第08話 雛、麗しき宦官に挑み願うこと

氷球アイスホッケーで決めるか」と言い放った紅榴こうりゅうの果たし状を、玉蝶ぎょくちょうが受け取ってから一週間が経った。

 玉蝶は巽宮そんぐうから馬車に乗り、銀苑ぎんえんと呼ばれる皇宮に最も近い園林えんりんを駆け抜け、東宮の南にある宜春院ぎしゅんいんへと到着した。

 出迎えた宦官たちの一人が、紅榴の名前を出し、玉蝶は彼らによって人造湖へと案内される。

(「決闘」なんて書いてあるから、殿下にも公子にも心配されてしまったわ)

 紫晶ししょう珪雀けいじゃくは、玉蝶の兄、玉鸞ぎょくらんと友誼を深めていた。

 そして紅榴は、玉鸞と天覧氷舞の出場をかけて争い、敗れた身。

 互いに相手に向ける感情が、友好的と言い難いだろうというのは、十二歳の玉蝶とて十分に理解できる。

(私は、私のできることを、やる)

 さらに彼の弟子、桃簾とうれんと、玉蝶はこれから紅榴が用意した人造湖での使用権を巡って戦うのだ。

 ふぅ、と息を吐く玉蝶に、前を歩く宦官が振り向いた。年齢は紅榴と同世代だろうか。しかし男性的な美貌を持つ彼と比べ、この宦官は女性的な柔らかな容姿だ。

「ねぇちょっとあんた。その調子で桃簾に勝てるの? ご飯食べた?」

「えっ? ああ、はい。いただきました」

 馬車を降りた玉蝶は、年長者の宦官たち十人ぐらいにぐるりと囲まれて、人造湖に向かっている最中だった。

 突然話しかけられて、思わず挙動不審になる玉蝶に、声をかけてきた先頭の宦官は、優美な顔に嘲りを浮かべる。

「本当に? 言っておくけど、桃簾はあの紅榴の唯一の弟子よ。滑氷だって、もう何年も二人で練習してる。骨折したり、顔が傷つくかもしれないのに、馬鹿じゃないの!?」

 柔らかな口調のわりに、その言動は玉蝶や紅榴、桃簾を馬鹿にしているのか、案じているのかよくわからないものだった。

 玉蝶は目を白黒させながら言った。

「ええと、あに様は……」

「あね様とお呼び!」

 ぴしゃりと言われて、玉蝶はすぐさま訂正した。

「あね様は、私たちを心配してくださるのですか?」

 宜春院の宦官は、自身の性別にこだわらない者もいるし、玉蝶がいた教坊も男に興味がない姉貴分もいた。

 帝国芸能界を生きる宮妓や楽人、その見習いにとって、滑氷や氷舞が人気と言い難い理由は、京師、太清が何百年も人々の生活の場所となっているがゆえに、市井で凍りついた川や湖があっても、生活資源として国が管理していることと、滑氷鞋を用意できる庶人は限られていること、なにより、この女性の感覚をも持つ宦官が言う様に、骨折の危険性が高いからだ。

 肉体が資本の技芸者にとって、完治に時間がかかる、予後に影響がある、下手をすれば寝たきりで人生終了となる骨折は避けたいもの。

「そうそう。紅榴と桃簾なら練習中に怪我しようとどうなろうと、俺らの問題で片が付くけど、君って雛妓でしょ?」

「未来ある宮妓の見習いに万が一があってはいけねぇよ」

 玉蝶の左右にいる宦官たちが言った。

 予想だにしない彼らの発言に、玉蝶はおずおずと口を開く。

「あの。あに様たちは、桃簾や紅榴様の味方ですよね?」

「――はぁっ!? 誰が!?」

 キィーンと高い声を上げたのは、「あね様」と呼べと玉蝶に言った宦官であった。

 宜春院の宦官だけあって、憤怒を宿すその面差しはとても美しい。彼、もとい彼女は立ち止まると、くるりと体の向きをかえ、玉蝶に指をつきつけた。

 男性や宦官にしては背が高い珪雀や紅榴と比べ、玉蝶の目の前にいる「あね様」は、玉蝶が顎を鶏卵一つ分、上げれば容易に目が合うほどの、楽人や宮妓の平均からすれば小柄な体形だ。

「いいこと、小娘。私は、あんたが紅榴に勝てる人材かどうか、確かめに来たのよ!」

「いえ、あね様。私が戦うのは、紅榴様じゃなくて桃簾……」

「シッ! ごめんねぇ、あいつ、三回連続で、紅榴に役を取られてるからさ」

「自称、紅榴の永遠の好敵手だから、適当に話を合わせてやってくれ。すまねぇ」

 唇の前に人差し指をあてて、玉蝶の後ろから彼女の肩に手を置く宦官と、その隣にいたもう一人が顔前で両手を当てて、謝意を表す。

 他の宦官は、拳を振り上げ、高らかに「打倒、紅榴」を語る「あね様」を「どうどう」「まあまあ落ち着け」と言いながら、「あね様」の両肩と両足を抱えて人造湖に向かう。

 後を追いかける形となった玉蝶は、残る二人の宦官たちに思わず顔を向けた。

 紅榴が満開の紅牡丹、「あね様」が白芙蓉ならば、玉蝶の前にいる二人は花壇の隅に植えられている水仙や鈴蘭のような、可憐さと清涼感のある美貌であった。

「あに様方は……」

「桃簾は憂い顔が一番綺麗なんだよ。あそこだけ時間を停めたい」と鈴蘭の君。

「だって紅榴って悔しがる顔が一番素敵じゃん?」と水仙の君。

 残る二名は、純粋に自分の願望に忠実であった。

(そういえば、鈴蘭も水仙も毒があったっけ……)

 教坊にいる美しき姉貴分の舞台裏の態度とはまた違う、美貌と技芸に秀でた宦官たちとの遭遇に、玉蝶は遠くを見るような眼差しで脚を進めた。



「よう、ちんちくりん! げっ!」

 人造湖を背にした紅榴は、玉蝶を見とめるや否や、すぐさま変な顔になった。

(さすがの美形も、顎が外れると残念になるのね!)

 と、思わず観察する玉蝶より先に、件の「あね様」が割って入った。

「ごきげんよう、紅榴。この子に変な虫がつかないよう、あたしたちが守ってあげてよ!」

「いや、頼んでねぇわ……」

「さあ尋常に勝負よ!」

「あね様」は紅榴のげんなりとした表情に構わず言い放った。

「変な虫もなにも、俺ら宦官だし……。ええ、なに、お前ら稽古放り出す気かよ?」

 左右の手に己の腕ほどの長さがある棒――氷球に使う氷上曲棍球棒スティックだ――を持ち、両肩で弾ませる紅榴は、呆れた眼差しを「あね様」一行に向けた。

「莫迦を仰い! きちんと自分の練習日程は抑えているわ!」

「まあ、いいや。ちんちくりん、くつ変えろよ」

 腰に手を当て胸を張る「あね様」から、紅榴は玉蝶に視線を送る。

「言われなくとも……!」

 玉蝶は長椅子に腰を下ろすと持ってきた革袋から己の滑氷鞋を取り出した。刃を底に取り付けた滑氷鞋に履き替える。

 人造湖に目をやれば、思わず目を細めてしまうほどに白く輝いていた。楕円形の湖の最も遠い両端に、赤と青の塗料で曲線が引かれている。

 玉蝶から見て右側が青、左側が赤だった。

「眩しっ、お肌が焼ける!」と叫んだのは、玉蝶の背後にいる「あね様」だった。

 湖畔の周りには、紅榴と同じ浅青色の袍を纏った宦官たちが囲んでいて、玉蝶といつの間にやら隣にいた桃簾を注視していた。

 紅榴は、玉蝶と桃簾を見下ろした。

「今からお前らには、氷球をしてもらう。先に自分の陣地に二点入れたほうが勝ち。陣地はその色だ。桃簾が勝てば、ちんちくりんは人造湖を使うな。ちんちくりんが勝ったら、使わせてやるから、ありがたく思えよな」

 紅榴から一対の氷上曲棍球棒を受け取った玉蝶は、それぞれに仕掛けや異常がないことを確認し、一本を桃簾に渡した。氷上曲棍球棒の柄には、それぞれ赤と青の塗料が塗られていた。

 特に意図したわけではないが、玉蝶が赤、桃簾が青だった。

 赤い氷上曲棍球棒を両手で握った玉蝶は、紅榴を見上げる。

「紅榴様に、二言はないと信じております」

「おうよ!」

 紅榴は形のいい白い歯をニッと見せた。



 玉蝶と桃簾は人造湖の中心に向かい合う。互いに氷上曲棍球棒を持ち、紅榴が置いた氷球に、棒の先端を当てる。氷球は橡膠ゴムの樹液を固めた、円柱状の球だ。

「始め!」

 湖畔にいる紅榴の掛け声に、玉蝶と桃簾は一斉に動いた。

 氷球と、相手の動きを見る。

 玉蝶が操る棒の先端が氷球を弾いた。追いかける二人。

 棍棒を再び繰り出す玉蝶より半歩先に、桃簾が腕を伸ばして得点を阻む。

 二人の氷上曲棍球棒で弾かれた氷球は、人造湖の混凝土の壁にぶつかって、予想外の方向に動いた。

(やった!)

 人間よりも縦横無尽に動く氷球は、玉蝶の赤の陣地に近い。玉蝶は、低く飛ぶ燕のように氷上を滑り、桃簾が後を追う。

「くっ!」

 桃簾が氷上曲棍球棒を伸ばした。しかしその先端は氷球に触れることなく、玉蝶に得点を許してしまう。

 得点した氷球は、審判を務める紅榴の手によって再び、中央に置かれる。

(やった!)

 声に出さずとも勝ち誇った玉蝶は、息を整えながら、再び桃簾と人造湖の中央で向かい合った。

(次も、私が!) 

 しかし勇んだ玉蝶よりも、桃簾の悔しさが上回った。

 次に己の陣地に氷球を飛ばしたのは桃簾だった。

 次で最後ともなれば、試合中は二人を気遣っていた周囲も、黙ってなどいられない。

「小娘、行け! 行くのよ!」

「桃簾、女に負けるんじゃねぇわよっ!!」

「いいぞォ、ちびっこォ! やっちまえっ!!」

「ちびっこって、どっちやねん!?」

「紅榴をイテコマセェエ!!」

「顔面石膏取りたい!!」

 帝国の宦官は、大陸各地から集められているため、おそらく郷里での発音や宮仕えには不適当とされる言葉を用いているせいか、玉蝶にはなにを言われているのか理解できない言葉もあったが、応援と罵倒は伝わった。

 それは桃簾も同じのようだった。肩で息をしながら、淡い紅の眸に力強い光を宿して玉蝶を睨んでいる。

 互いの先端が同時に氷球に当たり、勢いで氷球が空へと跳ね上がった。空中に浮かぶ球が青空と同化したように玉蝶の眼に映る。瞬きすら惜しい状態で顔を上げた瞬間、どこからか飛来した黒い鞭が、球に絡みついて、氷の地面に無残に叩き落とした。

「――なにをしているのですか」

 歓声も喚声も一気に止んだ。

 怒りを含んだ声でもないのに、しかしその声は美しく、静謐にして、冷厳。

 玉蝶が鞭を辿るように顔を動かせば、長身の宦官が立っている。

「……あに様」

 玉蝶は目を見開き、慌てて口を押えた。

 己の口から、兄貴分の楽人ではなく、亡き兄を呼ぶ声と同じものが出てきて驚いてしまう。

 玉蝶と桃簾がいる人造湖に近づく長身の宦官は、寒風が弄ぶ長い白銀の髪を、鞭を持っていない黒革の手袋を嵌めた右手で鬱陶し気に押さえている。

 真っ直ぐな髪は、冠や布帛で結われていない。纏う衣装は楽人と見習いを示す浅青色ではない。しかし周囲の尊敬が混ざった視線がむけられることから、彼も紅榴や桃簾と同じ宜春院所属の宦官だと玉蝶は推測する。

 兄とは髪色しか共通点がなく、顔の造作は似ても似つかない。

 けれど、ここは宜春院。容姿と才能によって、帝国に芸能文化を捧げる者の場所。

 ゆえに、現れた白銀の髪を持つ宦官の顔は、美しかった。白銀の月の化身か、あるいは相手が動かず、喋らなければ、等身大の人形だと錯覚しただろう。

 そしてまた玉蝶は多岐にわたる美形も多く目にしていたために、相手を観察して己の糧にするという雛妓としての冷静で貪欲な望みが心中で頭をもたげた。

 上から下まで好奇心丸出しで無遠慮に相手を見た玉蝶の視線が、名前も知らない宦官の足元で止まる。

(……この人、すごい。こんなに高い鞋を履いてるのに、膝が曲がってない!)

 黒貂の襟巻、両裾に切れ込みが入った淡い緑の胡服に均整の取れた長い手足を包み込み、爪先が深緑の蛇皮で飾られた黒い高跟鞋ハイヒールを履いている。

 宜春院の宦官の多くは浅青の長袍だが、芸能人という立場ゆえに、浅青以外の色をまとうことが許される存在もいる。

 と、玉蝶の視界を遮るようにヌッと白い動物が現れた。

「わっ!?」

 現れたのは白い虎だ。青みを帯びた黒い縞模様と明るい緑色の眸を持つ。瑶鏡殿ようきょうでんの画は仔虎だったが、目の前にいるのは大人の虎だ。

 虎は白銀髪の宦官の膝にすり寄るように頭をこすりつける。

 虎の存在に驚いているのは、どうやら玉蝶だけだった。

 一方、美貌の宦官は玉蝶の存在など意に介していないように、湖から三歩離れた湖畔で立ち止まった。

 相手の視界に、己が入っていないと玉蝶は気づき、そのまま息を殺して背景の一部になるように努めた。

 宦官は樹木の芽吹きを思わせる淡緑の眸で、氷上の桃簾と、彼をかばう様に隣に立つ紅榴に一瞥を送る。

「紅榴、桃簾。私はあなた方に氷舞稽古の許可を出していません」

 口調こそは丁寧ながら、鋭い印象を与える端正な面差しのせいか、玉蝶は人知れず震え上がる。

 けれど名指しされた二人の態度は対照的だった。恐縮した様子を見せる桃簾と異なり、紅榴は腰に両手を当てて平然とした態度で答えた。

「氷舞は、だろ? 俺たちは滑氷の練習をしている。それに昨日の夜から冷えてたし、今朝も桶の水は凍っていた。大体、ここは人造湖。氷が割れても、たいしたこたぁねぇよ」

 氷舞は、氷上での舞。滑氷は、ただ銀盤を滑る――歩いたり、走ったり、跳んだりと、氷舞と似たような動きながら、この二つはまったく違うものだ。

 しかし紅榴の返答は、白銀の宦官のお気に召さなかったようだ。

「屁理屈は結構。捻挫、骨折、そして、冷えは大敵です」

「桃簾、寒いかぁ?」

「えっ? いいえっ!! 問題ありません!!」

「若者は大丈夫だってよ」

「桃簾の立場では、『はい』としか言いようがないでしょう。――桃簾、あなたは昨日まで舞稽古があったのです。もう今日は休みなさい」

「畏れながら、翠輝様――」

 桃簾に「翠輝」と呼ばれた白銀の髪の宦官の出現に、玉蝶の心臓が恐怖と違う感情で震えた。

(……あに様の、師匠)

 そして、兄、玉鸞より以前に天覧氷舞にて舞手を務めた、玉蝶が手本にすべき一人。

 兄の死体が盗まれた墓所の管理人を養父に持つ宦官。

 翠輝は、なおも言い募る桃簾を遮った。鞭を持たない手を桃簾に向ける。

「桃簾」

「はい」

「刃を渡しなさい」

「――はい」

 有無を言わさない強い翠輝の強い声に、桃簾はうなだれた。湖畔にいる紅榴に氷上曲棍球棒を渡すと湖畔に上がり、長椅子に腰を下ろして滑氷鞋を脱ぐ。

 玉蝶はそろりそろりと翠輝と白虎に近づいた。

「あ、あの! 翠輝様でいらっしゃいますか? 私は双玉蝶と申します――」

「天覧氷舞に志願した、宮女だと伺っております。以前は雛妓だったとか」

「はい!」

 翡翠色の眸に見つめられて、玉蝶は声を上げた。

「第三公主、紫晶殿下にお仕えしている――間違いありませんね?」

「はい……!」

 翠輝の問いに首を縦に振る玉蝶に応じるように、白虎が咆哮を上げた。

「ひっ!?」

 身を縮める玉蝶に、翠輝は無表情で虎を紹介する。

「こちらは飼い虎の碧嵐へきらんおすです」

 主人の言葉を理解しているのか、碧嵐は鋭い牙を覗かせ「ガウッ」と声を上げた。玉蝶の鼓膜と身体がビリビリと震える。

「噛みません、おそらくは」

「ええ……?」

 不安を与える翠輝の説明を聞いて、玉蝶の踵が半歩、碧嵐から下がった。

 そんな玉蝶に、翠輝は冴え冴えとした視線を送る。

「ですが、困りました。ここ、人造湖は、そこにいる紅榴が己の身で稼ぎ手に入れた土地。さすがの私も、同胞ならともかく、あなただけを指導するわけにはまいりません」

「桃簾も一緒、ということでしょうか」

「ええ。けれど、ありがたいことに私は二年先まで予定が埋まっている。今年の天覧氷舞の舞手の指導は、実質紅榴が担うでしょうね。彼はここの持ち主ですし」

「わ、私もお借りしたいと紅榴様に申し上げました。そして、それを決める試合をさっきやっていて……」

 翠輝の登場で、試合が勝敗がつかないまま終わってしまったのだと、本人に説明していいのかどうか、玉蝶は迷った。

 そういえば、紅榴曰く、翠輝はしばらく別の土地で興行していたとか。だから玉蝶と桃簾が人造湖で試合をしていても、ただの遊戯にしか見えなかったのではないか。

 桃簾は、玉蝶と比べて、舞稽古がある――つまりは天覧氷舞以外の舞台出演がすでに決まっているのだ。

 そしてここ、宜春院は宦官たちの領域で、玉蝶は女。

 たぐいまれな技芸に性別は関係ない、ましてや宦官は、男にも女にもなれる存在だ。

 あわあわと目を彷徨わせる玉蝶に、翠輝は人形じみた表情で言った。

「そうですか。けれど、あなたや桃簾が出たいと望むのは天覧氷舞ですよ。氷球とは求められる動きが違います」

「そ、そうですよね……」

「仕方ねぇだろ。氷球なら、先に点数を取った者勝ちっていうわかりやすさがあるんだから」

 口を挟んだのは、紅榴だった。他の宦官たちは翠輝の登場によって、きまり悪げに去って行き、桃簾も体を休めるために宜春院の宿舎に戻ったようだ。

 紅榴は桃簾の滑氷鞋の刃が入った革袋を翠輝に渡すと、しゃがみこんで碧嵐の顎下をなでる。

「氷舞にしちまうと、時間がかかる。音楽、振り付け、衣装、すべてを揃えなきゃならねぇし、審査員も決めなきゃならねぇ」

 かつての天覧氷舞で、指導役と弟子だった関係ゆえか、二十代後半と思える翠輝に対して、紅榴はざっくばらんな態度であったし、翠輝も咎める様子はない。

 なるほど、と碧嵐と紅榴を見下ろした翠輝は呟いた。

「それでは、こうしましょう。玉蝶と桃簾は、今度は氷舞を見せてください。音楽も振り付けも衣装も自由。審査員は私が用意します。場所はここ、詳しい日程は後日伝えますが、二週間後でよろしいでしょうか」

「えっ!?」

 今日だけで、種類が異なる驚きを迎える玉蝶は翠輝の言葉にひっかかった。

「で、でも審査員は全員宦官なのでしょう!? それでは桃簾が有利なのでは――」

 玉蝶の顎先が、鞭の先端によって持ち上げられた。

「我々は大家の御為に存在し、帝国に技芸を捧げる身。己も他人も、秀でた容姿と才能があってこそと理解している。貴女の舞が桃簾よりも、美しく優れていたら、我々は我々の存在意義と矜持にかけて貴女を選ぶ」

 相応しいと決めた者を必ず選ぶと翡翠色の双眸が語る。

「おうよ」

「貴方に投票権はありませんよ、紅榴」

「ふぁっ!? なんで!?」

「公平性を期すためです、当たり前でしょう」

 呆れた眼差しを紅榴に向けた翠輝は、玉蝶の顎下から鞭を外しながら彼女に視線を戻した。

「審査員は当日、私が選んだ奇数名にやってもらいます。演技時間は、刻限香の十分の一。これが燃え尽きるまで」

 刻限香は、時間を図る細長い線香で、教坊や宜春院の稽古でよく使われる。一本で三十分。その十分の一だから、演技時間は三分だ。

「わかりました!」と、勢い良く頷いた玉蝶だが、ふと脳裏に浮かんだ映像に体ごとぴたりと固まる。

「あの、半月近い練習があるのはありがたいのですけど。桃簾は? 桃簾はどうするんですか? 滑氷刃、預かっているんですよね」

「私が桃簾の刃を預かるのは、滑氷場で練習させないため。玉蝶。貴女には有利なのでは?」

「で、ですが!」

「桃簾と紅榴は、明日にでも私に氷舞を披露できます。彼らは楽師も、衣装も、すべて用意しておりますから。貴女は、どうですか?」

 玉蝶は、自分以外なにも用意できていない。

「わ……わかりました……!」

 氷球の次は、氷舞。

 玉蝶は、新たな局面を迎えた。



 人造湖に、翠輝と紅榴だけになった頃。

「……あいつ、玉鸞の妹だってよ」

「なるほど。道理で眼差しが似ているわけですね」

 湖畔を眺める長椅子に翠輝と並んで腰かける紅榴は言った。先の天覧氷舞での指導役と舞手志願者という関係だったために、翠輝に対して最も気安い態度で接する宦官の一人である紅榴に対し、翠輝もまた雰囲気が柔らかい。

「翠輝様から見て、あの二人はどうよ」

 紅榴は落ち着いた声で、翠輝に尋ねた。翠輝は紅榴から渡された桃簾の滑氷刃を見つめる。

「二人の滑氷鞋。桃簾は滑氷用、彼女は氷舞用でした。明らかに桃簾が有利。しかし」

 滑氷鞋の鞋底に取り付ける刃は、銀盤を滑走するものと氷舞に適したものとに分けられる。違いは踵に当たる刃の形だ。滑走用の刃は踵の部分が丸く滑らかな曲線を描き、氷舞用は歯車を連想させるような凹凸がある。

 ちなみに、刃を外した滑氷鞋は、室内履きや野外を歩くには不向きである。足首から踝にかけてと鞋底の部分が頑丈に作られているため、通常の履き物と同じように使用すると却って足を痛めてしまうのだ。

 桃簾の滑氷用の刃は、鞋底と比べて、前後が長く、氷面に触れる部分が薄い。

 玉蝶の滑氷鞋に取り付けられた刃は、爪先の部分が歯車のような形に鋳型され、着氷――つまりは氷舞に適している。

 紅榴は翠輝の言葉を引き取った。

「桃簾は氷の上で走れるが、あの餓鬼みたいに急に止まったり、向きを変えたりというのは、まだ五分五分だな」

「桃簾の年齢で、足に負担はかけたくないのですが……」

「でも、桃簾はもう十二。これ以上、制限をかけると、あいつは勝手に練習するぜ。この俺の唯一の弟子だからな。なにより、開かれるかどうかもわからない天覧氷舞のために、今日までやってきた胆力がある。それを尊重するのが師匠の務めだ」 

 でも、と紅榴は険しい表情を浮かべた。

「あのちんちくりん。玉蝶とかいう、玉鸞の妹も出場を希望していると」

「第三公主殿下のご意向の模様です。我が宮女に氷舞の才がありと見なし、天覧氷舞への参加を望む、と」

 憂いのこもった翠輝の言葉に、紅榴は鼻で笑った。

「異邦へと嫁ぎあそばされる公主殿下の宮殿に、氷舞が得意な宮女がいたら、とっくに俺たちの耳に入るだろうさ。大方、教坊から適度に連れてきて、自分のところの宮女だと言ってるだけだ。あのちんちくりん、騙されているんじゃねぇの?」

「我々は、玉鸞のような被害者を、二度と出してはなりません」

「十三で天覧氷舞をやった俺とあんたが教えるんだ。宜春院ここにいる桃簾は守られる。あいつは知らんが」

 正確に言えば、紅榴は当時の彼と双璧を成す白銀の髪色をした好敵手に敗れ、天覧氷舞への出場は叶わなかったが、予備役として、あの場所にいた。

 翠輝と同じく紅榴の脳裏には、いまだに割れた銀盤に吸い込まれる友人の姿が鮮明に刻まれている。

 その友人の妹が、楽人見習いであった兄と同じく雛妓の身にしては過分な、公主殿下の宮殿で働く宮女になったということは――。

「可能な限り、こちらに呼び寄せ、手元に置くしかありませんね。――あの娘に、兄と同じ道を辿らせるわけにはいきませんから」

 翠輝の言葉に、紅榴は頷いた。

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