カオスは続くよどこまでも

 気が重い……。設楽さんとセンパイさんとやらが注文したメニューが、そろそろ完成しそうだ……。和服にたすき掛けといういつもの服装の女性料理長が、テキパキと刺身の盛り合わせを仕上げていくその所作は、見ていていつも惚れ惚れするのだけれど……今日だけは、その様子を眺めるのが憂鬱だ。


「……よし」

「……」

「お刺身の盛り合わせとシーザーサラダと厚焼き玉子、全部できました。お客様の元に持って行ってください」


 設楽さんに負けず劣らずのキレイな黒髪をポニーテールでまとめた料理長が、私にそう声をかけてくるんだけど……最初、私は料理長の言葉を幻聴だと思っていた。……いや、幻聴だと信じたかった。


「……」

「……?」


 私と料理長の間に気まずい沈黙が流れる。しばらくの静寂の後、料理長は私の顔を不思議そうに覗き込んできた。


「川村さん?」

「ひゃい!?」

「メニューが出来たので持っていってもらいたいのですが……?」

「うう……」

「? どうかしました?」


 耳に届く料理長の声は、本当に優しい。私が一向に料理を運ぼうとせず、まごついているのが不思議なようだ。


 私だって、あれが普通のお客様なら、いつもどおり『了解ですっ』と返事して、すぐに持っていくんだけど……うつむき気味で料理長の顔から視線を外し、私はこっそりとフロアの朋美ちゃんの様子を伺った。


 先程、逃げるように厨房から姿を消した朋美ちゃんは、今ではフロア内を忙しそうに歩き回っている。そのさまは、『私は今忙しいので、設楽さんが牛耳る個室席には行けませんッ!!』と周囲にアピールしているかのようだ。おかげで私がフロアに出る幕はなく、必然的に設楽さんたちの個室へは、私が運ばなくてはいけなくなる……。


 しかし……


「料理長~……私が持って行かなきゃいけませんかねぇ……」

「そうですねぇ……朋美さんはフロアの方で忙しいみたいですし……となると川村さんに運んでいただきたいのですが……」

「うう……気が重い……」


 あの空間に三度、足を踏み入れねばならない……その事実が、私の心に重くのしかかる……


 実は、今回私の足が重いのは、何も設楽さんの眼差しが恐ろしいからだけではない。私は先程、ある致命的なミスを犯してしまった。


……

…………

………………


 それは、私がカシスオレンジと黒霧島、そしてお通しのもずく酢をお持ちしたときのことだ。


「お待たせいたしました! ドリンクをお持ちしました!」


 私は個室の障子を開けた後、努めて元気に振る舞いながら、お持ちしたカシスオレンジと黒霧島をテーブルに置いたのだが……


「こちらが黒霧島でーす!」

「……あ」

「……」

「あとこちらが……か、カシスオレンジでーす!!」

「……」

「……」


 ひええ……黒霧島を“先輩”の前に置いた途端、設楽さんの目つきが険しくなったよぅ……カシオレを設楽さんの前に置いただけで、設楽さんの目に殺気がこもり始めたよぅ……目が冷たいよぅ……私のハートに設楽さんの視線が突き刺さってくるよぅ……


「……」

「……」

「あ、あとこちらが!? お、お通しになりまぁあすッ!?」

「……」

「……」

「ごゆっくりぃぃい!?」


 も、もうこれ以上設楽さんの視線に耐えられないッ! そう思った私は、後ろ手で障子を開き、逃げるように個室を後にする。その時……


『なんで言わなかったんですか』

『何をだよ』

『あ! あのぉおお! ぼく甘党なんでー、カシオレはこっちに下さぁあい!! ……とか言えばよかったじゃないですか』


 そんな会話が障子越しに聞こえてきた。ということは、どうやら黒霧島は設楽さんのオーダーで、カシオレはあの“先輩”とやらのオーダーのようだ。しまった……あの二人から発せられる混沌のオーラに飲まれ、普段のように『黒霧島のお客様~?』と確認を取ることが出来てなかった……


「しまったぁああ……」


 私の頭を自責の念が襲う。自分の情けなさに頭を抱え、がっくりとうなだれながら厨房へと戻った。なぜ落ち着いて普段どおりの接客が出来なかったのだ……私もこのバイトを始めて2年ほど経つというのに、こんな初心者のような失敗をしてしまうだなんて……。


 ……いや、正常な判断が出来ない原因はわかっている。設楽さんとセンパイさんの二人が巣食う、あの個室の空気のせいだ。あの仏頂面の設楽さんの、殺人経験者のような氷の眼差しに、私の心が無駄に恐怖心を掻き立てられているのだ……。


 次、お料理を持っていくときのことを考えると気が重い……。あの二人のオーダー何だっけ……お刺身の盛り合わせとサラダと厚焼き玉子……なら、何も私が持っていかなくてもいいはずだ。例えば今、フロアで忙しく動き回り、頭の中から少しでも設楽さんの悪夢を振り払おうと奮闘する朋美ちゃんでもいいはずなんだけど……代わって欲しい……もうあの空間に顔を出したくない……


………………

…………

……


 そんなことがあり、私は今、あの二人の個室に顔を出したくなかった。確認もせず、そっくり逆にドリンクを置いてしまった大失敗……それだけでも恥ずかしいのに、そんな失敗をしでかしてしまった相手は、あろうことか設楽さん……いやだー……


―― 私の前にカシオレなんて甘ったるいお酒を置いた罪は重いですよ……?


 そんな眼差しでジッと見つめられたら……いやだー……怖いよぅ……助けて花子……乳搾りさせて……


 なんて、私が顔中に『持って行きたくない』と書かれたような、泣きそうな顔で葛藤していたら、である。


「そんなに持って行きたくないんですか?」

「うう……はい……」

「なら……私が持っていくしかありませんか……」


 と料理長さんが苦笑いを浮かべながらポツリとつぶやいた。このつぶやきは、私にとってはとてもありがたい申し出だけど、それだけはのめない。


「……い、いや料理長!」

「はい?」

「ここは私が持っていきます……いや、持っていきたいです!!」

「そうですか? でもどうしても嫌なら、無理なさらなくても……」

「いや! 確かにあの個室には行きたくないですけど……でも! そんなことで料理長のお手を煩わせるわけには……!!」


 私と料理長の眼の前に並ぶ、絶品のお刺身その他のメニューが乗ったお盆を持ち上げ、私は店の奥にある個室をキッと睨んだ。そんな私の横では、料理長が心配そうにおろおろと私を見守っているのが、手に取るようにわかる。


「川村さん? ホントに大丈夫ですか?」

「大丈夫です! だから料理長は……お料理に専念してください!!」


 心配そうに声を掛ける料理長に、私は冷や汗混じりのサムズアップで『平気だ!』アピールをする。正直、やせ我慢がどこまでバレているのか心配でならないが、それでも、料理長に接客に行かせるよりはマシだ。


 いつも目が濁りきって無気力なオーナーとは違い、料理長はいつも従業員のみんなに優しい。どんなに店内が忙しくても笑顔を絶やさず私達を気遣い、暇な時間は私達に丁寧に料理を教えてくれる。相談事には全力で力になってくれるし、料理長を『お母さん』と慕う仕事仲間も多い。言っても『お母さん』というには若い人だし、とても仲の良い彼氏だっているらしいのだが……


 とにかく私は、そんなステキな料理長が大好きだ。故郷に残してきた雌牛の花子と同じぐらい好きだ。だからこそ、料理長には自身の仕事である調理に専念してもらいたい。尊敬する料理長に、あの個室にオーダーの品を運ぶという雑務をしてほしくないのだ。


 確かにあの個室に関わるのは嫌だ。だが、料理長の手を煩わせるのはもっと嫌だ。私は冷や汗をダラダラと垂らしながらも、勢いでお盆を手に取り、そして頭が『嫌だ!!』と悲鳴を上げる前に身体を動かして、魔窟と化した禁断の設楽個室へと向かった。


「無理はなさらないで! ご武運を!!」


 なんだか場違いに勇ましい料理長の不思議な応援をバックに、私は、50トンぐらいにまで質量が膨れ上がった両足を必死に動かして、無理やりに自分の体を前進させた。



 そうして個室前に到着。障子の向こう側では、二人の会話が聞こえてくる。


『妥協だの我慢だの……そこまでクライアントに不利益を平然と押し付けるか』

『次に、先輩の女性の胸の好みですが』

『いきなり話が飛ぶな』

『俗に “おっぱい”と呼ばれているものですが、分かりますか』

『いちいち言い直さなくても分かる』


 その会話の意味不明さが、私の頭をさらに混乱させる。一体二人は何の会話をしてるの……? 会話の内容がまったく読めないんだけど……なんでそんなものすごく冷静かつ感情の起伏がまったくない声で『おっぱい』とか言ってるの……設楽さん『察していただきたい』って言ってるけど、一体私は何を察すればいいの……


 花子ぉ~。私はもう分からない……これが都会の恐ろしさなのかな……花子の乳搾りしたいよ……花子のおっぱいに癒やされたいよ……。


 しかし、ここでもし自分に負けて厨房に戻ってしまったら……大好きな料理長に、また余計な心配をかけてしまうことになる。


――そうですか……なら、致し方ありませんね……


 優しい料理長のことだ……私が疲れ切り打ちひしがれた姿を見た途端、『なら私がお持ちします』と言いながら、この混沌の魔窟へとお料理を運ぼうとするだろう。それだけは避けたい。尊敬する料理長に、そんなことをさせるわけにはいかない。


「スーハー……スーハー……」


 障子を開く前に、軽く深呼吸をする。相変わらず心臓はBPM600ぐらいでビートを刻み続けているし、おでこに触れると冷や汗だってかいている。だけど意を決し、私は障子に手をかけ、そして勢いよく開いた。


「おまたせしましたー」


 その途端に私の全身にねっとりと絡みつく、設楽さんの殺気を含んだこの個室内の重苦しい空気……いや、瘴気と呼んでもいいだろう。とにかく不快でこちらの恐怖心を煽る赤茶色の空気が、私の全身にまとわりついた。


 ……しかしッ! ここで私も負ける訳にはいかない。まとわりつく瘴気に負けじと空元気を絞り出し、私はなんとか頭の回転をもとに戻して、個室内の様子を伺う。


「……」

「……」


 二人は私が入った途端に、会話を中断させて口をつぐんでいた。そこは割と普通の反応だ。大抵の人は、どれだけ会話が盛り上がっていても、私たち従業員がテーブルに料理を持ってきたときには会話が止まる。このふたりもしかり。


 設楽さんはiPadの画面をセンパイさんに見せている状態でピタリと制止している。画面がチラと視界に入ったが、なんか『先輩と私の関係性からみる相性』という見出しが見えた。その1ページだけでもとてもキレイに仕上げられているということはわかるが、右肩上がりと平坦……そんな対象的な軌跡を描く2本の折れ線グラフが一体何を意味しているのか、私にはまったく見当がつかない。


 対するセンパイさんの方はというと……なんだか呆れきったような表情で、設楽さんのiPadを見つめている。その目は濁りきっていて生気がなく、死んでいるといっても過言ではない。そのうつろな眼差しは、一体どんな思いでiPadを見つめているのか……


 ……ええいっ。二人の様子なぞどうでもいい。私は障子を開けた時の自身の勇気と勢いをなんとか思い出して振り絞り、自身に課せられた『この個室に料理を運ぶ』というミッションを完遂するべく、手に持つお盆をテーブルの上に乗せ、そして刺身の盛り合わせを下ろした。


「こちらお刺身の盛り合わせでーす」


 盛り合わせの大皿をコトリとテーブルの上に乗せる。よし。二人とも静かに佇んでいる。このまま何事もなく終われば……次に厚焼き玉子をテーブルに置き、最後のサラダを手にとったその瞬間である。


「あと……」


 設楽さんの眼差しが一瞬キラッと光った気がした。そして……


「こちらが……」

「私と先輩の年収予測推移グラフになりますが……」

「!?」


 『シーザーサラダでーす!』という私の渾身の営業ボイスは、設楽さんの意味不明な資料説明によって、もろくもかき消されてしまった。


「店員と会話をシンクロさせるな。度胸の無駄遣いはやめろ」


 しかし即座にセンパイさんがツッコミを入れてくる。それを受けてなのかどうかはわからないが、設楽さんは静かに口を閉じ、資料の説明を中断した。おかげで私の頭の回転がなんとか正常に戻り、『シーザーサラドゥ……ダです!』としっかりとサラダの紹介を終えた。台詞の途中で多少は噛んだが、この異空間の中でこの成績は中々だ。そう自分に言い聞かせるようにした。


「そ、…それでは、失礼いたしまっし!」

「はぁ……」

「はい」


 私は障子を勢いよく開け、そして逃げるように個室部屋を後にする。足早に厨房に帰り、フロア内を必要以上にせわしなく動き回る朋美ちゃんには目もくれず、今の私の心の安定剤……料理長の元へと帰っていった。


「りょうりちょ〜!!」

「ぁあ川村さん。どうでした? 大丈夫でした?」

「大丈夫でした! 大丈夫でしたけど……!!」


 厨房に到着するなり、料理長はいつもの暖かな笑顔で私を出迎えてくれた。その笑顔は見る人に安心を与え、そして緊張を解きほぐす、まるで天使のような笑顔だ。たとえその手に持っているものが、肘ぐらいの大きさの巨大すぎる出刃包丁だとしても。


 私は、こちらを心配そうな眼差しで見守る料理長の胸に飛び込もうとして……やめる。本当は料理長の胸に包まれればものすごく癒やされて安心するだろうけど……私が料理長の胸に飛び込むだなんておこがましい。


「うう……疲れました料理長……」

「大丈夫でした? ……ほら、温かいお茶でも飲んでください」

「はい……ありがとうございます……」


 代わりに、料理長が丁寧に入れてくれた熱いお茶をすする。途端に心の中で小さな炎が灯ったように、ホッと胸が暖かくなった。『安心する』とはこういうことか……料理長の笑顔と熱いお茶は、故郷の花子のおっぱいの次ぐらいに、私を癒やしてくれる存在だと理解した。


 ひとしきり私が安心したところで、料理長が心配そうに私の顔を覗き込んできた。


「例のお客さん、どうでした?」


 うう……思い出したくもないが、料理長には答えなければなるまい……


「はい……なんか、設楽さんはiPadであのセンパイさんとかいう男の人に資料を見せてまして……」

「はぁ」

「それを、センパイさんは死んだ魚みたいな濁りきった目で見つめてまして……」

「なんだかうちのオーナーみたいな人ですねぇその人」

「なんかもう、ホントに何やってるのかよくわからないです……」


 私は素直に嘘偽りなく、あの個室の中の状況と本心を語った。その間、料理長は私を心配そうに見つめながら、ジッと話を聞いていた。


「うーん……川村さん、ホントに大変そうですし……」

「……」

「だったら、やはり私がお料理運びましょうか?」

「……いや結構です! 私が持っていきます!」

「でも……」


 こんな具合で、優しい料理長は自分が自分が料理を持っていこうとしてくれる。でも、そんなふうに私たちを気遣ってくれる大好きな料理長だからこそ、私は自分と同じ目にはあってほしくないのだ。


「いや! 私に持って行かせてください! 私は持っていきたいのです!!」

「でも、とてもそんな風には見えませんよ?」

「そんなことありません!」

「今も疲れ切ってますし……」

「大丈夫! ほら!! げんきー!!」

「元気どころかエジプトのミイラみたいにくたびれきってますよ……?」


 私はがんばって両手で力こぶを作り、料理長に『私は平気!』とアピールするのだが……そんなことは料理長もお見通しなのだろう。そんな私の痛々しい姿を見て、ひたすら心配そうにおろおろするばかり。


 そんな料理長の姿を見ながら、私は思う。


 やはり、こんな優しい料理長を、あの個室の瘴気にさらさせる訳にはいかない。


 あの個室の犠牲になるのは、私だけで充分だ。……いや本音を言うともう行きたくはないが……たまには朋美ちゃんにも行ってほしいのだが……それでも、料理長を行かせるぐらいなら、私が自らすすんであの個室に行く。私が料理長を守る……!


「任せてください料理長! 私は……最後までがんばりますから……!!」

「でも川村さん……」


 改めて、料理長に宣言する私。そろそろぬるくなってきたお茶を一気に飲み干し、私は体の奥底から渾身の力を振り絞って立ち上がる。料理長が入れてくれたお茶で多少は体力も戻った。今なら、ミイラのように干からびた身体も、半生程度には戻っていることだろう。


 がんばれ私! あの個室の二人の瘴気に負けるな!!


 料理長、私はあなたを守ります!! 花子! 私のこと、見守っていてね!! 私、がんばるからね!!


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