レイニーデイズ・シャイニーレイズ

@YAMAYO

1・マリコの豊かな生活

 大学の卒業を期に実家を出て独り暮らしを始めるにあたり、私がまずをもって優先したのは、立地でも家賃でも間取りでもなく、部屋の日当たりの良さだった。


 私はそのこだわりを決して生半可な覚悟で心に掲げたわけじゃない。


 そのことに関しての私の頑なさは、鋼の貞操帯を二重に着けた鉄の女の操よりもまだ頑強だったという自負がある。

 

 駅前の不動産屋を訪ね、日当たりさえ良ければ特に条件はないのだと告げた時、私の相手をした若い男は、簡単なお客で助かるなと内心で呟いたことと思う。


 彼は終始楽観的に構え、目上の者が対場の低い人間に何かを諭す時のような余裕と優越が程よく入り混じった落ち着きを存分に見せつけてきた。


 右も左もわからぬ新卒女子大生だと甘く見ていたのだろう。


 彼は厚いスクラップ・ファイルの中から適当な物件を手際よくピックアップしては私の前に得意そうに広げ、熱心な説明を繰り返した。


 築年数の浅い小ぎれいで洒落た外観の物件ばかりのところをみれば、彼なりに女性の独り暮らしを配慮して気を利かせてくれたのだと思う。


 彼がすらすらと滑らせる能弁な舌からは最新のセキュリティー・システムやモダンなデザイン性など、各物件の長所が情感もたっぷりに次々と紡ぎだされた。


 見事なプレゼンテーションだった。


 だけど私は別に企画会議に出席しに来たわけじゃない。


 優秀な人間の見事な仕事ぶりや、若い女の子の前で恰好を付けなければならないという男の性的アピールなど、私は一つまみも求めてはいないのだ。


 むしろそんなもの邪魔クサいくらいだった。


 身振り手振りも交えて熱っぽく語る彼に対し、私はその度、それで日当たりはいいのか?と、冷たく問い続けた。


 後半は幾分、その口調に苛立ちさえこもっていたと思う。


 だって私が求めているのは日当たりだと最初から言っているじゃないか。


 その部屋がどんなコンセプトの元に造られていようが、『期間限定・サクラサク春の新入居キャンペーン』の対象内だろうが、惜しくもその対象外だろうが知ったことではないのだ。


 この光景の一部だけを写真のように切り取ることができたとしたら、それはまるで不貞を犯した彼氏が必死になって彼女に弁解しているみたいに写ったことだろう。


 私の徐々に徐々に鋭く尖っていく眼光に削り取られるようにして、彼の自信や余裕や勢いは尻すぼみに小さくなっていった。


 良く回っていたはずの舌はピタリと動くのを止め、その口元には力のない苦笑いが消え入りそうなほど薄く浮かんでいるばかりだった。


 きっとめんどうな客だと思っていたことだろう。



 確かに彼の顔は、昔嫌な別れ方をした元カレにどことなく雰囲気が似ていた。


 結んだネクタイのセンスはおぞましいの一言だったし、微かに漂ってくる甘ったるい香水の香りには嫌悪感しか覚えなかった。


 けれど、だからといってその店員に特別意地悪をしたかったわけじゃない。


 私のこだわりの方が、どんなに素敵で魅力的な不動産的メリットの数々よりも勝っただけの話なのだ。

 

 彼の飽くなき仕事への情熱と、男としての気高きプライドをあっさりと踏みにじってしまったことには今更ながら本当に申し訳なく思う。


 これからの彼の不動産屋人生に暗い影が落ちてしまわないようにと切に願うばかりだ。


 せめてもの償いとして、もしもこの先誰かに不動産屋を紹介するような機会があったとしたら、私は真っ先に彼のことを薦めてあげよう。


 そんな機会があったあかつきには、本当、必ず、絶対に……。

      


               ***



 どうしてそこまで部屋の日当たりにこだわらなければならないのか?


 正直なところ私にだって理由はいまいちはっきりとはしない。


 というよりも初めから理由なんてないようなものだった。


 それは遥か遠い昔、ある日どこからともなくやってきたと思ったらそのまま無断で私の心と人生の中に住みつき、やがては私の全てを支配した。


 誰かの完璧な計算の元で何者かの手によって何重にも張り巡らされ、何某(なにがし)かの思惑のままに何気ない日常の中へと巧妙に仕組まれたトラップは、幼い私を否応なくその冷たく無感情に光る鉄の牙で捕らえてしまったのだ。



 小学四年生の春休み、優しい春の風が街中を吹きぬける穏やかな日曜日の昼下がり、私はある言葉と運命的な出会いを果たした。


 私はとにかく快活な子供だった。


 家の中で気取りながらおままごとや人形遊びをするよりは、鼻水を垂らした男の子達に混じり、泥だらけ傷だらけになって外で駆け回っている方が好きだった。


 身長だって腕っぷしだって負けず嫌いの性格だって、近所の子供の中でも一番だった。


 真っ黒に日焼けし、膝を擦りむき、スカートを捲くりあげながら(一応、女の子らしい恰好はさせられていた)私は太陽の子供の一人として元気に成長していった。


 だから髪だって長く伸ばして結うでもなければアクセサリーを付けて可愛くするでもなく、ずっと男の子のように床屋で短く刈り上げてもらっていた。


 その方が動きやすかったし、涼しかったのだ。


 そんなある日のこと、さすがに母が危機感を抱いたのか、半ば強引に髪を伸ばさせ、ある程度の長さになったところを見計らって自分の通う美容室に私を一緒に連れて行ったことがあった。


 女の子らしい髪型にさせようとの魂胆だ。


 夕飯に私の大好物を作ってくれるという話に簡単に乗せられ、為されるがままに大人しく椅子に座っていたのだけれど、カットが終わり、大きな鏡に映し出された自分の姿を見た瞬間、私は人生で初めて鳥肌が立つという生理現象を体感することとなった。


 母をはじめ、その場にいたスタッフも皆、可愛いだとかお人形さんみたいだとかお仕着せるように私を褒めた。


 しかし、私にはその鏡の中にいるお人形さんがどうしても好きになれそうになかった。


 その姿はまるで、日頃あまり良好な関係を築けているとは言い難いクラスの女子の一派閥の女の子達にそっくりだった。


 彼女達は少し大人びた早熟な子が集まったグループで、日々ティーンズ雑誌を読み漁っては研究し、恋だの愛だのに只ならぬ興味を抱き、オシャレをすることに命と時間とお小遣いの全てをかけていた。


 私は休日に覚えたての薄化粧をした彼女達が澄まし顔で街へ繰り出していくのを何度も見たことがあった。


 大体想像がつくとは思うのだけれど、そんなオマセな女の子達と、泥や汗やにまみれた野生児の私の間にほんの一端でも噛み合うことができる歯車など当然あるはずもなかった。


 彼女達に私は理解出来なかっただろうし、私は私で彼女達を何一つ理解出来なかった。


 そして人でも国でも惑星でも、解り合えないモノ同士がやがて辿り着く先の宿命として、私達の関係はひどく剣呑なものとなった。


 おまけにある日の放課後、私が彼女達のお気に入りの一人である男子生徒と楽しそうにサッカーをしていたことがずいぶん気に障ったようで、次の日から私を見つめる彼女達の目付には、蔑みと憎悪と荒れ狂うような嫉妬心が余分に足されることとなった。


―― どうしてそんな下らないことで怒らなければならないのだろう? ――


 子供ながらに私はそんな疑問を抱いて首を傾げた。


 そう、彼女達の問題は何も背伸びをして大人ぶることなどではなく、その偏狭な考え方にあった。


 彼女達から見て可愛くないもの、汚らしいもの、子供っぽいものなど、少しでも規格の物差しから逸れて気に入らないものがあったなら、それは断固排除され、辛辣に潰され、無慈悲に打ち捨てられた。


 世界に自分達の好きな物だけをはべらせていたいのだ。


 そんな狭い世界の中で何を威張って何を必死で守っているのか、やっぱり彼女達の考えなんて私には一つも理解できそうになかったし、そんな気色を別段隠そうとはしなかった。


 だから巧みな技術によってカットされ、可愛らしく小洒落てしまった自分の姿も到底理解できそうになかった。


 そこに写る自分が彼女達のようにとても意地悪く、傲慢そうに見えて仕方なかった。


 呆然としている私を尻目に、母親は心から満足した様子で、カットを担当したスタッフや顔なじみの客たちと、整えられたばかりの愛娘の髪をオカズに和やかに談笑していた。


 私はそんな大仰に喜んでいる母を見て、なんだか恥ずかしくなった。


 そしてそれにも増して怒りとも嫌悪ともつかないムカムカとした感情が湧き上がってきた。


 娘が意地悪そうになったって言うのに何を嬉しそうにしているのお母さん?

 

 見た目さえ可愛くなればそれでいいの?


 私もあの子たちみたいに色んなものを馬鹿にしたように生きればいいの?


 そう思うのが早いか、私は衝動的に手近にあったカット用具一式が置いてあるトレーの中からハサミを一本取り、たった今キレイに揃えられた自分の前髪をざっくりと真横に切った。


 話に華を咲かせ、誰も私の方に注意を向けてなどいなかったのだけれど、ザクッとまるで厚い布地でも裁断したような音がしたので、母をはじめみんな一斉に私の方に向き直った。


 その時私はハサミの第二刀目をつむじの付近に入れているところだった。


 一同、目の前で繰り広げられている俄かには信じがたい光景に頭がうまくついてきていないようで、誰一人止めに入ることもなく、切られた髪がハラリと床に落ちるのを口をポカリと開けたまま黙って見ていた。


 結局、私が四回目のハサミを入れたところでようやく母親が青ざめながら私の手からハサミを取り上げ、頬を打ち、その乾いた音を合図にして美容室全体に混乱が怒涛のように訪れた。


 居た堪れなくなった母はそそくさと料金を払い、私の手をグイと引っ張りながら店を後にした。


 振り返ると、美容師や頭にパーマのロッドを巻いたご婦人達が唖然としたままこちらを見ていたので、私はそちらに向かっておどけたように、そして何より勝ち誇ったように舌をペロリと出した。




 「まぁ、マリコちゃん。どうしたのその髪?」


 いつも通っている理容室のおかみさんが目を丸くさせて驚きながら聞いた。


 「いろいろあったのよ」


 私はニコリと笑いながら大人ぶって言った。


 「元に戻せる?」


 「うーん、元通りってわけにはいかないだろうけど……」


 「なんでもいいや、とにかく整えるだけ整えて」


 「ちょっとだけ待つけどいいかい?今、手一杯なんだよ」


 「うん、いいよ」


 私は待合室としてこしらえられた隣の部屋に入り、古びた長椅子の上にドカリと腰を下ろした。


 六畳ほどの小さな待合室には見知らぬお爺ちゃんが一人うたた寝をしているだけで、誰も私の変な頭を好奇な目で見てくることもなく、ちょっとだけホッとした。


 ここに来るまでの道中でそんな視線にどれだけ出くわしたことか……。自分でやったこととはいえ、やっぱり人からジロジロ見られるのはなんとも背中がむず痒くなった。


 多分、母はもっと恥ずかしかったことだろう。


 私の手を強く握ったまま、好奇の目を避けるように黙って足早に進む母の背中は、怒りも悲しみも恥辱もない交ぜになったわけのわからない感情のためか、わなわなと震えていた。


 そしていつもの床屋の前につくとクルリと振り返り、私の手に幾らかお金を押し付け、何か言うでもなくそのまま一人で帰ってしまった。


 目さえ合わせてくれなかった。


 だけど私には母がせめて見られるくらいには髪を整えろと言っているのがわかった。


 長年、母娘をやっていれば大抵のことは『ツー・カー』でわかる。


 それなら私があんな髪型を気に入るはずもないこともわかって欲しかったと私は肩をすくめてから扉を開けた。


 私は別にめげてなんていなかった。


 ぶたれた頬は確かに痛かった。これから家に帰って落ち着けば、母は天地がひっくり返りでもしたかのように喚いて怒るだろうし、当然、日頃温厚な父も二言三言注意してくることだろう。

 

 そして母は父が私に甘いからこういうことになるんだと今度は父に食ってかかるだろうし、父はそれを受けて困った顔をして謝ることだろう。


 そう思うととばっちりを受けた父には申し訳ない気持ちもしたけれど、やっぱり私は自分のしたことに一欠けらの後悔もなかった。


 私は私が正しいと思ったことをしたんだと、むしろ堂々と胸を張りたい気分だった。



 おかみさんの言うとおり、私は結構な時間待つこととなった。


 昔ながらの小さな床屋だったので、カットの椅子は二つしかなく、覗いてみるとその二つの椅子には同じくらい恰幅の良い同じくらいの年の頃のおじさんが座り、おかみさんと旦那さんがそれぞれに付いて、どちらも同じくらい黒々としたいかにも脂っぽい髪を切っていた。カットする方もされる方もみんな顔見知り同士らしく、何事か話に花が咲いてハサミを入れる手が止まるのもしばしばだった。


 どっと笑い声が上がる度に隣に座っているお爺ちゃんの肩がピクッと反応したけれど、規則正しい安らかな寝息は決して乱れることはなかった。


 これは本当に長くなりそうだった。


 私は暇つぶしに何か読もうと思って待合室の本棚を目で探った。


 少年漫画や週刊誌、何日か分の新聞がそこに雑然と並んでいたのだけれど、どれも私の気に入りそうにはなかった。


 漫画はこの店に何年も通っている私がとっくに読破していた物しかなく、それも例え暇潰しにでももう一度読み返したいと思うほど面白い物でもなかった。


 かと言って週刊誌に載っている袋とじの開けられたグラビアや芸能人のゴシップ記事、金運を上げる財布や妖艶な美女が誘うようにニコリと微笑む精力剤の広告にも心は魅かれなかった。


 がっかりし、私も隣のお爺ちゃんみたいに少し眠ろうかなと思った時に、ふとそのお爺ちゃんの座る椅子の隣に何か雑誌が置いてあるのが見えた。


 桜をモチーフにしたピンクと白の可愛らしい表紙に惹き付けられてそっとその雑誌を手に取ってみた。

 

 不動産情報誌だった。


 なんで床屋の待合室にそんな物が置いてあったのか、今にして思えば不自然と言えば不自然だった。


 多分、アパートかマンションを探していた店のお客が忘れていったか、邪魔になってそのまま置いていったかしたのだろうけれど、その時の私はそんな疑念など一つも抱くことなく、いい時間潰しを見つけたと思ってほくそ笑んだ。


 ……それがいい時間潰しだと思った私に対してもちょっと疑問だけど。


 ちょうど転入居の激しくなる三月、物件情報はとても潤沢で、刊行した出版社も熱心だった。


 ただの貸アパート・マンションだけじゃなく、庭付き一戸建ての中古住宅や都心部にドンとそびえ立つタワーマンションの入札、西洋のお城のような立派な佇まいの建物(破綻したラブホテル跡)に至るまで、ほぼ全面がカラー写真という気合の入りようだった。


 おかげで読めない漢字が多かったにも関わらず、私は世の中には色んな家があるものなんだなと感心し、図鑑でも眺めているかのようにすこぶる楽しかった。


 そんな風に読み進めたちょうど全体の真ん中あたり、表紙と同じく、桜の白とピンクの二色で大々的に描かれた一際カラフルな特集ページに差し掛かった。


 そしてそれこそが私のこの先の人生を左右した……のかしなかったのか、まだ人生の只中にいるのでなんとも言えないところだけど、とにかく私に何かしらの影響を与えた言葉がそこに載っていた。


 豊かな生活は日当たりから


 これは日当たりの良い物件を特にフューチャーして寄せ集めたその特集のキャッチ・コピーだ。


 週刊なのか隔週なのか月刊なのか、この不動産情報誌の名前がなんだったのか今をもってわからないのだけれど、多分、その都度こんな風に一つのカテゴリーに絞った特集ページを組んでいたのだろう。


 それは良いねらいだったかもしれない。


 カテゴリーにたまたま合致した物件を探している人にとってみれば、無尽蔵に繁茂する選択肢を前にしても無駄に迷う必要がなく、手間も省けた。


 だけど、まさかそのキャッチ・コピーが、床屋の順番を待っている小学四年生のいささか利発すぎる女の子の心を強く揺さぶろうとは、編纂に関わったスタッフの誰一人として思わなかっただろう。


 私はその言葉に文字通り釘付けになった。


 「……豊かな生活は日当たりから」


 声にも出してみた。


 もちろん、それが部屋の日当たりについて言及していることも、それだけで生活が豊かになるだなんて過剰に表現していることも理解していた。


 誰かのありがたいお言葉や何かの経典の一節などではなく、ただの雑誌の特集コーナーの見出しなのだ。


 だけどその言葉は私の心に何かを必死で訴えようとしていた。


 そして私の心はその言葉に必死で応えようとしていた。


 豊かな生活を送りたかったのだろうか?

 それとも日当たりの良い家で暮らしたかったのだろうか?


 確かに生活は豊かでもなかったし、家の日当たりだってさほど良い方でもない。とは言え格別貧しかったり家庭に不和があったりもせず、今日みたいに小さな嫌なことはたくさんあったけれど、差しあたって暮らしに不満を感じているわけでもないはずなのに……。


 私は腕を組んで、不毛か有毛かもわからない様々な想いを巡らせた。



 どれ位の時間が経ったのか「マリコちゃん、待たせたね」と、おかみさんが私に声を掛けた時、あの双子みたいにそっくりなおじさん達はいつの間にか帰ってしまったようで、カットをする二つの椅子はどちらも空いていた。


 「ずいぶん待たせちゃったけど、大丈夫?疲れてない?具合は悪くないかい?」


 ただでさえ変な髪をしているうえに、慣れない考え事のためにボンヤリとしていた私の顔を、おかみさんは心配そうにのぞき込んだ。


 「……ううん、大丈夫だよ。ちょっと眠っちゃったみたい」


 私は心の揺れを気取られないように努めて明るく言った。


 「いつもみたいに可愛くしてよね」


 「それはいいけど……本当に何があったんだい?」


 「さっきも言ったでしょ?女には色々あるものなの」


 「何を一丁前に」


 おかみさんは大きく笑いながら私のおでこを小突いた。


 私も笑った。


 笑ったら少しだけ気分がすっきりしたような気がした。


 それでも私は髪を切られている間もずっと先程の言葉が頭について離れず、おしゃべりなおかみさんの話も上の空で聞いていた。


―― 豊かな生活ってなんだろう? ――


少しづつ整えられていく髪を鏡越しに見ながら、私はずっと答えを探していた。


 お金や物がたくさんあることだろうか?

 それともおめかしをして街に繰り出すことだろうか?

 あるいは無理にでも自分の娘を可愛らしくすることだろうか?


 ……よくわからなかった。


 そしてそのうち考えるのが面倒になったので、一旦、この問いを保留することにした。


 それに、何事か自分で言ったことに対してガハガハと大きな口を開けて笑っているおかみさんを見ていたら、少なくとも難しいことをあれこれ考え過ぎるのは豊かな生活とは言えないなと思った。



 帰り際、外に出ようとしたところで私はハッと思い出した。


 「そういえば、私と一緒にお爺さんが待っていなかったっけ?」


 「あ」


 どうやらおかみさんも忘れていたようだ。


 二人で待合室を覗くと、あのお爺さんが最初に見た時と寸分たがわぬ姿勢のまま、相変わらず穏やかに昏々と眠り続けていた。


 私とおかみさんは顔を見合わせて笑った。


 こういうお爺さんみたいにのんびりとした生活を送ることも、多分、豊かな生活の一つの形なんだろうなと私はしみじみ思った。

 


                   ***



 ―― 豊かな生活は日当たりから ――


 あの時けらけらと笑っていた十歳の私は、まさか自分が大学を卒業してこれから新卒社会人としてバリバリ働こうかという二十二歳の三月の寒空の下でも、同じ言葉を変わらず胸の中に抱いていようとは夢にも思っていなかった。


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