第3話 土砂降りの心
翌日も雨は止まなかった。
昨日濡れた靴がまだ乾いていない。しかしどうせすぐに濡れてしまうので、胡桃は生乾きの靴を履いて家を出た。歩道に大きな水溜まりができているが、それを避けることすら面倒で胡桃は水溜まりを突っ切った。靴に水が浸みて冷たかった。
通学路をとぼとぼと歩く。
学校に続く坂道には、登校中の学生がたくさんいた。仲むつまじげな会話がそこかしこから聞こえて、それが胡桃の孤独な気持ちを助長させた。先週の試験の成績の話をしている。中間テスト、という単語を聞くだけで、心の底にどろっとした気持ち悪さを覚える。帰りたかった。
こうして気分が乗らないときでも、学校に行かなきゃいけないなんて。
ふと、胡桃は足を止めた。
——学校に行かなきゃ、いけない?
胡桃は顔を上げた。坂の上に、御月女子校の校舎が見える。傘をうつ雨音が、つんざくほどに耳に響く。後ろから歩いてきた生徒が、突然止まった胡桃をいぶかしげに見て通りすぎて行く。
——どうして、学校に行かなきゃいけないんだろう。
校舎をじっと見つめる。これまで2年とちょっと、通ってきた御月女子校の校舎。名の知れた建築家が設計したとかいうことで御月市でも有名な、きれいな外観の校舎だ。
その校舎が、ただの空虚な箱にしか思えない。何百人という生徒がこの箱の中に詰め込まれ、当たり前のように机に座り、そこで呪文のような公式の
そしてその光景は、ここだけのものじゃない。全国にある何千何万もの高校で行われている。
これまで何も考えなかった。6歳から学校に通うのは当たり前で、それに疑問を抱くことなくのうのうと高校生になった。国、社、数、理、英。早ければ小学校から、遅くても中学校から付き合いのあるこの5教科と、文句を言いながらもずっと連れ添ってここまでやってきた。これらと仲良くできれば『賢い人』と言われ、仲違いをしたら『バカな奴』と言われ、全国の子供たちがこれらと上手くやっていこうと努力する。それが当然だと思っていた。
勉強をして、その先にいったい何があるのだろう。
——私は、なんのために学校に通うのだろう。
遠くで雷が鳴り、地鳴りのような音が胡桃の体に響いた。その音が、まるで校舎のうなり声のように思えた。空虚な箱は、いまや生徒を食らう巨大な化け物へと姿を変えていた。一人、また一人と生徒が飲み込まれていく。バスが到着し、ぽっかり空いた穴の中に、次から次へと生徒が吸い込まれていく。
その様子を、胡桃はじっと見つめている。
どのくらいそうしていたのだろう。ふいに、ポンと肩を叩かれて胡桃は我に返った。
「胡桃、おはよう」
小町だった。黒い折りたたみ傘をさし、肩にかけているスクールバッグには革製の定期入れがかけられている。小町の制服があまり濡れていないのを見ると、御月駅から歩いてきたようだった。
「小町ちゃん。おはよう」
胡桃は小町の制服姿をまじまじと見た。こうやって普通の姿を見ると、小町は身長が高くてすらりとした体系であることに気づく。これだけ雨が降れば湿気で髪がぼさぼさになりそうなものなのに、小町の腰まである黒い髪は驚くほどサラサラしている。
「どうしたんだ、こんなところに突っ立って」
小町が胡桃の肩の雨を払いながら言った。
「雨のしたたる校舎に
「まあ、……そうなのかも」
胡桃はぼそっと呟いた。
小町の顔を胡桃は見る。剣道場で初めて会話したとき、小町が言っていたことを胡桃は思い出した。
——武士の気持ちが知りたくてな。
「……小町ちゃん、勉強ってなんのためにやるんだと思う?」
思っていた以上に思い詰めたような声が口から出てきたので、胡桃は慌てて付け加える。
「あ、ほら。ずっと勉強してたらちょっと迷ったりしない? 勉強することって意味あるのかなって。最近、ちょっと気になっちゃって」
「難しい質問だな。胡桃は、勉強をすることに意味がないと思うのか?」
「意味がない、とまでは言わないけど、でも私の人生には関係ないんじゃないかって思って。別に科学者や言語学者になりたいわけじゃないし、海外で働くつもりもないし。『勉強は夢を叶えるためのツール』って言われても、なんか納得できなくて」
「夢を叶えるツール? ——ってどういうことだ?」
「えっと、大学を卒業しなきゃなれない職業とかってあるでしょ? 研究者とか、政治家とか、先生とか。そういう夢を果たすためには大学に行かなきゃいけない。大学に行くためには入試で点を取らなきゃいけない。点を取るには勉強をしなきゃいけない。——そういう夢を叶える手段として勉強をするってこと」
「ああ、なるほど。就職するための道具、ってことか」
「うん。——でも、そんなに簡単に割り切れないっていうか。だって小さい頃からずっと勉強しなさいって言われて、中学校までは義務教育があって、それなのに、その勉強はただのツールです、じゃあなんだったのって。どうして全国の子供たちが受けなきゃいけないのって。そりゃ専門的な道に進むならいいよ。言語や科学の専門家になるなら国語や理科もためになるかもしれない。でも、私みたいに興味のない人からしたら、こうやって覚えた知識は、全部無駄になってしまうんだって思うと、」
——勉強をする意味がないような気がして。
思わず言ってしまいそうになったその言葉を、胡桃は何とか飲み込んだ。
小町は真剣な表情で胡桃を見ていた。そして何を思ったのか、悪戯っぽい笑みを浮かべて、
「なあ胡桃。今日、ちょっとだけ学校をサボらないか?」
「サボる?」
「ああ。付き合って欲しいところがあるんだ」
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