4.夢だと言ってくれ。

 豪風が耳元を掠め、続いて轟音が頭の横で響く。コンクリートの砕ける音を、初めて聞いた気がした。

 蜘蛛の巣のような模様を描くように、大きな円状の罅が背後の壁に走る。その模様を描いたのは、間違いなく壁に減り込むこの大きな金槌だろう。

 細い路地裏を覆う影の中でも、黒光りするその黒鋼の頭は、百六十センチはある己の身体よりもデカい。その巨漢と崩れる壁を見れば、嫌が応でもその重量と破壊力を察せられた。

 一トン以上はあるのではないかと、馬鹿みたいな予想が頭の片隅で組み立てられる。

 だけど変に冷静な思考と反して、私の身体は硬直していた。


 いきなり眼前で振りかぶられた金槌を目にして、咄嗟に身体を横に避ければ、この有様だ。

 一体、何なのだ、これは。


「おー、意外と機敏」


 感心したように正面に立つ薄紅美少女が吐息を漏らす。

 陶器のような白い肌。通った鼻筋に、ふっくらとした赤い唇。バランスよく配置された顔のパーツの中で、一際目立つオレンジ色の瞳が今の状況と不釣り合いに輝く。


「でも、動きが雑。まだ誰ともヤりあったことないでしょ?」


 ガラリと瓦礫が地面に転がる。己の身の丈の二倍はあるその金槌を少女は軽々と持ち上げ、己の肩にかけた。

 ただのピコピコハンマーなのではないかと疑ってしまいそうなほど、意図も容易くその合鐵の金槌を彼女は振り回している。

 なんなのだ、この女は。なんなのだ、この状況は――。


 必死に彼女から距離を開けようと壁に貼りついたまま、私は目の前の光景をただただ凝視することしか出来なかった。

 腰が、抜けそうだ。


「ふふっ。まさか、こんな所で初心者に出会えるとはね。私ってば、ラッキー」


 楽しそうに、くすくすとその艶やかな唇が笑い声を零す。

 なんとも陽気な雰囲気を醸し出す幼い少女。だがその和やかな雰囲気と反して、私の脳は危険信号を出していた。


 ――この女は、危険だ。


 混沌と恐怖。真っ白に染まった頭の中で浮かび上がったのは、そのたった一言だけだった。

 危険だ。逃げろ。今すぐ。早く。

 端的に次から次へと思考から弾き出される指示。本能、が悲鳴を上げた。


 ――逃げろ!


 少女から一瞬も目を離さず、膝を着いて手元を探る。少女が自分の動きに気づいた様子は無い。当たり前だ。何が可笑しいのか、さっきから此方に目もくれず、ずっと笑っているのだから。

 指先に当たった小さな瓦礫を掴んで即座に彼女へと投げつけた。


 不意打ちのソレに、愉悦と余裕に浸っていた少女が驚愕したように目を見開くが、その時には既に頭に打撃を受けていた。


「いたっ!」

 

 可愛らしい悲鳴が聞こえたが、それに構ってる余裕は無い。

 硬直した足を叱咤して、必死に地面を蹴る。


「あ、ちょっと――!」


 後ろで何やら喚き声がしたが、知ったことではない。

 とにかく、逃げなければ。早く。早く。早く――!


 細い路地裏を駆け抜け、適当に何回か角を曲がる。

 やたらと高いビル群によって太陽の光を閉ざされた細道が、出口のない迷路のように思えた。

 アスファルトを蹴る自分の足音だけが聞こえる。

 後ろから少女が追ってくる気配はない。最初の一撃のおかげで、撒けたのかもしれない。

 ふっと、背後を確認すれば人の影は見当たらず、先にあった角を曲がったところで、足を止めた。


(……大丈夫、かな。誰の気配も感じない)


 どこぞのチンピラがポイ捨てしたであろう空き缶や、使い捨てられた古いロボットの残骸を避けながら、道のもう少し奥へと足を進める。

 パチパチと、偶に整備の行き届いてない、壁に貼り付けられたホログラミックポスターの故障音がするが、本当に人の気配は感じなかった。もしかしたら、『裏袋』で最も通行人の少ない、危険地帯に入ってしまったのかもしれない。


 背中を壁に貼り付けて、自分の現在地を確かめる。

 端末のナビを確認してみれば、随分と入り組んだ場所に潜り込んでしまっていることが分かった。

 最悪だ。 

 スクリーンに映る、蟻の巣のような細道だらけの場所は、どこからどう見ても『裏袋』の中心部だった。

 つまり、巡回ロボットの目があまり届かない位置に居る、ということである。


(……家からも、随分と離れちゃった)


 はあ、と思わず溜息が出た。ズルズルと、ゆっくりと床に座り込む。


 息切れすることを知らない『身体』のせいで、未だに現実か夢かの判別がつかない。

 悪い夢を見ているようだ。いや、夢なのかもしれない。こんなの、どう考えたって有り得ない。


 触覚、聴覚、視覚以外のほとんどの感覚が無いのも、あるのか――未だに、地に足がついていないような気分だった。

 けど、だけど、それでも。 


「……それでも、リアル、すぎるって」


 ははっと、らしくもない自嘲めいた空笑いが口から洩れた。

 間違いなく――あの耳元を掠めた豪風は現実だった。頬を掠めたコンクリートの欠片も、背筋を襲った悪寒も、全て、明確に、はっきりと、私にを伝えていた。


 呆然とした思考の片隅で、呟く自分が居る。ここは、ここは。


 ――ここは、現実だ。


「ないって……そんなの、ありえないって、」


 コールドスリープとか、未来とか、脳移植とか、デスゲームとか……全部、全部、嘘だ。

 ありえるはずがない。けれど、ぐしゃりと前髪を掻きむしれば、痛覚はなくとも、髪を引っ張られる感覚が確かにした。

 

「……じゃあ、私はどうなるのよ。家は、お母さんは、お父さんは、みんな……こんなっこんなっ」


 ここに来てから――目が覚めてから、少なくとも二週間以上は経っている。

 二週間以上は、家に帰っていないのだ。帰ってこない娘を、家族はどう思っているのか。

 警察に通報しているはずだ。確かに親の言うことを聞かないところは多々あったし、ダメダメな娘ではあったけど、何の連絡もなく居なくなるようなことはしなかった。

 きっと家出ではなく、誘拐の線を辿ってくれるはず。駅の監視カメラとか、私の足取りを追えるものは沢山あるんだ。だから、だから……。


「……だから、」


 だから……?


「……帰らなきゃ、」


 震えそうな足を押さえて、立ち上がる。

 

(息切れはしないくせに、足は震えるんだ……)


 なんとも可笑しな話だ。走って悲鳴を上げる肺はなくとも、恐怖で震える足はあるのだ。

 自分の感情と直結しているように思える『身体』がなんだか少し怖くなった。


「……考えるな」


 そうだ。考えるな。

 下手に考えたらきっと私は暗い想像に囚われて、動けなくなる。

 勝手に思考しようとする頭をおもいっきり叩いて、必死に口を動かした。


「考えるな、考えるな、考えるな」


 魔法の呪文をひたすら繰り返し、壁に手をつきながら、ゆっくりと踏み出す。


「帰ろう。そうだ、今は帰ろう」


 あのマンションに戻って、ネットを開いて、調べよう。今、自分がどこにいるのか。

 まず、そこからだ。

 2102年なんて、馬鹿げてる。ありえるはずがない。

 

「ネットで見つからなかったら、そうだ……あの《カプセル》にも問い詰めればいい」


 全部、分かっているんだと、そう言って本当のことを吐かせればいい。

 人工知能のふりをしているけど、あれだってきっと裏で人間が操作しているだけだ。


「大丈夫、大丈夫」


 ――だから、帰ろう。


 今、必要なことだけを、頭で、口で、何度も何度も繰り返しながら自宅を目指した。

 端末のナビの指示を追い、無心に身体を動かす。


 こんな暗い所に居るからダメなんだ。こんな所に居るから、思考がネガティブになるんだ。

 繰り返し繰り返し、前向きなことを考えて、足を進める。


 あと少し。あと少し。

 あと少しで、この薄暗い迷路から出れる。壁と壁に挟まれた細い道の向こうから、差し込む太陽の光が見えた。

 人の声も微かに聞こえる。ほっと、肩の力を抜くように息を吐いた。


「……よかっ、」


 ――良かった。そう言おうとしたのに。


『――よかないわよ。初心者』


 ――が、轟音と共に鼻先を掠めた。


 前触れもなく、突然横の壁を吹っ飛ばして、飛んできた黒い物体に、思考が停止した。

 唖然。

 壊れた壁の残骸を辿れば、がしゃりと寂れた鉄のような音が聞こえた。


「……なんで、」


 なんだ、これは。


 あと少しで、ほんの少しの距離で人前へと出れるところで、『裏袋』の出入り口で。どこぞのアクション映画みたいな登場の仕方をした『それ』に、驚然とした。


「いや、ないって……ないって」


 ないないないないないないないない。

 ない。流石に無い。もう、夢としか言いようがない。

 映画のワンシーンを前にしているような気分だ。


「なんで、」

『なんでって、そりゃあココら辺になると人の目だけじゃなく、腐れロボットどもの目もあるんだから、姿晒して暴れるわけには行かないでしょう?

 自己責任だから、カプセル君も運営も助けてくれるわけでもなし。指名手配犯になるのは、私も流石にごめんよ』


 ノイズ交じりの声が、耳元を素通りしていく。

 全く内容が頭に入ってこなかった。

 いや、だって、そんな余裕、流石に私も無いわ。


『――まあ、美しくないけどね』


 ぺらぺらと喋るは、どうやっても女口調が似合ってない。

 どこに放置されていたのか、砂を被ったプレート。黒いメッキがところどころ剥がれかかってしまっている手足の関節部分からは、ギシギシと不協和音が聞こえた。

 『裏袋』で偶に見る姿だ。工事現場で事故などに遭って使えなくなり、業者が不法投棄する哀れな《工事ロボット》。

 約三メートルはある、可愛くないガタイをした、如何にもな

 そいつは、肩に妙に見覚えのあるを担いでいた。


「まさか……、さっきの薄紅美少女?」

『ご名答。《美少女》とお褒めいただき、光栄だわ』


 いや、まて。どういうことだ。

 何が、一体。どうしたら、どうやって、こうなった。


「……それ、搭乗型だっけ?」


 搭乗型か。そうだ。搭乗型だ。

 自分で言った言葉に、納得した。

 三メートル程あるこの巨体は、搭乗型だ。工事用ロボットは人間の安全性も考慮して、随分前から搭乗型の姿は見なくなったらしいが……こいつは不法投棄されていた、かなり古い奴なんだろう。

 随分と昔に、捨てられたらしい。


『いや……あんた、なに言ってんの?』


 ――そう、納得したかったのに。

 馬鹿な子供を前にしたような口調で、目の前の機体は私の推測をぶち壊してくれた。


『え、まさかとは思うけど。あんた、本当にまだとか?』

「……なにもしてないって、」

『あんた起きたの、いつよ? もしかして最近? え、カプセルくんの話、聞いてないとか?』


 カプセル。そう聞いて思い出すのは、あのマンションの一室に居る、あの卵型のカプセルだ。

 

 ――『――プレーヤーの皆様は、“肉体”から解き放たれた《自由意思》です』


 不意に、あのカプセルの声が、耳奥に蘇った。


(自由意志って、)


 他の機体に乗り移れる《自由意志》。あのカプセルはそう言った。


「……のりうつれるって、?」


 唖然と目の前の機体を見上げた。

 搭乗型ではない。まぎれもなく自立型の、ロボット。

 そのロボットに、あたかもが乗り移ったように、見える。


『なんだ、ちゃんと聞いてんじゃん。なに、じゃあもしかしてアンタ試したことないの? 電子領域も入ったことない感じ?』

「……え、と」


 いや、電子領域には入ったことはある。主に、伊吹さん情報を集めるために。

 だけど、こんな。こんな、ことは。


『――超絶スーパー初心者』


 機体が静かに呟いた。

 喜悦が混じったような、心底うれしそうな、獲物を前に涎を垂らしたような、そんな声だった。

 ぞわり、と生身ではない身体に、立つはずもない鳥肌が立つ。


『らぁぁっきぃぃぃいいいいいいいいいい!!』

「―――っ!」


 気がつけば、今いる場所から飛びだしていた。着地がうまく行かず、アスファルトへと身を投げ出される。

 どごぉ! とそれはそれは可愛らしくない破壊音に、鼓膜が襲われた。

 もわもわと土埃が視界の邪魔をする。

 先程まで自分が立っていた場所を振り返れば、見事な瓦礫の山がそこに出来上がっていた。

 辺りで悲鳴が聞こえた気がしたが、構っている余裕はない。

 視線が、土埃の中ではしゃぐ影から、こびりついて剥がれなかった。


『超絶初心者! 超絶よわよわ! 超絶ラッキー!

 んもぅぅううう! もうもうもうもうもうもうもう!』


「……はっ、」


 冷や汗が、頬を伝った。

 とち狂ってる。その一言にしか尽きない。

 近くでまた誰かの叫び声が聞こえて、ふと、自分があの狭い路地から脱出していたことに気がついた。

 さっき飛び出した際に、金槌によって起きた風圧で身体を外へと押し出されたのだ。なんて、馬鹿力。


 人通りが少なくとも、道の端でこれだけ大きな巨体が暴れれば、それは目立つだろう。

 周囲を確認すれば其処は商店街で、騒ぎを聞きつけて、いつのまにか人が集まり始めていた。

 距離を取る人も居れば、すぐに巡回ロボットが来ると思っているのか、携帯端末を構えて写真を撮ろうとしている人も居る。

 さっきの衝撃に巻き込まれた人がいたのか、そう遠くない場所で蹲っている影も見えた。

 

(……しっぱい、した)


 『裏袋』から出られたからと言って、わけじゃなかった。


(人前に出れば、大丈夫だと思っていたのに……っ)


 人通りの多い商店街のような場所に出れば、この少女も追ってこないだろう。そう、無意識に安心しきっていた。

 騒がれて困るのは、この少女のはず。そう、思ったのだ。

 けど、関係なかった。

 人目があろうが、警察が来ようが、お構いなしだ。

 正気を失っているのか、或いは正体がバレることはない、と腹を括っているのか。


『――ちゃぁんすぅぅぅぅううう!』


 黒い金槌がまた落ちてきた。

 急いで横へともう一度飛べば、間一髪――すれすれの所で黒い塊が大地に減り込む。

 

 無様に床に座り込んだまま、抜けそうな腰を必死に後ろへズリズリと擦り下げた。

 ガタガタの腕を使って重い尻を上げ、一心不乱に駆け出す。がしゃん、という音を聞き流しながら、同じように逃げ惑う人たちに紛れて、私もその場から離れた。


 ちらりと肩越しに、あの機体へと視線を投げかけながら走り続ける。

 見ればは立ち止まったままでいた。人が集まり始めたせいか。或いは、遠目に見える巡回ロボットのお陰か。

 やっと来てくれた警察に目を向けながら、けど何故か立ち止まることも出来ず、私はそのまま自宅を目指した。

 

 怖かったのだ。

 ――立ち止まったら、飲み込まれてしまいそうで。

 

 





(こうして、馬鹿は現実を認めましたとさ、)


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