十九日目の夕方

 アサミとふたり。いつもの学校からの帰り道。寄り道がしたい気分だった。なんとなくまだ家に帰るのは早い気がした。

「今日お姉ちゃんバイトなんだって」

 寄り道しようとなんで私は素直に言えないのだろう。他に用事でもない限りアサミはきっと付き合ってくれると思う。

「マキさんもよく働くねー」

「うん」

「大学もあるのに大変そうだよね」

「うん」

 アサミは立ち止まり、私を見る。私もアサミを見る。アサミは小さなため息をひとつして、苦笑いを浮かべている。

「……行く? ロンドン」

「うん」

 私はいつものように答えようとしたけれど、出来ていたかどうかはよくわからない。頬が緩むのを感じるし、アサミは隣でまだ苦笑いのままだ。


 ロンドンは暖かった。そこで私たちはロンドンでは珍しい期間限定のメニューであるホットチョコレートを待っている。

 カウンターではお姉ちゃんがそのホットチョコレートを作ってくれている。はず。いつもの奥まった席からではカウンターの中まではよく見えない。

 珍しく会話がない。相変わらず私たち以外のお客さんはいない。空調の音だけが聞こえる静かな店内で、アサミは黙って窓の外を見ている。

 静かなアサミは珍しい。なにか考えごとでもしているのだろうか。それともやっぱりあまり寄り道には乗り気じゃなかったのだろうか。

 私も同じように外を見る。窓の外は駐車場で、お姉ちゃんのダークグリーンの車だけが止まっている。空は朝からずっと曇ったままだ。雪は降らないのだろうか。

「お待たせしました。ホットチョコレートです」

 お姉ちゃんがホットチョコレートを持ってきて、私たちの前に置く。

「ごゆっくり」

 お姉ちゃんはそのままカウンターに戻り、椅子に座って、本を読み始める。

 ホットチョコレートのカップを両手で包むように取る。まだ外の寒さを残している指先がじんわりと温かくなる。

 甘い匂いがする。アサミはまだ外を見ている。ホットチョコレートを飲む。とろりとしたチョコレート。飲むとチョコの香りが広がる。甘い。

 カップを置く。きっとくちびるにまだチョコがついている。くちびるをそっと舐めとる。甘いくちびる。おいしい。

 満足気に自分のくちびるを味わう私をアサミが見ていた。

「ついてるよ」

 アサミはくちびるの上を指差す。思わず手の甲で拭う。甲が少しベタっとする。

 アサミがまた苦笑いを浮かべて私を見ている。

「……なに?」

「なんでもない。私も飲もっと」

 アサミもカップを取って、ホットチョコレートを飲む。

「んーおいしー!」

 一瞬にしていつものアサミに戻る。

「マキさんおいしいです!」

 お姉ちゃんからの返事はない。

「大きな声出すとお姉ちゃんに怒られるよ」

 一応、注意するけれど、内心はホッとしていた。とりあえずは、ホットチョコレートを美味しそうに飲んでくれている。

「でも、おいしいよ?」

 でも、やっぱりお店で大声はよくないと思う。他にお客さんがいなかったとしてもだ。

「伝えたい。この気持ち」

「そういうのいいから」

「でも、大事だよ」

「それはそうだけど」

 それは私もよくわかっている。わかってはいる。だけど、中々アサミみたいにはいかない。

「まあ、ミキちゃん鈍感だからなー」

 失礼な。

「この前、炭谷さんのだってさ」

「いつの話?」

「ほら、お昼一緒に食べたとき」

「あー、炭谷さんが教室入る前に言ってたやつ?」

 すっかり忘れてました。みたいな雰囲気を出すけれど、実はあれがどういう意味だったのか私にはよくわかっていなかった。

「うん。それかな」

「あれってつまり。どういうこと?」

「炭谷さんに見られるのは別に気にしなくてもいいってことだよ」

「そうなの?」

「そうなの」

「そうなんだ」

 よくわからないけれど、あのとき炭谷さんと少し話を出来たのよかったと思う。今日も一、二度目が合ったけど、前ほど気にならなくなっていた。それに少し話もした。だから、多分そうなのだろう。

「ミキちゃんは心配しすぎなんだよ」

「そんなことないと思うけど」

「ミキちゃんが思ってるより、みんなミキちゃんのこと好きだと思うよ」

 咄嗟に返事が出来なかった。アサミはにやりと笑う。

「そ、そんなことないと思うけど……」

 だって、クラスでまともに話すのはアサミくらいで、森さんとは最近ようやく話すようになってきた。炭谷さんもそう。それに他の人とは挨拶くらいで、体育とか、そういう授業のときくらい。

「まあ、いいけどねー」

 なにがいいのだろうか。なにもよくない気がする。

「ミキちゃんはそのままでいいよ」

「なにそれ」

 別になにかを変えようとは思っていない。あえて言えば煙草をやめたことくらい。

「煙草もやめてくれたしね」

「アサミのためじゃないけどね」

「えー」

「節約と健康のためだし」

 実際、節約効果は結構すごくて、おかげでなにも気にせずホットチョコレートを飲める。健康になったかはよくわからない。

「えー。私のためでしょ?」

 アサミはにやにやと笑っている。だから、私は黙って首を横に振って、ホットチョコレートを飲む。

「素直じゃないなー」

 アサミもホットチョコレートを飲む。

「でも、結構続いているよねー」

「煙草?」

「うん」

「三日くらいで終わると思ってた」

 おい。

 でも、正直私も三日くらいで終わるかもと思っていた。だけど、そろそろやめてから三週間くらいになる。もう吸わないのが普通になってきている。なんとなく憧れだけで吸い始めた煙草。なんとなく吸わなくなるのもそれはそれでいいような気もする。

「やっぱり私のためだからかなー」

 性懲りもなくアサミはにやにやと笑う。今日はなんかいつもよりちょっとイジワルだ。

「……まあ、そうかもね」

 だから、ちょっと仕返し。

 アサミは一瞬固まって、そして「でしょ!」と、さっきより少し大きな声で言った。お姉ちゃんがちらりと私たちのほうを見て、すぐに本に視線を戻す。

 でも、アサミのためにやめたというのは間違いではない気はする。やめたのはあのときの屋上の雰囲気で、なんとなくかも知れないけれど、今煙草をやめ続けているのはそうじゃないと思う。私はなにか理由があってやめているのだと思う。理由と言うのも大げさで、アサミと一緒に卒業したいからというのともちょっと違う気がする。そんな先のことじゃない。

 それがなにかは私にもよくわからない。でも、やっぱりアサミは関係ないとは思えなくて、だから、きっとアサミはどこかで関係しているのだと思う。

 だから、アサミのためというのも少しはあるのだと思う。私が煙草をやめるとどうアサミのためになるのかはわからないけれど、私は多分明日も煙草は吸わないだろう。

 アサミは残ったホットチョコレートを一気に飲み干す。

「帰ろっか」

「そうだね」

 私もホットチョコレートを飲み干す。最後の一口が一番甘くてほろ苦い。

「あっ」

 アサミが窓を見ている。私も視線を窓に向ける。

「あっ」

 雪が降っていた。


「お姉ちゃん。まだバイト?」

 お姉ちゃんは黙って頷き、ホットチョコレート代を受け取る。

「そっか。じゃあ先帰るね」

「ありがとうございました」

 律儀にお辞儀をするのがお姉ちゃんらしい。

「マキさんばいばーい!」

「じゃあ、またあとで」

 扉を開ける。ちりんちりんとベルが鳴る。冷たい空気がロンドンに流れ込む。空気と一緒に雪も入り込んでくる。雪は床に落ちると、すぐに解けて消えた。

「気をつけて」

 私とアサミはお姉ちゃんに手を振って、外に出る。ちりんちりんとまたベルが鳴って、扉が閉まる。

 ちらちらと雪が降っている。積もるだろうか。積もったら良いと思う。

「寒いねー」

「うん」

 私の帰り道は左で、アサミの帰り道は右。だから、ロンドンに来ると私たちはいつもお店の前で別れる。

「じゃあ、また、明日学校で!」

 アサミは寒いのに元気だ。

「うん。また明日」

 私もアサミも動かない。前髪についた雪がロンドンから漏れる明かりで、ちらりと光る。

「アサミ」

「ん?」

「今日はありがと。寄り道付き合ってくれて」

「うん」

「じゃあ。また明日」

「また明日」


 次の日、アサミは学校を休んだ。

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