御神本 往人 Ⅲ(1999.6.22)「狗奴野座神社」※挿絵あり

 洞窟に近づくに連れて、落ち葉の量が増えていった。湿った葉の湿り気が、靴の中にまで染み入ってくるようで気味が悪い。

 ぱきりと、枯れ枝を踏んだ音が響く。

 そんな中、比良坂は眉一つ動かさず――ぐじゅぐじゅの足元に目もらず――よどみない歩速で進んでいった。


 第二理科室で比良坂と初めて会話を交わした次の日のこと。僕と比良坂はある洞窟へと向かっていた。

 こんなのでも、デートと言えるのだろうか……。

「ちょ、ちょっと、比良坂……っ」

 行き慣れているのであろう比良坂の速度についていけず、声を上げてしまった。


 比良坂には、祖母がいた。

 比良坂は、祖母を慕っていた。それはそれは、いたく慕っていた。

 そんな祖母は一昨日、亡くなったという。

 そして比良坂は亡くなる直前、祖母から二つの形見を受け取った。

 それは、〈鍵〉と〈勾玉〉だった。


 陽は今にも落ちそうだった。

 落ち葉の量はさらに増え、山道は険しさを増していく。石畳はもはや、落ち葉に隠れてひとつも見えない。落ち葉の間からは、不気味な色をしたキノコがちらりと覗いていた。

 横に目を遣ると、雑木林が暗いほど茂っていた。古い幹には藤だの木いちごだの山葡萄やまぶどうだののツル草が、やたらめったらに絡み合いながら群がっている。薄暗い雑木林に、木いちごの赤が見え隠れする。

 夏も近いのだろう、緑は豊かに茂っていた。腕がじんわりと汗ばむのを感じる。蒸し暑い。脚には疲労がたまっていた。


 その時、葉むらの影にちらりと文字が見えた気がした。

 邪魔な草葉をけると、『神瀬こうのせの石灰洞窟』という文字が現れた。

 それは、木造りの案内板だった。

 ずいぶん古いもののようで、文字はかすれていた。いたるところがこけやカビに侵され、支柱は腐りかけている。

 案内板は次のように続く。

『熊本県指定記念物昭和三七年八月七日指定』

『社名 狗奴野座くなのざ神社』

『祭神 伊邪那美命いざなみのみこと 速玉男命はやたまのをのみこと 泉事解男命ことさかのをのみこと

『大祭日 四月三日』

 前を向くと、洞窟が広がっていた。

 ――瞬間、湿気が晴れる。

 着いた。


 狗奴野座くなのざ神社。

 地元民――すなわち熊本県球磨くま神瀬こうのせ村の住民からは岩屋いわや神社と呼ばれるそれは、その通称が示すとおり、世にも珍しい――洞窟の中に作られた神社だ。

 石灰岩でできたそれは、洞窟といっても入り口は直径50メートルほどと、かなり広い。一見、ほら穴のようにも見える。だがその奥は70メートルほどあるらしく、しっかりと洞窟らしい。

 チチチ、と高い音が響いた。洞窟内に生息するイワツバメの鳴き声だ。

 その他に、雫が垂れる音もよく聞こえる。地肌の多くは鍾乳石となっており、天井からはその雫が垂れてくる。

 入り口あたりの岩を見ると、びっしりと苔がしていた。腐った木の幹には、細やかな植物が群がるように生えている。天井に目を遣るとツル草が垂れていて、その影を地に落としていた。


 光は程よく満ちており、静かな、緑の世界を形成していた。

 洞窟の入り口には朱色の鳥居がある。色は緑の背景に映えていて美しいが、高さは2メートルほどしかない。こじんまりとした鳥居だ。

 鳥居の横には御手水おちょうずがしつらえられている。絶えず溢れる流水は、岩のふねをなみなみと満たしていた。その滑らかな《へり》からは清水しみずが流れ落ち、地を覆う苔を豊かに潤している。


 しんしんと緑の積もる美しい岩屋。だがその鳥居を超えると、陽の光は一気に届かなくなり、植物の気配も消えてしまう。

 あるのは暗闇の中でぬらぬらと光る鍾乳石。垂れる雫。イワツバメの鳴き声と羽ばたきだけ。

 ……洞窟だ。

 そしてその洞窟の最奥――すなわち参道を抜けた先に、狗奴野座神社は鎮座していた。

 目的地だ。

 より慎重に、僕らは歩を進めた。


   *   *   *


「この辺は暗いし、下も濡れてて危ないたい。だけん、僕が先に……ほら、ちょうどペンライトー、持っとうけん」

 そう言いながら鞄の中からペンライトを取り出す。いざという時何かと役に立つと言い、兄ちゃんに無理矢理持たされたものだった。……しかしまさか、本当に役に立つとは思ってもいなかった。兄ちゃんに感謝だ。

 流石の比良坂もこの暗さには足が淀んでいたようで、素直に僕に先を譲った。

 男らしい様を魅せるチャンスだ。

 なんせこれは、特殊な形と言えど、一応、僕の初デートなのだから。


 ペンライトは、数メートル先の岩肌を白く照らした。光の加減で、ぬめっているのがわかる。また、モヤのようなものも映った。洞窟内のチリに反射しているのだろうか……。

 奥からはなんとなく風が吹いているように感じる。その風と水気からか、もう夏も近いのに、洞窟内はうすら寒かった。

 半袖から先の汗が乾き、体温を奪う。


「たいぎゃ明るいんね……ペンライトって、何……?」

「ペンライトは……小型の懐中電灯みたいなもんたい」

「懐中電灯……?」

「え?」

 意外な質問に、返事が一瞬遅れる。

「懐中電灯は……あの、携帯用のランプのこったい。停電した時とか、暗かとこ行くときに使う……あかりたい」

「ああ……! 提灯ちょうちんのこったいね」

「提灯!?」

 確かに提灯は昔、携帯用の灯りに使われていたと聞く。

 だが、そんなものを今使ってる人はいない。

 ――しかし、比良坂のそういうおかしな言動に、僕は不思議と惹きつけられるのだった。


「僕……比良坂のそういうちょっと変なところ、面白くて……」

 頬が熱くなる。

「す、好いと……」

「変じゃないもん」


 意外な返しに言葉が詰まる。一呼吸おいて「ご、ごめん……」と続けた。

 だがその時の比良坂の、少しだけ膨れたような顔が、いじけたような顔が、妙にかわいくって、やっぱり頬が、熱くなってしまうのだった。


   *   *   *


 僕の家、御神木おかもと家は神瀬こうのせ村随一の歴史的名家らしく、村医者や村議員、県議員を多数輩出している。

 らしい、という表現をしているのは、自分ではあまりそのような認識をしていないからだ。

 していない、というより、できない――という言い方のほうが正しいのかもしれない。その原因は、僕の兄ちゃんにある。


 兄ちゃんは、一言で言えば自由人だ。

 自分のやりたいことをずっと、やってきた。それでも幼い頃は自主性を尊重するとやらで、その自由な振る舞いも概ね寛容されてきた。兄ちゃんは自由人だが、それ以上に聡明だった。兄ちゃんは色々なものに手を出してきたが、その全ての分野で平均を上回る才覚、成績を発揮した。

 そんな兄ちゃんが家族から見放されるようになったのは、大学の一件からだ。


 両親は将来神瀬村で立派な人物として御神木おかもと家を支えられるよう、九州の国立大学への入学を望んだ。というより、それ以外を認めなかった。しかし兄ちゃんは自分の学びたい学問を学ぶべく、専門性の高い東京のマイナーな大学を勝手に受験。

 そして見事合格、入学したのだった。

 そのことにももちろん両親は怒ったのだが、それだけに飽き足らず、兄ちゃんはその研究のために日本全国を歩き回った。時には海外へ出向くこともあった。いわゆる実地調査フィールドワークだ。そのために大学の講義を何度も欠席することになり、最初の一年目で留年してしまったのだ。

 その後、多少落ち着いたかと思えば、今は新しい分野に手を出し始めたといい、周りが就職活動をしている中そっちのけで研究を行っていると聞く。

 なんなら今は家に帰り、ここ、熊本での調査に明け暮れている。もう四回生の夏休みになるが、どこの企業からも内定は得ていなかった。

 まぁ、僕は正直、兄ちゃんを縛り付けることのできる会社なんてないと思っているのだが……。


 そんなこともあり、弟として生まれた僕はとにかくの人生を歩むようにと、厳しく育てられた。

 あらゆる科目でオールマイティな成績をとるように、また学問のみにあらず運動や文化、礼儀作法といった教養面でも一通りの習熟をさせられた。他にも夜更かしや嗜好品の類は限りなく避けられ、常に栄養素を意識したバランスのいい食事と規則正しい生活を強制された。おかげで僕は友達が美味しそうに飲む炭酸飲料が苦手だ。

 文武両道かつ、健康的で文化的な生活。それは確かに辛く面倒な点もあったが、将来のことを考えれば、僕は素晴らしい教育を受けてきたのだろう。特にここ十年は空前の大不況で、職にあぶれる者が続出していると聞く。そんな中、僕は、理想的なレールを歩んでいるのかもしれない。

  に子育てを受け、にご飯を食べ、に運動をして、に寝て、に勉強をして、に遊び、に友達を作り、にデートをして、に就職して、に結婚して、に家や車を買い、に子を育て、に孫をもち、に余生をおくる――そんなの人生をおくれる人は、今の日本に一体どれだけの割合でいるのだろうか。

 普通に生きるというのは簡単なようで、実は、極めて難しい。


 兄のようにはなるなと、口癖のように言われ、育てられてきた。だが、それでも僕はどこかで、兄ちゃんのことを羨ましく思っていた。憧れていた。

 たとえ御神木家の恥だと言われても。

 兄ちゃんは、楽しそうだったから。


 いくら名家であると自称していても、所詮は一つの田舎村の中で偉ぶっているに過ぎない。

 対して兄ちゃんは、全国に名を馳せるような稀代きだいの人間になるのだろう。


 そうわかっていても、憧れていても、僕は両親に反抗することはできなかった。

 を外れて生きるのが、怖かったから。兄ちゃんみたいに見放されて生きることは、僕には選べなかった。僕は兄ちゃんみたいに、強くないから。

 そして、比良坂もまた。

 を外れてでも、自分を貫いて生きている。僕にできないことを、平然とやってのける。

 そんな彼女の強さに、自分にはないものに、きっと、惹かれてしまったのだ。

 そして、あわよくば……僕も、比良坂のいるような世界に、とは異なったに、踏み込んでみたい、と……。

僕はで――つまらない人間だから――


「そもそも、なしていてきとっと?」

 考えこんでいた対象から突然話を振られ、戸惑った。

「え? そ、それは……前から……一度、この岩屋の奥まで行ってみたいって、思ってたから……」

 言えない。比良坂のことが好きだから――なんて、言えるわけがない。

 比良坂は、「ふぅん」と興味なさげに目を逸らした。


 真っ黒な、比良坂の瞳。僕の心のうちにある、何とも言えないモヤモヤを、まとめて覆い隠してくれそうな、深い深い、夜のような瞳――

 その瞳に、僕の心は時折、飲み込まれてしまいそうな感覚に溺れるのだ。

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