秋
夏休みが終わり、授業が再開し、学校はあっという間に日常を取り戻した。
始業式で久しぶりに先生を見かけた。先生は相変わらず無愛想で、私は相変わらず先生を見ただけで幸せな気持ちになれた。虚無感なんて一瞬で消し飛ばされて、会いたくないと思った事すら忘れて、先生が好きだ好きだと心の中で囁く毎日が再開した。先生に毎日会えるのが嬉しかった。
その一方で、この頃少し気になることができた。
先生を目で追うと、先生が図書室でとある女生徒と話しているところを度々見かけるようになった。彼女はこの新学期から図書委員になった二つ下の生徒の様で、まだ仕事に慣れていないためか、貸し出し作業も返却作業もいつもおぼつかない手つきだった。見かねた先生が本を本棚に返す仕事を手助けしているのをよく見かけた。
困っている彼女を助ける先生の姿は、初めて会ったあの日と重なった。
もちろん、それは教師として至って普通の事で、それは私も理解していた。先生がよく話をする女性は私や彼女の他にもたくさんいたし、彼女が特別なわけではなかった。でも、嫌に胸がざわついた。
「ありがとうございます、先生」
彼女がはにかみながらお礼を言う、その声が私の耳に張り付いた。私と違って明るい声、はきはきした言葉、素直で豊かな感情表現。人好きする、愛らしい笑顔。
彼女がもしも私の様に先生を好きになってしまったらどうしよう。ありえない事じゃない。私がそうだったのだから。万が一、先生が彼女を好きになってしまったら?
我ながら馬鹿みたいな考えだと思った。それでも、考え始めると止まらなくなった。
困っている彼女を助けないで。彼女じゃなくて私を見て。私だけに優しい先生でいて。
今まで抱いたことのない程の嫉妬と独占欲が、胸の中で渦巻いた。頭の隅で冷静な私が何て醜いと罵った。
私はあの本を開いた。先生と一緒に読んでいる本だ。
誠一は自分が想い人の人生にいない事を最初から達観していて、だからこそ、想い人に良い人が現れた時も、相手の男に特に嫉妬はしなかった。ただ、相手の男と過ごす想い人の幸せを祈り、相手の男が彼女を悲しませることがあればその涙を憂いるだけだった。
誠一は決して手を出すことなく、相手に自分を重ねることもなく、ただ二人の人生を風の噂で聞いて満足するだけだった。
いつも私にヒントをくれていた誠一は、この薄暗い気持ちの扱い方を教えてはくれなかった。
それから図書館へ行くのが怖くなった。二人が仲良くなっていくのを見ていたくなかった。でも、知らない所で二人に何かが起きるのはもっと怖かった。
また先生が彼女を助けてあげた。また先生が彼女に声をかけている。彼女が小さな声で言葉を返す。最初は緊張気味だった彼女も、すぐに先生の優しさに気付いてどんどん気安くなっていった。先生の雰囲気も、何だか普段よりも柔らかい気がする。先生に彼女が笑いかける。
ああ、先生が笑い返した。
参考書を開いても全然勉強に集中なんてできなくて、黒い感情はぐるぐると私の中で回って回ってとぐろを巻く様に積み重なった。
恋とは人をとことん貪欲にするらしいと初めて気づいた。最初は笑いかけてくれるだけでうれしかったのに、この頃にはその笑顔が他所に向けられるのが酷く妬ましくなった。
自分がこんなにも小さな人間だったなんて気づきたくはなかった。
何かの拍子に彼女が先生を嫌いになれば良いのにだとか、図書室に来られないくらいに先生が忙しくなればいいのにだとか、気が付けばそんな事ばかり考えていて、そんな自分が嫌になった。
「あまり集中できてないみたいだな」
さっきからページが進んでいない。そう言って参考書さす指を辿り、顔を上げると先生がいた。いつもの様に、手には難しそうな本を抱えていた。
この時、心配してくれたという喜びと同時に罪悪感が胸を刺した。先生は私の進路を心配して、色々計らってくれていたのに、私と来たら恋愛沙汰に事に思い悩み、勉強の手が進まないでいたのだから。
「ごめんなさい」
私の謝罪を聞いた先生は苦笑いをした。そして白衣のポケットへと手を入れ、そこからスティックキャンディを取り出した。開封前だったその包装紙を破き、二つ出した飴を私のノートの上に乗せた。ふわりと爽やかなミントの香りが鼻を掠めた。
「飴食うのは図書室出たらな。追い込み、きついかもしれないが、あともう一息だ」
私は先生のくれた飴を手に取った。
「先生って本当、優しいですよね」
それは意図的なものではなく、まさに思わず口を突いて出たもので、先生が小さく笑うまで言葉にしていた事にすら気づいていなかった。
「そんなこと言うのはお前くらいだな」
そう言って先生は借りた本を抱え直して図書室を出ていった。
その間私はと言えば、自分の言葉への羞恥と、先生の言葉の破壊力に、思考が停止してしまっていた。何という殺し文句を言ってくれたのだと、耳まで赤くなった自覚があった。
しかしいつまでも固まっているわけにもいかず、何より先生の優しさに応えるべく頑張らなくては、とペンを握りなおした。
というのも、私の目下の悩みはその時解消されたからである。私の悩みだった、図書委員の彼女。しかし彼女はあんなに先生と話していたというのに、あんなにはきはきと話す明るい声を持っているというのに、先生に優しいと伝えていないらしい。先生が優しいと知っているのは、伝えるのは、私くらいなのだ。
そんなことに喜びながら、一方で最低だとも感じた。そうじゃないだろう、と。先生が私を心配して優しくしているのは、進路での悩みを打ち明けたから。こんな恋心を抱いてほしくて優しくしてくれているわけでは決してない。
じゃあ受験が終わったら心配してくれなくなるのだろうか? また新たに、考えるべきではない疑問が浮かんだ。私の手はまた止まった。
今は、もしかしたら一年生の彼女よりも、受験生である私の方が『先生』の気を引けているのかもしれない。でもそれもあと半年で終わる。私は卒業してしまう。彼女は私がいなくなった後の二年間、先生と一緒だ。そうしたら、きっと彼女は先生の中の私の居場所なんて取ってしまうだろう。もしかしたら今の私よりも大きな存在になってしまうかもしれない。そして私はどんどん先生の中で小さな存在になって、沢山いた生徒の内の一人になってしまうのだ。大通りですれ違った他人の一人になってしまうのだ。
私はその考えに至った途端、脳の奥がしびれたような感覚と共に気が遠くなった。そんなのは嫌だった。とてもじゃないけれど、耐えられない。私にはとても、誠一の様に見守るだけなんてできない。そう、強く思った。
考えを振り払うように頭を振って手を動かす。集中すべきことに目を向けたまま、それでも気持ちが考えに追いすがる。
あの雨の日の事が、脳裏をかすめた。胸を締め付け、気持ちが零れ落ちた、あの日の傘の下の出来事。
私の恋愛対象は、傘すら分け合ってはいけない教師で、これは常識ではあってはならない恋心。決して『良い恋愛』ではない。
この恋愛を、最も良い形で収束させる最善解は私が一番よく知っていた。それなのに、雨の音が鳴り止んでくれない。あの時の先生の横顔が、声が、鳴りやまなかった。
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