生まれても同じだろう。目の前に広がるのは絶望だけだ。

 だから、逃げるしかないのだ。想像の世界に。

 もっとマシな場所に生まれることを、生まれ変わることを。

 期待するしかないのだ。

 不快な音を立てて、小屋の扉がゆっくり開いていく。

「うちね……生まれ変わったら、お兄ちゃんの本当の妹になりたい」

「環奈は、おれの妹だよ。血なんか繋がってなくても、おれの本当の妹だ」

 二人の会話を遮るように、開きすぎた扉が壁にぶつかる音が響く。部屋の隅に無造作に詰まれた本の山がその衝撃で崩れ、『大草原の小さな家』の絵本が床に落ちた。

「さて、今日も楽しい楽しい『お仕事』の時間だ」

 相変わらず、耳障りな声。「ニセモノのお父さん」、折茂学   まなぶの声だ。

「いやだぁーーっ!」

 神威は、精一杯嫌がってみせた。環奈は、ただ泣きながら震えていた。

 けれども、環奈は知っていた。神威はわざと泣き叫んでいるのだ。

 この悪魔、折茂学は「泣き叫んでいる方を選ぶ」という法則に、神威は最近気付いた。だから環奈を守る為に、妹の代わりに「お仕事」に連行される為に、彼は暴れているのだ。

「フフ……元気がいいな神威。それじゃあ今日も、キミにしておくか」

 折茂の後ろにいた、顔色が悪く切れ長の目をした中国人風の男が、神威の腕を無造作に掴んで引きずっていく。神威は暴れながら「必死の抵抗」を続けていた。

 決して、悟られないように。

 妹に、目を向けさせないように。

 またギシギシと鈍い音と共に、扉が閉まった。

「お兄ちゃん…………」

 残された幼い環奈にできるのは、ただ「自分じゃなくて良かった」と、泣きながら安堵と罪悪感に身を委ねることだけだった。そしてまた、妄想の世界へと逃げていく。

 生まれ変わったら、生まれ変わることができたなら……。

 ――何になりたい?




 ――私は死んだ後でも、生き続けたい――

            アンネ・フランク

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