第29話

 「逃がしたか……」


 悔しさの滲む声。風の凪いだ夜に、それはしばらく残留するかのようだった。

 シンキは完璧に逃げおおせたらしい。彼女の纏う厭な雰囲気は、綺麗さっぱり消え去っていた。

 パキン、と流麗な音を立てて、アークの手の中の剣が砕けた。リドルの血を飲んだことによる一時的な身体強化が解けたのだ。同時に酷い倦怠感と頭痛がアークを苛む。

 愛する者を殺し続けたリドルの人生。自分の心を殺し続けたリドルの人生。その生々しい経験は、人を簡単に狂気に陥れる。吸血鬼の活動時間である夜だというのに、アークの体は早急な休息を必要としていた。


「もうヤツを追う余裕は無いな、まさか教会があんな粛正者を抱えているとは」


 その場に座り込み、シンキのことを思い返す。あの若さで、どれだけの異端を狩ってきたのか、想像もつかない。本人の実力、精神性は未熟さが残っていたが、もしもう少し彼女が経験を積んでいたのなら、やられていたのは確実に自分達の方だった。ここで仕留めてしまいたかったが、最早詮無いことである。

 今アークがするべきなのは、自分の周囲で転がっている仲間達の回収である。人数分の人形をなんとか取り出し、運ばせる。普段なら寝ぼけていても出来る作業だが、それをするだけでも大きな溜め息が出た。


 その後、なんとか仲間達をカールの屋敷に運び込み、それぞれの部屋のベッドに寝かせたところで、アークの意識は途切れた。せめて自分の部屋のベッドで、という理性は焼き切れ、深い闇の中に堕ちていく。



***



 これは夢だ、とアークは即座に理解した。それも、とびきりの悪夢である。

 吸血鬼になってから、夢はほとんど見なくなった。永い時を生きる吸血鬼にとって、「忘れる」機能は不要である。吸血鬼は人のように1つの出来事が心の傷になって残ることはない。見えぬはずの心の傷の治癒力すら、人を遥かに凌駕しているのである。よって記憶を整理するための夢を見るという機能も不要だ。時に娯楽として見る者もいるらしいが。

 アークもまたそれらの者達に倣って、この夢を見てみることにした。恐らくはリドルの記憶に関する夢だろう。面白いものとは言い難いだろうが、久方ぶりに見る夢に弄ばれるのも悪くはないと思ったのだ。


 瞬間的に様々な場面が移り変わる。しかしどの場面も、場所こそ違えど似たような状況である。男の死体を前に佇む黒髪の女、である。

 女は各地を転々としていた。人を殺して、一所に止まれるはずもない。

 行く先々で人を殺すことになる。愛する人を自分の手で亡くす悲しみは、その部分はただの人でしかない女の心を着実に壊していった。

 愛することは殺すこと、殺すことは愛すこと。本来繋がり得ないはずの2つの行為が神から与えられた狂気によって繋がってしまう。神は一体何を考えたのだろうか。いや、その答えは簡単だ。いくら長期運用を想定した英雄であっても、世界のシミであることに変わりは無い。他の英雄よりは長生きして、最終的にその狂気と罪悪感で壊れて死ねばいい。簡単なロジックである。

 アークはそれを残酷とは思わない。リドルに多少の同情はするが、神のするその行為は管理者として一番効率が良いのだ。最小の損害で最大の利益を、理想であり夢物語とすら言えるそれを可能にしてしまうのが神なのである。そこになどというものが介在する余地は無い。


 場面がまた切り替わる。どこまでも広い荒野を歩く女、その先には底の見えぬ谷、世界の果ての淵がある。


 そこに至ったところで、アークは夢を見るのをやめた。テレビの電源を切ったかのように視界が暗くなる。


 ここからは知っている。女は遂に自分の理想に出会うのだ、1000年の果てに、『殺しても死なない愛する者』を、毎日互いに笑い合い、争い合い、末永く共にいられる存在を。

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