女大公カイエン

尊野怜来

第一話 春の嵐

男妾ヴァイロン

 皇帝サウルのその言葉を聞いた時、その場にいたものたちすべてが声を失い、ついで自らの耳を疑ったと言う。

 そして、当事者の一人である、その時齢十八の、ハウヤ帝国ハーマポスタール女大公カイエンもまた、絶句し、その場で凍りついた。


 人間、本当に悲しい時には泣けず、本当に驚いた時には声も出ないと聞いてはいたが、それを実際に体験する日がこようとは。

 まさに。カイエンは、あきれて言葉が出なかった。

 その時、彼女の複雑な家族関係の中では、伯父にあたる皇帝サウルが言ったことは、それまでの彼女の想定の範囲を大きく超え、空の彼方までカイエンを吹っ飛ばしたのだ。



 曰く。


 「……余に対する、帝国の将軍としてあるべからざる不敬の数々により、フィエロアルマの獣神将軍ヴァイロンを、その後ろ盾である、ハーマポスタール女大公カイエンの男妾に落とすこととする」

 しばらくの間、皇帝の前でひざまづいたまま、カイエンは声が出なかった。

 体の中心が熱い。それは怒りなのか、屈辱なのか。判断がつかなかった。

 後ろ盾。

 ヴァイロンの後ろ盾だったのは、カイエンの父だった、先代の大公、アルウィンである。だが、父であったアルウィンはもうない。と、なれば、ヴァイロンの後ろ盾はカイエンなのかも知れなかった。

 たった十八。

 未だ生娘のカイエンには、とっさに、なんと答えたらいいのかも、わからない。

 何もかもが前例なしのことだからだ。

 男妾という言葉さえも耳慣れない言葉だ。妾といえば、普通は女に決まっている。

 カイエンは思った。

 私はまだ結婚していない。

 これは男の側室を迎えろということなのだろうか。

 それも、乳母の養い子である男を。

 かのフィエロアルマの獣神将軍ヴァイロンを。

 帝国の全き若き英雄を。


 カイエンには、皇帝の言葉は、まるで異国の言葉のように聞こえた。

 とっさにどう反応したらいいのか、心の底から、頭のてっぺんまで、まったくわからない。

 カイエンは思った。

 私は今、皇帝の前で皇帝の裁可を受けている。そして、その意外性に、いや、突拍子の無さに、絶句してしまっている。

 隣には意味も告げられずに共に召し出された、ヴァイロンが巨躯を曲げて、カイエンと同じ姿勢でひざまづいているはずだが、そちらを見やることさえ思いつかなかった。

 これはいけない。

 そうは思うものの、とっさには声が出ない。

 カイエンは困惑の極地にあった。


 時にカイエン、十八歳。

 皇帝サウル、四十四歳。

 将軍ヴァイロン、二十三歳 。

 カイエンは前大公アルウィンの死により、大公位を継いで三年目の春であった。





 吟遊詩人アル・アアシャーの歌う、ハーマポスタールのカイエンの伝記、「海の街の娘」からこの場面を引用しよう。


 ときに皇帝サウルの治世十九年目の春。

 皇帝サウルは獣神将軍ヴァイロンを、姪の女大公カイエンの男妾に落とし給う。

 罪状は「皇帝への不敬」。

 傍目からはなにがなにやらわからない人事であったという。

 ヴァイロンは女大公カイエンの乳母、サグラチカの養い子であり、サグラチカはカイエンの執事アキノの妻であった。

 成年に達する前から帝国軍に属し、その勇猛さから異例の昇進を果たし、当時、二十代にして将軍として、万単位の将兵を率いる立場にあった。

 皇帝は将軍の女大公への忠誠が、己に対するそれよりも大きいことに嫉妬したのだと言われている。

 皇帝サウルの宮廷は一見、静かに見えたが、実際には惑乱の芽をいくつもはらんでいた。


 語ろう。皇帝サウルの御代を。

 そのおぞましい血統と、葛藤を。


 吟遊詩人アル・アアシャーは歌う。



 第十八代ハウヤ帝国皇帝、サウルの兄弟で成人出来たのは、妹、ミルドラと、その下の弟、アルウィンの二名だけであった。稀なことだが、二名ともに同じ皇后腹の兄弟であった。

 ミルドラ皇女は、大恋愛の末に帝国の東の端を領地とする、クリストラ公爵夫人に収まり、弟のアルウィンは法にのっとって、「ハーマポスタール大公」となった。

 一皇帝の御代に大公は一人。

 それには皇帝の兄姉弟妹がなる。

 これが、ハウヤ帝国の決まりであった。

 稀な事だが、皇帝に兄弟がない場合には近親の中から皇帝によって選ばれた。

 大公位は終身である。前の大公の存命中は皇帝に兄弟があっても次期大公として待機させられる。

 ゆえに皇帝の同腹の弟、アルウィンが大公となり、首都ハーマポスタールの大公となった。


 ハーマポスタール大公の地位は世襲ではなく、「時の皇帝のきょうだい」と決まっていたからだ。余談だが、男である兄や弟だけでなく、女である姉や妹までが大公位を継ぐ資格を有したのには訳がある。

 皇帝はこの時代、男にしかなれなかった。皇帝となった兄は同腹の弟を大公に推したいと考えることが多かった。

 しかし、同腹の弟がいない場合に、異腹の弟よりも、同腹の妹を信頼し、頼りにしたいと思った皇帝も多かった。

 そのため、第七代皇帝の御代に、大公位には女でも就けるよう、法が改正された。

 この物語の主人公、カイエンが「女大公」になれたのは、こういう事情による。


 アルウィンは皇帝に先立ち、二十二歳で妻を迎えることになった。

 姉、ミルドラにならったのではないだろうが、この婚姻は恋愛によるものであった。大公夫人に立ったのは、ハーマポスタール市の下町の貧乏官吏の娘に過ぎぬ娘であった。

 名をアイーシャといい、市中に並びなき美貌を誇る、まだ十五歳の美少女であった。どこで出会ったのかもさだかではないが、アルウィンの愛情は死ぬまで彼女一人の上にあった。

 アルウィンはアイーシャにすべてを捧げていた。彼の愛は彼女を包んだ。

 アイーシャは十六歳で一人の女子を生んだ。


 これが、のちの女大公、カイエンである。

 出産は初産であることもあって、難産を極めた。奥医師による出産予定日を十日も超えた出産であった。

 アイーシャは丸一日以上の苦痛に耐え、瀕死でカイエンを生んだのだ。


 しかし、生まれた子の肌は黄色味を帯び、予断を許さない状況が続いた。医師らの必死の処置で息を吹き返した赤児だったが、それでは終わらなかった。赤児は手や頭は動かせたが、右足は動かせなかったのだ。

 いく日かが過ぎ、赤児の名前がカイエンと、とうに決まった後に、赤児は生涯、右足を自由に動かせないことが判明した。

 赤児、カイエンの腰骨の仲には、当時、「蟲《むし》」とだけ言われていた生まれつきの寄生器官があり、それは取り除く術のないものだった。

 蟲むしが骨盤の中に生来存在するために、片足の動きが阻害されるのである。

 蟲の影響は足の機能のみならず、他の器官に及ぶこともあった。

 「蟲むし」はその発見から数百年経っても治療の術がなかった病害であり、当時は生きのびただけでも僥倖とされた。

 ゆえに、大公アルウィンは、この生来弱い子を愛した。

 少しでも長生きできるようにと、彼女の名前に女神グロリアの名と、星神エストレヤの名を添えたほどだった。

 ちなみに、「カイエン」とは古代に繁栄した海上都市、「カイエンヌ」から取られたという。

 また、ほんの赤児ながらも、カイエンの容貌が、彼に生きうつしだったこともあっただろう。

 カイエンの髪は紫みを帯びた黒髪であり、アルウィンの紺色がかった漆黒の髪とはやや色みが違っていたが、目の色は同じ、深い灰色であった。秀でた額、蒼白な顔色、眉の形、目尻の切れ上がり方、唇の形まで、彼ら親子はすべてが似通っていた。


 妻、アイーシャへの愛情を、一時忘れるほどに、彼アルウィンはこの娘を愛した。

 それは、溺愛というべきもので、結果的に彼が死ぬまで、変わらなかった。



 だが。

 難産の末に、「生まれつき片足の立たない、蟲付きの娘」を生んだ、と言われたアイーシャの方の気持ちは違っていた。

 彼女はハーマポスタール市の一役人の娘として生まれ、美貌によって皇帝の弟、アルウィンと愛し合い、娘をさずかったまでは幸せの真っ只中にあった。それが、瀕死の出産の末、今、なんと呼ばれているか。


 「出来損ないの子を産んだ、卑しい出自の娘」


 アイーシャの産後のひだちはよくなかった。

 死ぬ思いをして生んだ、出来損ないの娘のために自分の体は損なわれている。

 その上に、心無い言葉が降りかかってくるのだ。

 彼女は、カイエンが育つに従って、その影口に耐えられなくなっていった。

 アルウィンが娘を溺愛するのも気に食わなかった。

 彼女の琥珀色の瞳は娘への嫉妬に曇り、嘆きのあまり、ところ構わず泣き叫ぶほどであった。

 当時のアイーシャは、一日の苦しみを忘れられず、ある日の夕に「いかがですか、今年、収められたワインです。きっとお疲れが吹き飛びますよ」と、侍女が言って差し出したワインから、たちまち酒量が増えていった。

 酔い痴れたアイーシャの姿が、大公宮だけでなく、招待された貴族の邸宅、果ては皇帝の宮でまで見られるようになるまで、時間はかからなかった。


 ここで事件が起こる。


 皇帝サウルが、このアイーシャを「見た」のである。

 この時代、男が女を「見る」というのは、「自分のものにする」と同義であった。

 皇帝は弟が大恋愛の果てに卑しい一役人の娘を妻に迎えたことを知ってはいたが、本人の姿を見たことがあったわけではなかった。

 同腹の妹のミルドラも自由恋愛の末に降嫁している。彼の恋愛の尺度は時代に比較して自由で、おおらかなものであった。


 皇帝はアイーシャに惹かれた。

 そして、アイーシャもまた。

 アイーシャにとって、大公アルウィンとの恋は、結果として生まれたカイエンによって最悪の結果を迎えていただからだ。

 彼女はこれから逃れ、やり直したいと願っていた。


 くりかえそう。

 事件は、起こった。


 サウル皇帝は、決断した。

 アイーシャを皇后にすると。



 ハウル帝国皇帝サウルの弟、大公アルウィンと、アイーシャとの婚姻は「無効」とされた。

 皇帝の独断である。

 もちろん、アルウィンは不服であったという。

 だが。

 当事者のアイーシャがもう、帰ってはこなかった。

「皇帝の妻になれるというのに、今更、大公ごときの妻に戻ろうとは思いませぬ」

 アイーシャは取りすがるアルウィンの手を払いのけ、高らかに笑ったという。

 様々な攻防の末、大公アルウィンは折れた。

 それは、兄である、皇帝サウルが、今や「非嫡出」となったアルウィンの長女、カイエンを、「皇帝の末妹」、皇妹カイエンとして遇し、次期ハーマポスタール大公にする、と約束したからであった。

 サウルとアルウィンの父、先の皇帝レアンドロはこの頃、まだ存命であり、病を理由にサウルに皇位を譲った直後であった。

 すでに皇帝レアンドロの弟であった前大公グラシアノは亡くなっており、その後をアルウィンが継いでいた。

 その先帝の末子として、カイエンは皇室の系図に入れられ、養育は実の父である皇弟であり、大公のアルゥインが行うこととなった。

 大公位の世襲ができない以上、カイエンを次期大公にするため、アルウィンはこの提案を飲んだのだ。


 ただ、大公アルウィンよりも先に、兄である皇帝サウルが崩御し、その子が即位した場合、カイエンは大公になれない。

 それでも大公アルウィンが提案を飲んだことについては後の世にいろいろな憶測がある。だが、一番優勢な推測はこれだ。

 いわく。

 「大公アルウィンは、兄の皇帝サウルよりも先に己が死ぬことを予期、または確信していたのではないか」と。


 歴史は語る。

 大公アルウィンは、娘カイエンが十五歳の年、病でこの世を去った。

 享年、三十八。

 若すぎる最期であった。

 生来、やや病弱と言われ、残された肖像画から見える姿も線の細い印象ではあったが、その死はおそらくは彼がその生前より思い描いていたように、兄よりも姉よりも先であった。


 これが、後の女大公カイエンが生まれるまでのゴタゴタとした一続きの「喜劇コメディア」であった。




「ハーマポスタール大公、カイエン、聞こえたのか!」

 カイエンの耳に、落ち着き払った皇帝の声が重ねて突き刺さってきた。

 (聞こえるも聞こえないもないだろう!)

 聞こえているから絶句し、動けなくなっているのではないか。

 そもそも、ヴァイロンの犯したという、皇帝への数々の不敬とはなんだ。

 そして、なぜ、その裁可に自分が引っ張り出されるのか。

 意味がわからなかった。

「カイエン、そなたは余の末の妹であり、弟の後を継いでこの首都の守りを担う大公位を継いだものである。余には降嫁したミルドラとそなたしか兄弟はおらぬゆえ、そなたの大公としての地位は奪わないでおいてやろう」

 しん、と静まり返った広間に、皇帝の声がなおも続いた。

「ヴァイロンの罪は、この者を取り立て、後ろ盾となって帝国軍へと推挙した、前大公アルウィンに課せられる。……たしか、そなたの乳母の養い子であったな、ヴァイロンめは」

 皇帝は質問した。

 カイエンは臣下としてなにか答えねばならなかった。

 脂汗が胸の真ん中と、背中をゆっくりと流れていく。

 女大公として宮廷に祗候する時にはいつもきっちりと襟元の詰まった、装飾はあるが固い意匠でしっかりとした生地の、男のような服を着ている。男物と違うのは生地の文様や色味、丈の長さなどだ。

 足の悪いカイエンにとって、長い裾を引く貴婦人の服は動きにくく不自由なものであったから、今まで不快と思ったことはなかったが、この時は服の生地の厚さと、重さ、その中で汗ばむ体が不快で、忌まわしいとさえ思っていた。

「……はい。ヴァイロンは私の乳母、サグラチカの養い子でございます」

 頭を上げることさえ出来ぬまま、カイエンは自分の口が勝手に動き、返答しているのを遠いところで聞いていた。

 右足が痛い。

 このままこの姿勢を強いられれば、退去する時、一人では立ち上がれないかもしれない。

「そうか。ヴァイロンが今までに立てた武功は余も認めるところである。民どももそうであろう。こやつの首をはねることは出来ぬことではないが、余はいたずらに人心を惑わそうとは思わぬ。しかし、今回の罪業は許し難い。

 余はこの者の顔を宮廷で見たくないのだ。

 それゆえ、この者の不敬罪を、侮辱刑をもって裁く。

 大公カイエン、この者をそなたの大公宮へ連れ帰り、男妾としてそなたの後宮に入れ、以後は大公の一側室として扱え!」

 皇帝の言葉が切れた。


 何が皇帝に対する「不敬罪」なのかはわからない。

 だが、臣下である大公として、自分がしなければならないことはわかった。

 カイエンはくそ度胸で無理矢理自分の顔を上向かせた。

 固唾を飲んで見守っていた、廷臣どもの前に、いやいや顔を上げたのだ。

「承知いたしました。大公カイエン、この者を宮に連れ帰り、蟄居させます」

 皇帝サウルの顔を、やけくそな気持ちで見上げた。

 くそ。

 深窓のお嬢様育ちの割に、カイエンは口が悪い。この時も心の中で湧き上がる言葉はとても口にはできない種類のものであった。

 これは父であるアルウィンが、元は皇子で、優男なのに言葉が乱暴な男だったからだ。

世継ぎではなく、次男であったアルウィンの取り巻きには色々な階層出身の者がおり、そのせいで父の話す言葉はとても雅とは言えないものであった。

 皇帝サウルと、大公カイエンの目が合った。 

 共に、同じような灰色がかった暗い色の目であった。

 そして、二人の容貌には血のつながりを明らかに感じさせる部分があった。

 皇帝は冷静に指摘してきた。

「蟄居ではない」

 カイエンは己の頬がカッと赤くなるのを感じた。

 侮辱刑、なるほど、これはそれだ。

 カイエンはヴァイロンと並んで頭を下げた姿勢のまま、最悪の屈辱を与えるためにここに置かれていた。

「……元将軍ヴァイロンを、私の男妾おとこめかけとして連れ帰ります」

 言い換えた言葉が震えていた。

 男妾。

 こんな言葉が存在したことさえ驚きだというのに、自分の口からこんな言葉が発音されようとは。

 このまま、その辺の姫君たちのように、貧血でぶっ倒れられたらどんなに楽だろう。

 だが、カイエンは咳の発作になやまされてはいたが、血の道で倒れたことは一度もなかった。

 心臓は強いのだろう。

「下がれ」

 皇帝は言葉だけでなく、手を上げて手のひらを振って見せた。

 卑しい奴隷か、動物を追い払うように。 

 カイエンはこの時、やっと、やや離れてとなりにひざまづいていた男を見遣った。


 ヴァイロンは、鈍い金色がかった赤い髪に、翡翠を思わせる、鮮やかな緑の目を持っている。そして、その体躯は人並みはずれて大きい。巨人と言う者もいる。

 顔立ちは整って端正だが、その巨大な体躯もあって、精悍な男らしさが印象的だ。

 髪の色、目の色、その体躯。

 それは何世代か前に帝国に滅ぼされた、北方の獣人国の人々の特徴を示している。

 獣人と呼ばれた種族は、人間たちの生まれる以前から、この世界に存在していたとも言われている。獣を思わせる身体能力、身体の大きさ、堅牢さを誇っていた。

 だが、種としての衰えの時代を迎え、その版図は縮小を重ね、遂には北方へと追いやられたのだという。

 ハウヤ帝国は長い間、獣人国と国境を接していたため、辺境では二つの種族の交雑が生じた。

 獣人と人間は種族が違うため、子が生まれることは稀で、しかも生まれた子に孫世代が続くことはなかったと言われている。

 それでも、ごくごく稀に、ヴァイロンのような「先祖返り」が帝国内では生まれてくる。そして、そんな子は親たちにとっては「望まれざる子」であった。

 ヴァイロンは赤子の時、カイエンの乳母、サグラチカとその夫である大公家執事、アキノの家の前に捨てられていたという。


 カイエンがヴァイロンの方を見ると同時に、ヴァイロンの方もカイエンの方を見た。赤銅色に日焼けした顔が、今は蒼白に見えた。翡翠を思わせる目だけが、狂おしく輝いている。

 カイエンはその目を見、その色に噴火しそうだった煮えたぎる頭が、急速に冷やされるのを感じた。

 後々、そこに居合わせた廷臣たちは言ったという。

 いやはや、見上げた胆力の持ち主であらせられますな、と。

 カイエンは言った。

「ヴァイロン、私は一人では立てそうもない。手を貸せ」

 その声は低く、この「事件」の目撃者たちには「ずうずうしい」とさえ聞こえたという。

 カイエンは言いながら、ひざまづいた身体の左側においていた、純銀の握り手のついた黒檀の杖を取り上げ、立ち上がろうと腕に力を込めた。

 野生の動物のような素早い、なめらかな動きで、ヴァイロンは立ち上がり、カイエンの右手を取り、立ち上がらせた。

「では、皆々様、失礼させていただく」

 カイエンは右手を、己の背の二倍もありそうな男に託し、左手には黒檀の杖を握りしめ、土気色にそそけだった顔で、この屈辱的な場面から堂々と退出した。


 皇帝サウルの治世十九年の初春。

 将軍ヴァイロンは、輝かしい将軍の地位を失い、大公カイエンの後宮へと納められたのであった。


 これもまた、この海の帝国ハウヤの宮廷を揺るがせた「喜劇コメディア」の一幕では、あった。

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