Act.2 学園生活

 それはまるで、雷鳴のようだった。

 鋭く、重く、大気を震わせるその咆哮は、今でも脳裏に焼き付いている。

 多くの人が逃げ惑っていた。

 見知った誰かが炎に撒かれ、灰となった。

 空がやけに暗いのは、陽が落ちた訳でも曇っている訳でもない。至る所から立ち上る影のような黒煙が、光を悉く遮っているせいだ。

 押し寄せる熱波が肌を焦がす。呼吸する度に嗅覚を刺激するのが、人間の焼ける臭いだと気付くのに、そう時間は掛からなかった。

「お父さん……どこ? どこにいるの……?」

 愛する父を探して、地獄を彷徨い歩く少女の姿は、見るも無惨な有り様だった。

 何度も転んでしまった身体は、泥と無数の擦り傷に覆われ、血が滲み、走る気力を奪われていた。着ているという表現が怪しくなる程、元は可愛らしいはずの少女の服は、原型を留めていない。

 泣き叫んでいられたのは、最初の内だけだった。

 吐き気を覚える程の現実に、幼い精神は瞬く間に磨り潰され、正常な働きを失ってしまった。

 現に少女は、涙を流しているにも拘わらず無表情だった。ただただ呆然とした様子で、虚ろな瞳のまま歩き続けていた。


 無慈悲な存在が、目の前に現れるその瞬間までは。


 少女の住む村を襲った元凶。

 竜と呼ばれる、世界を侵し続ける化物やまい

 巨木の幹のような四つの極大な脚で、黒光りする鱗を備えた身体を支えている。背に生やした皮膜付きの巨大な翼を広げる様は、物語の中に出てくる禍々しい悪魔を彷彿とさせる。

 牡鹿の如く雄々しい角を持つ、闇夜のように黒い竜。

 獰猛な光を放つ瞳で少女を見下ろし、獲物を見つけた歓喜に打ち震えるかのように、漆黒の竜は咆哮した。

 炎と黒煙に支配された故郷せかいに絶望し、少女は成す術無く膝を折る。

 これ程圧倒的な死の存在を前にして、一体誰が生き延びられるというのか。何をどうすれば逃れられるというのか。

 所詮、足掻くだけ無駄なのだ。

 彼らにとっては少女もまた、玩具の一つに過ぎないのだから――


「大丈夫かい?」


 そんな声が、突然聞こえた。

 いつから少女と竜の間に割り込んでいたのかわからない。気付くとすぐ目の前に、見知らぬ誰かが悠然と佇んでいる。

 軽装ではあるが、恐らく旅人なのだろう。砂埃を防ぐ為の茶色いマントを纏い、首には大きめのゴーグルを掛けている。

 あなたは誰だ、と少女は問う。

 朗らかな笑顔を浮かべている、目の前の青年に。

「初めましてお嬢さん。ボクは――」






「――ッ!」

 弾かれたようにまぶたを開くと、視界が酷く歪んでいた。天井に吊るされた室内灯が、折れ曲がって奇妙な形になってしまったように見える。

 嫌な目覚め方だな、とミリアは他人事のように思った。

 ゆっくりと上半身を起こし、涙で濡れている両目を右手で軽く拭う。

 今でも時折襲う、悪夢。それでも今回は、汗塗れになるまでうなされなかっただけマシというものだろう。

(……ここしばらく見てなかったから、ちょっと油断してたなぁ……)

 やはり原因は、『本物』と遭遇してしまったからだろうか。

 間一髪で助かった、もとい助けられたとはいえ、明確な死が間近に迫っていたのだ。無意識の内に、脳が昔の記憶を掘り起こしたとしても不思議ではない。

 嫌な条件反射だ、とミリアは浅く溜め息をつく。

 ふと部屋の窓に目をやると、白いレースのカーテンの隙間から、昇り始めたばかりの陽光が射し込んでいる。

 眠っている他の二人を起こさないよう、静かにベッドから降り、窓辺に近付いてカーテンを開ける。三階の自室から見える学園の風景は、橙色の朝焼けも相俟って絵画のような美しさだ。

 一日の始まりを告げる眩しさに目を細めながら、何気なく視線を下げた時だった。

 陽が射し始めたとはいえ、未だ薄闇の残る敷地内。女子寮から割りと近い位置にある男子寮の入口付近に、見覚えのある後ろ姿を見つけたのだ。

(あれ……、エルク……?)

 学園指定のブレザーに長ズボン。腰にロングソードを携えた青髪の少年。

 遠目とはいえ間違いない。あれはエルク・ディアフレールだ。

 まだ陽も昇り切っていないこんな早朝に、制服どころか武器まで携えて、一体どこへ向かうつもりなのだろう?

 疑問を覚え、両目を擦って微かな眠気を飛ばし、窓を開けて声を掛けようと試みる。

 が、その中途ではたと気付いた。

 ほんの数秒前まで眼下にあったはずの少年の姿が、忽然と消え去っている。

 俯瞰で見下ろしているミリアからは、死角になるようなものは見当たらない。数秒目を離したくらいで、姿が見えなくなるほど遠くへ移動できるものだろうか。

 外そうとしていた窓の鍵から手を離し、首を捻る。

(もしかして私、寝惚けてた……?)

 自分に問うて、いやいやそんなはずはと否定し、顔を合わせた時にでも聞いてみようと自己解決するミリア。

 意図せずして早起きする事になってしまったが、今日は待ちに待った授業初日だ。

 昨日の儀式の時のように、早く魔術に触れてみたい。夢を叶える為の大切な鍵が、もう手の届く所まで近付いている。

 溢れる高揚感を噛み締めながら、軽く身体を伸ばして、もう一度東の空に目を向ける。

 少女にとって新たな門出となる、魔術に魅せられる一日が始まろうとしていた。






 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆






「――階級ランクとは、『央都・グロリアガルド』に拠点を構える『騎士魔導連合教団』によって定められた、竜の危険度を示す値だ。兵器による爆撃すらも耐え凌ぐその鱗の硬さを、鉱石の硬さに例えて表している」

 教室内に響き渡る教師の声に耳を傾けつつ、ミリアは文字の羅列に視線を落とした。

 記念すべき最初の授業は、ミリアが待ち焦がれていた魔術――ではなく、『竜識学』と呼ばれる、文字通り竜に関する様々な知識を学ぶ為の授業だった。

 若干、どころかかなり肩を落としたミリアであったが、そこは学園の生徒として、駄々を捏ねる訳にはいかないと思い直した。

 それによくよく考えれば、自分は竜という存在がどういうものなのかを体感でしか知らない。

 どのような生態を持ち、どのような種類がいるのか。そういった知識面が、ミリアには圧倒的に足りていないのだ。

 恐らく周りの生徒達の中にも、ミリアと似たような状況の者は少なくないだろう。現に授業初日という事を差し引いても、生徒達の真剣さは目を瞠るものがある。

(ペリドット級、アメシスト級、トパーズ級、コランダム級、ダイヤモンド級、か……。結構細かく分類されてるんだなぁ)

 教科書には五つの階級ランクが色別で記載されており、鉱石の硬度が増すに従って、竜そのものの強さ、凶暴性、危険度などが増していくと注釈されている。

 入学式の日、自分を助けてくれたエルクは竜と対峙した際、その姿を見てペリドット級と呟いていたはずだ。と同時に、竜の名称らしきものも口にしていた。

 つまり彼は、ミリアよりも竜に関する知識を持ち合わせているという事になる。

(ディノドラゴン……って、言ってたよね)

 教壇で説明を続けている教師の様子を窺ってから、ミリアは気付かれないように教科書の違う頁をパラパラと捲る。するとものの数秒で、目的の竜に関する情報が記載されている頁を見つけた。


『名称:ディノドラゴン。種別:地竜。階級:ペリドット~アメシスト。特徴:体長三メートル程度。炎は吐かず、俊敏な動きで獲物に近付き、鋭利な爪や牙で襲い掛かる。地竜種の中で最も個体数が多いとされていて、単独或いは複数で行動する性質がある。備考:下級竜ではあるが、稀に大規模な群れを成して行動する場合があり、遭遇した際は注意が必要である』


 ……という注釈の隣には、あの時見た竜がそのままの姿で挿絵となって載っている。

 それを目にした途端、ミリアの背筋に微かな悪寒が走った。

 ペリドット級と遭遇しただけでこのザマだ。ダイヤモンド級の竜の強さなど、ミリアには想像もつかない。

(……私の村を襲った竜って、どんな姿だったっけ……)

 ほんの少しだけ気になり、朧げな当時の記憶を呼び起こそうとするミリア。

 過去の事は、ハッキリと思い出せない事の方が多い。だが自分が住んでいた村を襲撃した竜は、確か一頭ではなかったはずだ。正確な数まで覚えている訳ではないが、翼を生やした竜が群れを成していたように思う。

(……止めよ。今更こんな事知っても気持ちが沈んじゃうだけだし。今は授業に集中しなきゃ!)

 ぷるぷると小さく首を振って、ミリアは視線を前方へと移した。

『竜識学』の担当教師は、黒板に文字を書きつつ説明を続ける。

「全ての竜に共通するのは、強靭かつ強固な鱗を備えているという点だ。トパーズ級以降になると、通常兵器のみではまず歯が立たなくなる。故に、高階級ランクの竜を討伐する上で必要不可欠となってくるのが、騎士と魔術師の連携だ」

 騎士、という言葉を耳にして、ミリアは思わず姿勢を正した。

 昨日、何の因果か自分のパートナーとして決まってしまった青髪の少年、エルク・ディアフレール。彼ほど無愛想という言葉が当てはまる人間に、ミリアは未だかつて出会った事がない。

 今頃は、バネッサと共に『騎士科』の授業を受けている最中なのだろうが……。

(『あれ』って、やっぱり見間違いだったのかなぁ……?)

 今朝の出来事を思い出しつつ、頬杖をついて黄昏るミリア。端から見るとその姿は、まるで想い人に恋い焦がれている物語の主人公のようだ。

「ミリアちゃん。ミリアちゃん……!」

 そんな恋する乙女に、隣から小声で話し掛けてくる者がいる。

 一体誰がそんな無粋な真似をしてくるのかというと、それは友人のセシリー・ウィンチェルであり、なぜ彼女が小声なのかというと、それは少女の身に危機が迫っている事を密かに伝えようとしているからであり、ならばその危機とは何なのかというとそれはつまり――

「初日から盛大に呆けるとは、中々味な真似をしてくれるなぁ、ミリア・クロードライト」

(……!? しまった……!!)

 気付いた時には後の祭り。

 友人の助けも虚しく、初日の、初っぱなの授業から、先生の雷を喰らうミリアであった。






 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆






騎士魔学園ナイツマジック・アカデミー』は、俯瞰して見ると六角形型に建てられた外壁に囲まれている。北向きに建てられたコの字型の校舎や、入学式を行った大講堂。敷地内は、校庭以外は基本的に緑の芝生で覆われており、中庭には清らかな水を湛えた噴水と、天に向かってそびえる時計塔が設置されていて、どこかのどかな雰囲気を見る者に感じさせてくれる。

 午前の授業が終わり、ようやく迎えた昼休み。

 校舎の一階。東棟の端にある食堂内の購買で昼食を買い込んだミリアは、それを抱えて学園内を歩き回っていた。

 目的は一つ。例の青い髪の少年を見つけ出す事だ。

 昼食を購入する際、ざっと食堂内を見回してみたのだが、談笑する生徒達の中に、その姿を見つける事ができなかったのだ。

 故に彼は、恐らく別の場所で昼食を取っている。

 そう判断したミリアは、昼食を誘ってくれたバネッサとセシリーに用事があると伝え、急いで食堂を後にした。

 敷地内を歩いていると、時折生徒達の楽しげな声が聞えてくる。どうやら皆、昼食を思い思いの場所で取っているらしく、賑やかな空間が点在してできている。

(――あっ! やっと見つけた!)

 校舎の東棟と西棟を繋ぐ渡り廊下から中庭に出たミリアは、噴水の傍にある茶色い木製のベンチに、目的の人物が腰掛けている姿をようやく捉えた。

 心地良い陽射しの下、エルクはミリアと同じく、購買で手に入れたと思われるサンドイッチを黙々と噛っている。

 よしっ! と気合を入れつつ、ミリアは小走りでエルクに近寄って声を掛けた。

「こんにちは、エルク。良い天気だね」

「…………………………、そうだな」

 顔を上げ、一旦ミリアの顔を見て、また元の位置に視線を戻し、短く呟くエルク。

 できるだけ明るい口調になるように注意を払いながら話し掛けたのだが、やはり相手も中々手強い。笑顔も交えず、ほぼ無表情のまま返事をされてしまうと、話し掛けた方も心が折れるというものだ。

 すでに戦意喪失が近い状態に追い込まれながらも、ミリアはどうにか踏み留まり、負けじともう一度声を掛ける。

「あのさ……、私もここでお昼ご飯食べてもいい? ああッ、もちろん迷惑じゃなければなんだけど!」

 断られた時の事を考えて、しっかりと予防線も張っておく。ミリアは意外と抜け目のない性格をしているのだ。

「……構わないが……」

 食事する手を止め、改めてミリアを見上げるエルクの視線は、ある一点に向けられている。

「一人で食べるつもりなのか? その量を」

「えっ?」

 やや目を瞠った様子のエルクに指摘され、ミリアは両手で抱えている自分の昼食に視線を落とす。

 それぞれ具材の違うサンドイッチが四つと、粉砂糖で味付けされたスコーンが一つ。干し葡萄入りのパンが二つにチョコレートパンが三つとメロンパンが四つ。あと飲み物として牛乳が二本。

 正直な所、これでもまだちょっと足りないかなぁとも思うのだが、あまり食べ過ぎると眠たくなって、午後の授業に支障が出てしまう。まだ初日だというのにそれは頂けない。

 ……いやまぁ、支障なら午前の時点ですでに出ているので、今更気にする必要もない気がしないでもないがゴニョゴニョ。

「そうだけど、何かおかしい?」

「…………………………いや、別に」

「?」

 口を開け閉めして何か言いたそうにして、しかし結局ははぐらかしたエルク。

 不思議に思いつつも、一応許可はもらったので、ミリアはエルクの隣に腰を下ろす。……隣と言うには、少々間隔が開き過ぎている気もするが。

(…………………………うーん。勢いでここまで来ちゃったけど、何から話せばいいんだろ)

 サンドイッチをもぐもぐ咀嚼しながら、チラリとエルクを盗み見てみる。

 少年は相変わらず、感情の掴み難い表情で無言を貫き、ミリアとは違う具材のサンドイッチを噛っている。

 昼食を取り始めてまだ数分とはいえ、こうも沈黙が続くと居たたまれない。しかし、昼食を一緒に取りたいと言い出したのは、他でもないミリア本人だ。

 自分から言い出した以上、責任は彼女自身に帰結する訳であって、他の誰か――例えば隣の朴念仁――に支援を期待するのは筋違いである。従ってこの場合、話題を提供するのはミリアの役目であるはずなのだ。

 サンドイッチを食べ終え、次なるパンの包み紙を開けつつ考える。

(天気……の話はさっきしちゃったし、だからっていきなり『今朝何してたの?』なんて聞くのもおかしい気がするし……)

 取り出したメロンパンを頬張り、仄かな甘味を堪能しながら悩み抜いた末、ようやく答えらしきものを思い付くミリア。共通の話題といえばこれだろうと、自信を持って口を開く。

「午前の授業、どんな感じだった? やっぱり『騎士科』だから、いきなり実技とかあったの?」

「……まぁな」

「……」

「……」

 会話に要した時間、僅か十秒。

 ついにと言うかやっぱりと言うか、そこで少女の戦意はポッキリと折れてしまった。

 元から受け答えが素っ気ない少年だというのは理解していたし、覚悟もしていたつもりだった。しかしいざ実演されると、その破壊力は凄まじいものがある。

 しかもミリアが項垂れている間に、あろう事か隣の少年は食事を終えてしまいそうな気配を出し始めている。

 聞きたい事を聞くなら今しかないと、ミリアは自身を奮い立たせた。

「あのさ、エルク! 今朝早くに、どこかへ出掛けようとしてなかった?」

 と、思い切って尋ねてみた瞬間だった。

 サンドイッチを食べ終わり、包み紙を丸めていたエルクの手がピタリと止まった。

 数秒静止した後、蒼い瞳がミリアに向けられる。

「……なぜそんな事を聞く?」

 感情の掴み難い表情のエルクから返ってきたのは、質問に対する答えではなかった。

 揺らぎのない蒼い双眸に見つめられ、なぜか少々気圧されてしまったミリアは、小さく息を呑んだ。

「えっと……、見間違いかも知れないんだけど、寮から出ていくエルクの後ろ姿を見た気がしてね。私、起きたばっかりだったから寝惚けてたんだと思うんだけど、一応エルクに聞いてみようと思って……」

「……」

「あー気に障ったんなら謝るよ、ごめん! そうだよね、誰だって人に聞かれたくない事くらいあるもんね!」

「……別に、気にしていない。それにお前の言う通り、多分見間違いだろう。今朝早くというのが何時頃だか知らないが、生憎俺は食堂が開く時間まで部屋に籠っていたからな」

「そ、そっか……。なら良かった」

 何が良いのか自分でもわからないが、とりあえずうんうんと頷くミリア。

 対してエルクは、丸めた包み紙をベンチの傍にある屑篭に放り入れ、静かに立ち上がる。

「悪いが俺はもう行く。あんまりのんびり食ってると、午後の授業に遅れるぞ」

 言われて、中庭の隅にある時計塔を見上げてみると、確かに時刻は午後の授業が始まる時間に迫りつつある。

 急がなきゃ! と視線を戻した所でミリアは気が付いた。件の少年の背中が、もう随分と離れた位置にある事に。

(……気のせいかな。何か、ちょっと不機嫌だったような……)

 終始感情の掴み難い表情だった為、真偽は定かではない。だがあの一瞬で、少年を包む空気が変わったのは確かだ。

 本人は否定したが、あの反応から察するに今朝ミリアが目撃したものは、見間違いではなかったのではないだろうか。

 しかしそうなると、尚更気になってくる。

 あんな朝早くに、どこへ何をしに出掛けたのか。そしてなぜ、それを隠そうとするのか。

 昼休みが終わる直前まで考えを巡らせたミリアではあったが、当然答えに辿り着く事はできなかった。






 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆






 午前中に『竜識学』、『魔草薬学』、『魔導機学』という三つの座学を消化し、次はいよいよ本格的な魔術を学ぶ時間となった。

『戦魔学』と呼ばれる、実技主体の魔術授業。それはミリアにとって、至福の時間と言っても過言ではない。

 どれだけこの時を待ち望んだだろうか。

 自らの手で、魔術を操る瞬間を。

魔よ来たれ、顕現せよエレメント・オン・アクチュアル

 その言葉を唱えた瞬間、『戦魔学』の担任教師リンディ・マーフェスの周囲に、四つの光玉が生み出された。

 深紅、紺碧、翡翠、黄金。四色の光玉は、まるでリンディを包み守るかのように、彼女の周囲を一定の速度で旋回している。

 やがてリンディは右手を前方に翳すと、詩を歌うかのように言霊を紡ぎ始めた。

「我が身に宿りし灯火の加護よ。灼熱の力を以てして、悪しき者を焼き焦がせ!」

 唱えられた言霊に対して、意思を持って反応するかのように、旋回していた四つの光玉が停止する。

 リンディの正面に静止した深紅の光がその強さを増すと、残る三つの光が音もなく消え去った。

 途端、リンディの周囲で次々に火の粉が舞い始める。

灯火の矢ファイア・レイ!」

 夕陽を思わせる深紅の火を纏った五つの鏃が、リンディの周囲に形成され、前方に向かって射出された。

 彼女から十メートルほど離れた位置には、木製の菱形の的が等間隔にいくつも設置されている。

 まるで流星群のように流れ行く五つの火矢は、次々に的へと命中し、紅い爆発を起こした。

 しばしの静寂の後、生徒達から自然と拍手が巻き起こった。

「このように、魔術の基本的な流れは単純だ。まず体内で魔力を精製し、術式発動の言霊を発し、最後に呪文を詠唱する。コツを掴むまでは苦労する者もいるだろうが、逆に言えば、この一連の流れを修得してしまえば、下級系統の魔術でつまずく事は無くなる。全てはキミ達の努力次第だ」

 相変わらず、軍人のようなきびきびとした動きで授業を行うリンディは、先程の魔術で破壊した的に視線を向け、

再形成せよリクリエイション

 という、短い言霊を発した。

 すると爆発によって粉々になったはずの木製の的が、時間を巻き戻しているかのように修復され、破壊される前と同じ状態になった。

 生徒達が再び、驚いたようにざわめきを起こす。

「さて、見ての通り的はいくらでもある。先程の流れを滞りなく行えるようになるまで、各自練習を繰り返してくれ。わからない事があれば、何でも質問してくれていい」

 振り返りつつ、よく通る声で生徒達に呼び掛けるリンディ。彼女の覇気の強さに後押しされたのか、生徒達は皆、やる気に満ちた表情で練習を開始していく。

(よし! 私も頑張らなくちゃ!)

 両手でパシッと頬を叩き、気合を入れるミリア。とりあえずはと近場にある的を選び、意識を集中させる。

 まず行うべきは、体内で魔力を精製する事。

 瞳を閉じ、自身の内側に語りかけるように集中力を高め、全身の熱を一箇所に集めるような感覚で力を溜め込む。

 リンディが発動した火属性の下級魔術『灯火の矢ファイア・レイ』の詠唱呪文は、すでに頭に入っている。あとは彼女を模倣して、発動まで持っていけばいいだけだ。

魔よ来たれ、顕現せよエレメント・オン・アクチュアル!」

 両目を開くと同時に、術式発動の合図を叫ぶ。

 直後、ミリアの体内で精製された魔力に術式が呼応し、彼女の周囲に四色の光玉が生み出された。

 深紅、紺碧、翡翠、黄金。リンディが披露したものと同じく、一定の速度で旋回するそれらは、あとに続くであろう呪文を待ち焦がれているかのように、終わりのない円舞を続けている。

(いける……! あとはこのまま呪文を――)

 手応えを感じたミリアが、呪文を向上しようとした、その時だった。

 突然、四色の光玉とミリアの間に、青白い稲妻が走り抜けたのだ。

「……ッ!? なっ、何……?」

 驚き、目を瞠るミリアを尻目に、青白い稲妻は徐々に激しさを増し、バリバリと不快な音を立て始めた。

 ミリアと同じく異変に気付いた周囲の生徒の何人かが、短く悲鳴を上げる。

「ミリアちゃん!」

 すぐ近くで練習していたセシリーが、鬼気迫る表情で呼び掛けてきた。どうやら彼女は、ミリアの傍に駆け寄ろうとしているらしい。

「駄目! セシリー、近付かないで!」

 力一杯の言葉で友人を制止し、ミリアは自身の内に湧き上がる魔力を押さえ込もうとする。だが周囲で暴れ回る稲妻に集中を乱され、歯止めを掛ける事ができない。いつの間にか四色の光玉達も、優雅とは言い難い歪な動きで周囲を旋回している。

(どうして……!? 何で急にこんな……ッ!)

「落ち着けクロードライト! 集中力を乱すな!」

 傍観する事しかできない生徒達の輪を掻き分け、リンディが足早に近付いてきた。彼女はこの現象に覚えがあるのか、発生している稲妻の隙間を器用に摺り抜け、狼狽するミリアの両肩を強く掴む。

「先生……! 私……っ、こんな事するつもりは……!」

「わかっている、落ち着けと言っただろ。これは魔力を込め過ぎた事による暴走現象だ。無理に押さえ込もうとすると、却って反動が大きくなる。どんな形でもいいから、一度炸裂させてしまうしかない」

「で、でも私、やり方なんて……」

「心配するな、私に任せればいい。――全員、できるだけ私達から距離を取れ! 巻き込まれるぞ!」

 リンディが鋭く呼び掛けると、生徒達は我れ先にと離れ始めた。

 セシリーが心配そうに後退る姿を目にし、ミリアは胸の辺りに鈍い痛みを感じた。

 無自覚だったとはいえ、友達にあんな顔をさせたのは自分だ。一歩間違えば、彼女にも危険が及んでいたかも知れないのだ。

 自然と俯いてしまうミリアを他所に、傍らのリンディが静かに紡ぎ始める。

「我が言霊は汝の寄る辺。抗うなかれ、暴れるなかれ。預け、委ねよ。汝の魔は、我が身が背負う」

 任せろと告げた彼女の頼もしさを体現するかのように、周囲の稲妻が見る見る内に勢いを弱め、ついには霧散して消え去ってしまった。

 瞬間、リンディは右手を勝利の旗印の如く掲げ、新たな言霊を口にする。

「集え炎。集え力。滅する紅蓮は刃となりて、悪辣なる愚者を討ち滅ぼさん」

 落ち着きを取り戻した四色の光玉の一つ、深紅の光が強さを増し、リンディとミリアの周囲に灼熱の炎が発生した。

 渦を巻きながら集束していくそれは、やがて一振りの紅い刃を形作り、リンディの右腕の動きに連動して、花弁のような火の粉を撒き散らしている。

紅蓮の炎刃バーニング・ブレイド

 巨大な炎の刃が振り下ろされた瞬間、緋色の爆撃が立ち並ぶ無数の的を容赦なく吹き飛ばした。

 リンディの言葉から察するに、恐らく暴走して行き場を失ったミリアの魔力を受け取り、自身の力に変換して解き放ったのだろう。

 圧倒的な威力で複数の的を同時に破壊する様は、またもや生徒達にある種の感動をもたらしたらしい。瞬く間に事態を収拾させたリンディに向けて、拍手と歓声が湧き起こった。

「怪我はないか? クロードライト」

 手振りで静まるよう周囲に促した後、リンディは気遣わしげに尋ねてきた。

 我が子を見守る親のような優しさが感じられて、同時にそんな優しさを掛けられるような状況を作ってしまった自分が情けなくて、ミリアは思わず視線を逸らした。

「……平気です。すみませんでした……」

「気にする事はない。失敗など、誰にでも起き得る事だ。――キミは少し休憩しているといい。無理に続けても、良い結果が生まれるとは限らないからな」

 柔らかな口調と共に、軽く頭を叩いてくるリンディ。俯くミリアに移動を促し、他の生徒達には授業継続を呼び掛け始める。

「ミリアちゃん、大丈夫だった? どこも怪我してない?」

 生徒達の輪から外れようとしていたミリアに、駆け寄ってきたセシリーが心配そうな顔付きで尋ねてきた。

「平気だよ。ごめんね、セシリー。私のせいで危ない目に遭わせちゃって……」

「そんな、私は全然大丈夫。だからミリアちゃんも気にしないで。ねっ?」

「……うん。ありがと」

 緩く笑みを返して、セシリーの許を離れるミリア。

 授業が始まるまではあんなにはしゃいでいた自分が、嘘のように感じられる。熱心に魔術を練習している他の生徒達の声が、やけに遠くから聴こえてくるような気さえした。




 その後、結局ミリアは一度も魔術を扱う事なく、初の『戦魔学』の授業を終える事となった。

 もしまた失敗したら、という恐怖心が邪魔をして、魔力を精製する事さえできなくなってしまったからだ。

 自身が願う夢と、容赦のない現実の間には、容易く越えられない溝がある。

 少女にとってその事実は、押し潰されそうな重圧を感じさせるものだった。

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