第一話 消えたジョヴァンニ

「まいど!」

「また来るね、敢兄!」

鼻を垂らした子どもが母親に手を引かれて弁柄堂を後にする。「お医者さん頑張ったわね」と褒美の饅頭を大事に握りしめる子どもの頭を撫でる母親。

その背中を見送った敢志は、天を見上げた。

「曇りか……」

少し肌寒い日本橋には灰色の雲がひしめいている。目を細めて見ていると、横から妙齢の声がした。

「敢志さん」

「あっ、文ちゃん」

そこには牛鍋屋牛若丸の文がいた。手には綺麗に畳まれた唐草模様の黄土色の風呂敷を握っている。

「女将さんのお使い?」

「はい。和菓子を10人分頼まれまして」

「日持ちする方が良い?」

「いいえ、直ぐに食べるそうなので」

「女将さんが全部?」

「ふふ、言いつけちゃいますよ?」

「それは勘弁してほしいな。適当に見繕うから待っていて」

「はい」

下駄を鳴らしながら店へと戻った敢志の背中は少し哀愁を纏っていて、文はその理由を尋ねようと店の中にいるであろうもう一人の男を探した。

「今日は、いらっしゃらないのですか?」

「え?」

疑問符を声に乗せた割に、あまり驚いていない敢志。

「あの異国の方」

肩を竦めて、視線を菓子に戻し「あー、ジョヴァンニ?」と刺々しい声が返ってきた。

「はい。まさか本当に出て行かれたのですか? 確か、ここにいる期間は牛鍋窃盗犯が見つかるまででしたよね? おかげさまであの鍋はうちに戻りました」

「あの物騒な鍋、結局店に残したんだ。それとジョヴァンニはまだうちにいる。荷物もまだあるよ。ただ出かけているだけ」

「そうなのですね。おふたりの仲がよろしくなったと噂で聞いたので嬉しゅうございます」

弁柄堂の若き店主と、異国の男はたちまち噂になった。物珍しそうに見に来る客が増え、その度に「君の馬の尾の様な髪が目立つのでは?」「違うだろ! 君の髪色の方が!」と言い合う二人は名物だ。

髪色ではなくそのやり取りを見に来る人だかりだとはまだ気づいていない。

「仲が良いだって? だったら……」

敢志は慌てて口を噤み、手を出した。

そこに文は風呂敷と御代を乗せる。

「だったら、何でございましょう」

「だったら……もう少し俺の髪を褒めてくれてもいいと思わないか?」

「まあ、乙女のようですわね」

と微笑む文に、お釣りと膨らんだ風呂敷を返す。

「また食事しに来てくださいね。女将さんが首を長くして待っていますよ」

「そのうち行くよ」

と今度は文に手を振った。小股で歩く文はどんどん小さくなる。

「だったら……」

手をだらりと下ろす。

「どうしてもう二週間も帰ってきていないんだ……ジョヴァンニ」


 闇市場からしばらくして、名物になっていた二人だったが、ある晩ジョヴァンニが重たく口を開いた。

「しばらく暇がほしい」

あとから思い返せばこの日のジョヴァンニは食事の量が少なかったし、いつもなら取り合う大根の漬物もくれた。

「いいよ」

その時の敢志は事の重大さに気付かず、簡単に暇を与えた。それに深く頭を下げたジョヴァンニが翌日の朝、出かけたのを見送ったのが最後——かれこれ二週間帰ってきていない。

 

「―—まったく、どこで何をしているんだ」

本当に出て行ったのか?

別れの言葉が言えなくてあのような事を言ったのかとも思ったが、ジョヴァンニの荷物はまだある。荷物と言ってもシルクハットだ。牛鍋同様、本人の元へ返品されたシルクハットだったが、思いのほか日本橋の人々の外国人に対する態度が優しくて、ジョヴァンニは素の姿のままここで暮らしていた。

「あのシルクハットも、牛鍋窃盗の際に盗まれたものとして闇市場にかけられていたんだよな……」

出会いのあの事件を思い出し、自分がジョヴァンニの事を老人だと勘違いしていた事にクスリと笑ってしまう。だが、その緩んだ口元をきつく結ぶ。

「君がいればもっと楽しく笑えるのに」

曇り空をもう一度見上げる。青い空を見たくても覗いてすらいない。

「青空は、ジョヴァンニの瞳に似ている」

 自分の発言が文の言った通り本当に乙女になりかけていると頭を振り、踵を返した敢志だったが、その耳が車輪と叫び声を捕らえる。

「しーーーー! い、と……うしーーーー!」

自分が呼ばれているような気がしたが、その声に良い思い出がなく、敢志の頬が痙攣する。

「伊東氏‼」

「やっぱり」

ガラガラと砂埃を巻き上げた人力車が、地面に車夫の足袋までめり込ませて急停止する。そこには夏目が乗っていた。

「伊東氏‼」

「はいはい何ですか? 最近は何もしていませんよ」

それどころかあの市場に潜りこんだのも公にはされていないのに、この新聞記者が何をしに来たのかが分からない。

「早く閉めて! 乗って! 行きましょう!」

「抽象的過ぎて意味が分かりません。閉めるって何を? って何しているんですか?!」

夏目が人力車から飛び降り、串団子をかっさらう。串を指の間に器用に挟みながら店の格子戸を閉め、敢志の手を引いた。

「御代は人力車代で!」

「はあ?! ちょ、夏目さん?!」

団子と今から行く場所までの足代で相殺しようとしている夏目に担ぎ上げられ、敢志は人力車の座席に腰を下ろした。

 狭い一人用の人力車で、下に夏目、上に敢志が重なって乗っている。車夫も苦しそうに引っ張り、首元にはこの時期には珍しく汗が滲んでいる。

「何なんですか! ん? 夏目さん臭くないですか?」

「はて、今朝がた風呂に入ったばかりでございますよ。昨夜は徹夜で、その疲れを癒しておりました。それでは腹ごしらえといきましょう」

と夏目は串団子を食べ始めた。

「そうじゃなくて煙臭いというか……」

「それならば今、説明を。今朝がた風呂に入ったのは言いましたね? その後、私のもとに事件の香りがこの臭いとともにやって来たのでございます」

団子がなくなった串を、書き物のように動かしながら夏目は続ける。

「あの有名な帝国大学の学生や教授が住まう宿舎にて火の手が上がったと」

「はあ……」

「走りましたとも。もう髪を濡らしたまま、整えもせずに、異国荘まで」

「異国荘?」

「その宿舎の名称でございます。江戸の頃から異国の人を受け入れてきた心の広い——」

「宿舎の説明はいいですから。続きを」

「せっかちはよくありませんよ伊東氏。まあ良いでしょう! それを伝えに来たわけではございませんから。ゴホンッ、その異国荘が燃えたのです」

「だから臭いんですね」

おまけに濡れた髪がかなり臭いを吸ったとみた。異臭は珍しく浮いている七三からしている。

「でもそれと俺にどう関係があるんですか?」

「未確認生物の仕業と思いませんか?」

「思いません。冬が近いから乾燥によるボヤでは?」

「いえ、今回は未確認生物であるという証拠が手に入ったのです」

「だからって俺を連れて行く意味が分かりません」

「何を言いますか!」

狭い人力車の中で、夏目が顔を近づける。咥えている串が敢志の頬に刺さった。

「放火の罪人は弁柄堂の未確認生物ジョヴァンニ・ギルバーツ氏ですぞ‼」

唾をまき散らす夏目に、敢志はそれより大きな声で叫んだ。

「えええ?! どうしてそれを早く言ってくれないんですか?! 車夫さん早く行ってください! そのなんとか……ええと」

「異国荘です! いざ行きましょう!」


人力車は速度を上げる。

そして目の前の曇り空が黒く変わりだす。

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