第2話 五月雨を集めて早し最上川
国谷文嘉は自宅のマンションの前で、傘を差して立っている。
今日は朝から雨。テレビのお天気お姉さんの話によると、本格的な梅雨に入ったらしい。
しとしとと降り続く雨をぼんやりと眺めていると、文嘉の頭に一つの俳句が浮かんだ。
梅雨で水かさが増し、
今は下水などの設備が整っているので、梅雨時期の雨くらいどうってことはない。けれど、当時の梅雨時期の川なんかは、まさに生と死を分ける脅威であっただのだろう。そういう自然の力強さや恐怖を、たったの十七文字で表現している。
実はこの俳句、最初に読まれたときは少し文面が違っていたらしい。最近、そのことを文嘉は知った。最初にこの句が詠まれたのは大石田という地に芭蕉が訪れ、俳句好きの集まりに参加したときのことで、そのときはこんな一句だったと言われている。
五月雨を 集めて
これを詠んだ後、松尾芭蕉は船に乗って最上川を下った。そこで最上川の
そんな物思いに更けていると、マンションの前の駐車場に真っ黒な高級車が入ってきた。
文嘉はそちらに向かって手を振った。
「飯塚さーん、こっちです!」
車は駐車場内でUターンし、文嘉のすぐ前に停まった。飯塚が運転席から降りてくる。アイロンをあてたスーツを着て、髪を七三で固めた米園英梨華の使用人。
「お早うございます、国谷様。お待たせして申し訳ございません」
「おはようございます。いやいや、まだ約束の時間とちゃいますし」
文嘉は自分の腕時計を見る。9時20分。毎週土曜日の家庭教師は10時からで、9時半に文嘉の家まで飯塚が迎えに来るとの約束だった。
飯塚が車の後部座席の扉を開いた。
「どうぞ」
「どーもー。いつもすみません」
この2週間で何度も車に乗せてもらったが、こうした丁寧な対応をされると文嘉は未だに恐縮してしまう。文嘉は小さく会釈して車に乗り込み、まるで本革のソファのような座席に腰掛けた。この座席がまた抜群の座り心地なのである。背もたれに身を任せると体が座席に沈んでいき、まるで宙に浮いているかのような感覚。
——あー、うち、このまま死ねるかも。
世の中不公平だと文嘉は思う。我が家のファミリーカーの固い座席を思い出すと泣けてくる。もし自分の車の座席がこれほど気持ちよかったら、1年くらいは自動車の中で生活できると半ば本気で思う。
「では、出発します」
「はーい、お願いします」
シフトレバーがローに差し込まれ、車が発進する。マニュアル車なのに、シフトチェンジの際に車体が微塵も揺れない。無駄のない動きでシフトを変える飯塚の後ろ姿を見ながら、まるでロボットみたいな人だと文嘉は思う。
「そういえば昨日、中間テストの成績表が帰ってきましたけど、米園さん、1位やったらしいですね」
「はい。お嬢様からお聞きに?」
「いや直接やないんですけど、なんか、放課後に帰ろうと思ったら、どっかからめっちゃ大きい声が聞こえたんですよ。わたくしが1位ですわーって。あれ、やっぱり米園さんやったんでしょ?」
「はい、確かにお嬢様です」
「そうですか、ほんま良かったです」
返答にわずかな間があった。
「はい」
なんだか気味の悪い間だ、と感じた。
あまり触れない方が良いと思って別の方向に話題を変えようと思った。かといってあまりに違いすぎる話題も変なので、英梨華のことでこんな質問をしてみた。
「米園さんって、これまであんまり塾とか家庭教師とかって受けたことがないんですか? 人に勉強を教わるのになれてない感じがしてたんですけど」
ミラー越しに、飯塚の驚いた顔が見えた。
「お嬢様からお聞きになったのですか?」
「——え? いや、なんとなく、一緒に勉強しててそう思っただけですけど、」
車内に沈黙が訪れた。しばらくして、飯塚がこわばった口調でこう言った。
「国谷様に、お話ししたいことがあります」
「――はい、なんですか?」
「国谷様の仰るとおり、お嬢様はこれまで、学校以外で誰かに勉強を教わったことが一度もありませんでした。塾に通ったことも、家庭教師を招いたこともありません」
やっぱりそうなのか、と文嘉は思った。授業中、英梨華は質問することに慣れていないような感じがしたのだ。
「お嬢様は昔から分からないところがあったら、誰かに質問することはせず、参考書を引っ張り出して自分で解決していました」
車が赤信号で止まった。飯塚はシフトレバーをニュートラルに入れ、クラッチペダルから足を外した。バックミラー越しに飯塚と目が合う。
「お嬢様はだれにも努力をするところを見せたがりませんでした。それは、お嬢様のお父様とお母様に対してもそうでした。勉強だけでなく、ピアノの練習もほとんどが独学でした。練習するときは私に見張りをさせて、だれにも努力の影を見せないでいたのです」
「——それには、何か理由があったんですか?」
「おそらく、自分はこのくらいできるのが当然だ、と周りに見せたかったのだと思います。小さいときから、特別扱いをされることが多かったので」
はあ、なるほど、と文嘉は呟いた。
青信号になり、車が発進する。
「お嬢様はいつでも1番でした。でもそのかわりに、——1人で努力をする代わりに、お嬢様はご友人と過ごす時間が少なかったのです。お嬢様はいつも1番で、そして1人でした。私はそんなお嬢様が、少し心配でした。ですが、お嬢様は1位であることで満足していたようですので、私もお嬢様がそれで良いなら良いと、思っていました」
なるほど、と文嘉は思った。
「なのに、この間の試験で負けたってしまった、ってことですか」
「はい。お嬢様は家庭教師を連れてこいと仰いました。2位になったとはいえ、てっきりご自分で勉強するものだと私は思っていたので、お嬢様のその言葉に私は驚きました」
文嘉は何も言わず頷いた。
「さらに驚いたことに、お嬢様はとても口調が荒々しかったのです。よほど2位になったことが悔しかったのだろうと始めは思っていました。でも、話を聞くと自分が2位になったことよりも、1番になった女生徒に対して怒りを覚えているのだということに気づきました。お嬢様があれほど怒りを誰か特定の人に向けるのは、私の記憶してる限り初めてでした。そのため、これはもしかしたら、お嬢様の中に何かしらの変化があったのかもしれない、お嬢様にとって大きな転機になるのではないか、と私は思いました」
そこで飯塚は言葉を切った。高級車というだけあって、会話が止まると車内はとても静かになる。
文嘉は飯塚の言葉を待っていたが、長い沈黙に耐えられず、
「それで、うちを?」
ミラーの中の飯塚が頷いた。
「正直に申し上げますと、そうです。国谷様とご一緒に過ごすことによって、お嬢様に何かしらの変化があればいいなと、——お嬢様に友人と呼べる関係の人ができたら良いと思ったのです」
文嘉は俯いた。
飯塚の言うことは、文嘉にとっては嬉しい話に違いなかった。
自分が英梨華の友人としてふさわしいと思ってくれたこともそうだし、お願いされていることも光栄なことだとは思う。事実、英梨華と部屋で一緒に勉強をするのは楽しい。最近は家庭教師の日を心待ちにしていた。それは本当だ。けれど、英梨華自身に直々にお願いされているならともかく、本人が不在のこの場所で、勝手に「分かりました、私が友達になってあげます」というのもなんだか違う気がする。英梨華も不本意だろう。
それに、飯塚は少し勘違いをしている気がする。
英梨華に何かしらの変化があったのは本当かもしれないが、それは決して友達がいないという現状を
顔を上げると、ミラー越しに飯塚と目が合った。
文嘉の返事を、待っているようだった。
「米園さんなら心配しなくても大丈夫やと思いますけどね」
文嘉は言った。
「今日会ったらちょっと話してみます。多分、今日は機嫌がええんでしょうし」
「いいえ」
飯塚がきっぱりと言った。
「お嬢様は昨日から非常に機嫌が悪いです」
「——え?」
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