比良坂 哀 Ⅷ(1999.7.1)「血」

 気がつくと、夜でした。

 月に照らされた草原は、不思議な明るさにたたえられていました。

 それはまるで、漆黒の闇夜というよりも……あおい闇といった方が近いような……。

 蒼い、蒼い夜でした。


 月光を浴びたヒドラは、それはそれはたくましく、美しい姿に映りました。

 のです。

 栄養豊富だったのでしょう――を喰って――ヒドラはこんなにも、大きく立派に育ちました。

 私の胸に抱えられるような大きさだったのに、今や、私が見降ろされています。

 ……ですが、それもなんとなく、がしました。


 白い表皮は骨のようにごつごつと変化し、その裂け目からは中の筋繊維が覗いています。彼らにやられた傷痕です。顎のあたりはとくに割れ方が酷く、口内に隠れていた歯列がすっかり剥き出しになっていました。

 側頭頂部にあった――コブのような膨らみは――今や角として立派にねじくれ、そそり立っています。


 ――なんて、かっこいいのでしょう。

 惚れ惚れ、してしまいます。


 ただ、私のせいで、こんなにも……身体をぼろぼろに……。

 男に裂かれ、触手を吹き出した腹は、今もその胎内を外にさらしています。

 私からは暗くて、中はよく見えませんが……大丈夫なのでしょうか。


 を、守るために、ヒドラは――


「ごめんな……ヒドラ……」


 顔を上げ、私はヒドラに、思いを伝えました。


「ヒドラは、私との約束を守っとったんよね……嫌ん所ツノを触られてまで……」


 ――他ん人からは隠れて……もし見つかっても、絶対に反抗しちゃあ、いかんばい。

 それは、私の言った言葉でした。


「なのに……いかんばい。こぎゃんことしちゃあ、もう、村にはれんよ」


 私は、おろかです。

 そんな私を助けたヒドラも……愚かです。

 でも……。

 でも、もう、いいんです。だから……。


「ばってん、ありがとーね。ヒドラ……」


 ヒドラは何も応えません。

 ただ黙って、白い仮面のうちにある瞳で、じっと私を見つめています。

 ……照れて、しまいます。

 なんだか急に気恥ずかしくなって、目を逸らしました。

 直視できないのです。

 言葉で空間を埋めないと、ように思えました。


「大きく、強うなったね」


 だから私は、とにかく言葉を伝えました。


「やっと、気づいたんよ……」


 足元には、月光に照らされた私とヒドラの影が混じり合い、ゆらりと浮かんでいます。

 ゆらゆらと、重なり合って――


「私、ヒドラのことを……」


 その時、きゅ、と、ヒドラが応えました。

 思わず、顔をあげてしまいます。


 白い月は、真円を描いていました。

 満月です。

 

 ヒドラの胎内から、が伸びてきました。

 いく本もの――月光に照らされた、

 それは絹のように滑らかで、青白い炎のように輝いています。

 その光景は……なぜだかとても、神秘的に見えました。


 ああ……。


 白く、柔らかく、そしてちょっとだけ冷たい、ヒドラの手。

 触れられたところが、じんわりと熱い。

 ヒドラに触れられると、みぞおちの辺りが、とするのです。

 痛くはありません。なんだか妙に切なくて、くすぐったい……そんな気持ちです。

 そのまま私の頭を抱え込んで――ひんやりと冷たいヒドラの手が、私の後頭部を優しく、優しく撫でていきます。


 手も、足も、首も、胸も、腰も、全部――温かく、撫でるように、包み込むように――


 ヒドラの中に――


 目をつむると、そこは光とぬくもりに満ちていました。

 私の中にあるどろどろとしたもののすべてを、みんなまとめて覆い隠してくれそうな、深い深い夜のようなぬくもり……。


 まどろみの中を漂いながら、私は心を決めました。


 ――私は、ヒドラと生きる。


 そう決意した瞬間――濡れた、しずくが――私の身体に――


 あたたかくて、きもちがいい。


 生まれて初めての感覚に、私は全身を包み込まれながら――



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る