ざっくり三百日と五時間くらい前

 昼休み。森さんは大体炭谷さんと学食へ行っているらしい。森さんは席を立つとき、私に軽く手を振った。私もそれに応えて軽く手を振る。

「ゆっきー。席借りていい?」

「うん。いいよ」

「ありがとー」

 そして、森さんと入れ替わりにアサミがやってきた。森さんの椅子にアサミは座る。

「さて、ミキちゃん」

 アサミは座るなり、手を顔の前で組み、真面目なフリをする。

「ゆっきーと仲良くなったかね」

 なんだ。その質問。

 ロンドンで森さんに会ってから、私と森さんは確かに少し話すことが増えた。かと言ってものすごく仲良くなったかと言えば、そんなこともない。

 私には私の、森さんには森さんのリズムがある。それがいきなり変わることはない。お昼を一緒に食べるわけでもない。一緒に帰ることもない。

 今朝も森さんとは少し喋った。だけど、本当に些細なことで、別に友達じゃなくてもこのくらいの会話はするだろう。そんなレベルの会話だった。

『漆原さん。おはよう』

『あ、森さん。おはよう』

『今日は寒いね』

『うん。そうだね』

 これだけ。このくらいの会話、誰とでもする思う。

 いや、ダメだ。思い返して気付いた。これ、仕方なくあいさつしたけど、あいさつだけじゃアレだから、とりあえず気温の話でもしておこう。的なやつな気がしてきた。私の返事がその感じを補強している。むしろ、これ悪いのは私だ。

 ただ、このほんの些細な会話に以前のような居心地の悪さみたいなものを感じなかった。今までほど距離感は感じない。実際、思い返すまでこの会話で私がやらかしていることに気づかなかった。それは良いことな気がしないでもない。いや、でもやっぱり私が悪い。

「わかんない」

 私は考えるのをやめた。

「えー。なにそれー」

 アサミは真面目なフリをやめて、背もたれに身体を預け、天井を向く。アサミの細くて白い首筋が見える。

「大体さっ!」

 背もたれに預けた身体をぐわんと一気に起こす。髪が揺れて、日の光に反射する。ほのかに茶色いアサミの髪がキラキラと光る。それを私はぼーっと見ている。アサミの髪は出会ったころからさらさらで、うっすらとナチュラルに茶色い髪が私は好きだった。きっと生まれつきなんだろうと思う。私の地毛は真っ黒で、金髪に染めるのも中々大変。

「まあ、いいや。お弁当食べよー」

 アサミは私がぼけーっとしているのに気付いたのか、さっさと話を切り上げる。お弁当を取り出して、「いただきまーす」とさっさと食べ始める。

 アサミは私と森さんが仲良くなってほしいのだろうか。別に仲が悪いわけではないと思う。だけど、アサミがなんで私と森さんを仲良くさせようとしているのかはよくわからない。アサミと森さんは仲が良いから、自分の友達と友達が仲良くなったら良いということだろうか。それにしては今更な気もする。もう少しで私たちは二年生になる。クラス替えだってあるし、今やることではない気もする。

 それに私と森さんが仲良くなる。そのイメージがいまいち湧かない。そもそもの話として――。

「……仲良くなるってなんだろ」

 思わず口から出てしまった。

「哲学だねー。愛。語っちゃう?」

 アサミはお弁当のアスパラベーコンを突きながら言う。愛を語るにはカジュアル過ぎる。

「そこまでの話じゃないけど」

 そもそも愛ではなくて友情の話だ。友情というのも大げさな気がするけど、多分その話。

「自然といつの間にか仲良くなるもんだよね。私たちみたいに」

 私たち。私とアサミ。私たちは自然と仲良くなった? そんな気は全然しないのだけど、アサミにとってはそうなのだろうか。

「ミキちゃん覚えてる? 私たちの馴れ初め」

 馴れ初め言うな。でも忘れるわけがなかった。まあ、まだ一年も経っていないから当たり前と言えば当たり前かも知れないけれど……。


 あれは入学式の日。私は一人体育館裏にいた。まだ入学式は始まっていない。お父さんもお母さんも仕事があって、お姉ちゃんが入学式に来ることになっていた。そのお姉ちゃんに「新入生も一回教室集合だから」と言って、早めに家を出た。嘘はついていない。ただ、集合時間はもっと遅かった。

 私は髪を金色に染めて、煙草を吸い始めたばかりだった。私には一度やってみたいことがあった。別に大したことじゃない。ただ、体育館裏で煙草を吸う。そんな不良じみたことをしてみたかった。それだけだった。

 なんで不良と呼ばれる人たちは、見つかりにくいのか見つかりやすいのかよくわからない体育館裏という場所で煙草を吸うのか。私にはそれがよくわからなかった。見つかりたくないなら、もっと見つかりにくい場所で吸えばいいと思う。だけど、あえて、体育館裏で吸うのだから、なにか理由があるのかも知れない。それが知りたかった。だから、体育館裏で吸ってみたかった。

 まさか、入学式の日に新入生が体育館裏で煙草を吸っているなんて思わないだろう。あと入学式の日に上級生の不良がここで煙草を吸っている可能性も低いように思えた。そもそもこの学校にそんなわかりやすい不良がいるとは思えないけど、一応、念のため。だって、不良は怖い。

 体育館裏に来るまでの道は知っていた。お姉ちゃんの文化祭や体育祭を見に来たときに来たことがあった。

 体育館裏は少しジメっとしていた。確かに隠れてなにかをするには良い場所なのかも知れない。

 多分、私と同じ新入生っぽい人たちにも、先生たちにも見つからずにここまで来れたと思う。それでも私は来た道から他に誰も来ていないか何回も確認した。右見て左見てもう一度右見てを何度も何度も繰り返した。生まれて初めて一人で横断歩道を渡る子供だってこんなに確認しないだろう。そのくらいしっかりと確認をして、私は煙草を咥え、火をつけた。

 不良ならきっと壁に寄りかかったり、地べたに座って吸うのだろう。でも私は立ったまま吸った。新しい制服が汚れるのが嫌だった。

 何度か煙を吐き出して、思った。

 ものすごく怖い。見つかったらどうしよう。煙草の味なんてまったくわからなかった。早く吸い終わりたかった。灰も一粒残らず携帯灰皿に入れた。一粒も落としたくなかった。不良の気持ちは一ミリもわからなかった。ただ、なぜかこの一本だけは吸い切ろうと思っていた。

 あと一息で吸い終わる。その瞬間、声がした。

「不良……?」

 声がした方向を見る。私と同じ下ろし立ての制服を着た女の子がそこにいた。

「ち、違います」

 咄嗟に否定したけれど、説得力がないことは私にもわかっていた。体育館裏で煙草を吸っている金髪の生徒。誰が見ても不良だと思う。

 女の子は警戒していた。それはそうだろう。入学早々、入学式の日に不良に絡まれるとか最悪の新生活のスタートだろう。ただ、それは間違いだと無用の心配だと私は彼女に伝えなければならなかった。そもそも私は絡まないし不良じゃない。でも、それを彼女に分かってもらえなければ、私の高校生活は入学式の日に、入学式に出ることもなく終わる。先生に報告されればもう終わり、入学早々終わるのは彼女ではなく私のほうだ。

「あの、ひょっとしたら怖がらせちゃったかもしれないけど、私は不良じゃないんです」

「髪……」

 彼女は自分の髪を摘み、私の髪と比べ見て、なぜか憮然とした顔をしている。

 ひょっとして、金髪に目が行って煙草に気付いていないかも。金髪自体はここでは校則違反じゃないはずだ。お姉ちゃんが大丈夫と言っていたから、多分大丈夫。

 煙草に気付いていないならなんとかなる。と思ってけど、それは無理だった。短くなっていた煙草が私の中指をジッと焼いた。

「あっつ!」

 煙草が地面に落ちる。彼女はそれを見る。

 言い訳不可能。でも、私は不可能を可能にしなければならなかった。言い訳出来なくてもなんとかしなければ。

「ちが――」

 私が全て言い終わる前に、彼女は私に背を向けて走って逃げた。『ちがう』くらい言わせてくれてもよかったと思う。

 終わった。さよなら私の高校生活。

 でも、しょうがない。彼女だって入学早々、こんな場面に遭遇して、怖い思いをして、それを先生に言わなくちゃいけない。それはとてもつらいことだと思う。入学してすぐに味わいたい気持ちではないだろう。もしかしたら、私に報復されるかもと考えて、誰にも言わないかも知れない。そうなれば私は高校生活を送れるだろう。でも、彼女は私を見かけるたびに嫌な気持ちになるだろう。怖いと思うだろう。そんな思いをさせたくはなかった。

 私は屈んで地面に落ちた煙草を拾う。しっかりと火を消して、携帯灰皿に入れる。指が痛い。中指の側面が赤くなっている。私はそこを一度舐めて、唇をつける。火傷だ。本当は冷やさないといけないのだろうけど、今はこのくらいしか出来ない。気休めにもならない。指は悲しみの味がした。

「これ! 使って!」

 声がして顔を上げると、さっき逃げた彼女がハンカチを差し出していた。ハンカチは濡れていた。私はそれを受け取り、指に当てる。ひんやりして気持ちが良かった。

「……ありがとう」

「大丈夫?」

「うん」

「本当は保健室かどこかで氷でも貰ってくればよかったんだけど、場所がわからなくてさー」

 ごめんね。と言って彼女は笑った。謝らないといけないのは私のほうだ。

「ううん。ありがとう。それと、ごめんなさい。怖かった……ですよね」

 彼女は驚いた顔をして、すぐに困ったように頭をかいた。

「……あのね。お礼にって言ったらアレなんだけど、教室まで案内してくれない?」

 それは私が思っていたのとは違う方向の言葉だった。

「あ、うん。もちろん。私でよければ」

 きっと校内を迷っているうちに体育館裏に来てしまったのだろう。迷っても中々来ることはないとは思うけど、事実来ているのだからしょうがない。これはわかった。

「あと、私と友達になってくれない?」

「は?」

 ただ、これが私には理解出来なかった。

「私、友達いないんだ」

 重い。いきなり重い。

「この春にこっちに引っ越して来たばっかりなんだ」

 軽い。一気に軽くなった。

「煙草のこと黙っててあげるから」

 脅してきた。さらっと、だけど、確実に。私は頷くしかなかった。

「よかったー。私、和久井アサミ。よろしくね」

「漆原ミキです。よろしく……」

「ミキちゃん! その髪、可愛いね!」

 そう言って、アサミは笑った。


 結局、アサミとはクラスも同じで、今、一緒にお昼を食べている。これが自然に友達になったということなのだろうか。私にはいまいちそうは思えなかった。

「そういえばさ。私があのとき断ったら先生に言ってたの?」

「え? 言うわけないよー。だって、友達だよ?」

 私は首をかしげる。なんか噛み合ってない。煙草のことを黙っていてくれる代わりに私たちは友達になったのではないのだろうか。私が断ったらその前提が無くなってしまう。

 だけど、前提が無くなっているのは今も同じだ。私はもう煙草を吸っていない。先生に言っても証拠がない。最近まで屋上で吸っていたけれど、あそこは普段鍵がかかっている。だから、誰かに見つかる心配はほとんどない。実際、知っているのはアサミだけのはずだ。それに証拠がないのは、同じことだ。だから脅しはもう効果がない。そのことに今気付いた。そもそも脅されていたこと自体、完全に忘れていた。忘れるわけがないってことはなかった。普通に忘れてた。

「あっ……」

 唐突に私は気付いた。

「なに?」

「なんでもない」

「えー。おしえてよー」

「なんでもないって」

 私の疑問が入学式からようやく今、晴れた。不良はきっと誰かに見つけて欲しくて、誰かにハンカチを差し出してもらいたくて、友達が欲しくて、体育館裏で煙草を吸うのかも知れない。

 だから、私が体育館裏で煙草を吸うことも、アサミが私を脅すことももうないだろう。アサミと私は一緒にお昼を食べている。つまり、そういうことだ。

「アサミ、あのとき私のこと脅したよね?」

 あえて、話題にしてみる。アサミもこれには苦笑いを浮かべる。

「あれはさー。えー。ごめんってー」

「いいよ。友達だもんね」

 多分、私は初めてアサミのことを『友達』だと口にしたと思う。普段はあえて言うこともないし、そんな場面もない。

 だけど今、私はアサミに、アサミは私の友達だと言いたかった。

 そういう気分だった。

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