これだけ降ったなら
もうすぐ宝塚記念ですね。
今年は少頭数だとかメンバーが手薄だとか色々言われてますが、それでもれっきとしたGI。
きっと素晴らしいレースになると思います。
そうなると気になるのがお天気。
どうも今年は雨の中でのレースになるかもしれないと聞いて、わたしは昔のことを思い出したのでした。
競馬を見始めて数ヶ月経った頃。
わたしはジャパンカップ当日の府中競馬場にいました。
秋の天皇賞でメジロマックイーンが引き起こした大混乱が、頭の中からまだ抜けきっていない中。
しかし、この日は晩秋の日差しがやけに明るく周囲を照らしていました。
騎乗停止明けの武豊ジョッキーがこの日から競馬に乗ると聞いてましたし、ジャパンカップにもメジロマックイーンが参戦します。
どんなパフォーマンスを見せてくれるのだろうかと、期待と不安を抱えながら、京王線の電車から競馬場に乗り込みました。
ところが、復帰初戦の4レース。彼はスタート前に騎乗馬を放馬させてしまいます。
「あら、珍しいこともあるもんだ」
つい口に出てしまいました。すると横にいた先輩がこう言います。
「さすがに騎乗停止明けはいつものようには行かんだろうさ。今日はあまり勝負出来んかもなあ」
そんなもんなんでしょうねぇとわたしも返し、レースを見守ることに。
「もっとも、特別戦が始まるまでには本調子に戻っててもらわんとこっちが困るんだ」
先輩はそんなことも言います。
どうしてと聞くと、「そりゃあお前、狙ってるのがいるからさ」と当然のような口ぶりの返事。
「華はないが前に行ってしぶといのが今日の7レースに出てくる。武豊に乗り代わって人気になっちまったが、まあ勝ち負けだろう」
それならわたしも乗りますと返し、ふたりで7レースのパドックへ。
「ほら、あの17番がそうさ。派手さはないが血統は悪くないし、ここならやれるはずさ」
先輩に言われて見てみると、鹿毛の馬が厩務員さんに曳かれて歩いてます。
「菊花賞にも出たくらいだから力はある。この距離だって得意だ。後はすんなり前に行けるかどうか」
先輩は17番の馬を見ながら教えてくれます。ゼッケンには「オースミロッチ」と名前が記されています。
「重賞でもいいとこ見せるくらいは出来る奴なんだ。本来ならここにいちゃいかんのだが……」
どうやら、先輩はずいぶんと評価している様子。
それならとわたしも彼の馬券を買うことに
そうして、スタートを待ちました。
ゲートが開くと、彼はすんなりと2番手のポジションをキープ。
直線に入ると逃げ馬を競り落として粘り込みの体制。
しかし、最後に交わされてしまい結局3着に。
「もうちょいだったんだけどなあ……」
先輩はそう言いながら、悔しそうにハズレ馬券をゴミ箱に突っ込みます。
「前に行くからどうしても、な。もうちょい乗り方もあったかも知れんが仕方ない」
先輩はジョッキーの乗り方に文句を言いたいようにも見えます。
「……今日はツキもなかったってことだな。さあ切り替えて次行くぞ」
それだけ言うと、先輩はパドックに向かって歩きだしていました。
GI当日の競馬場は観客もだんだんと増えてきています。わたしは先輩とはぐれないよう、慌てて後を追いました。
次に彼の姿を見たのは、翌年の中山記念でした。
ここまでの間、彼はオープン特別に格上挑戦して勝ち上がると、返す刀で重賞の京都記念を制してました。
去年わたしが見た頃とは随分違い、重賞ウィナーとなった彼は頼もしそうな表情をしています。
これならやれるかなと思って馬券を買いましたが、一番人気を大きく裏切る10着に。
やっちまったなぁとわたしががっくり来ていると、横で見ていた男性が声を掛けて来ました。
「残念だったね。あの馬は京都専用だからね。わかってたら火傷せずに済んだのに」
それだけ言って、その男性はどこかへ消えてしまいました。
……そっか、京都専用だったのか。
先輩、それに気づいてたかな……。
それからの彼は京都大賞典を制し、京都ならという評価を確実なものにして行きました。
他の競馬場に来ることもあったのですが、良くて掲示板、どうかすると見る影もない大敗。
そういうものだとわかっていれば問題ありませんが、知らずに買ってたら大変だよなあと少し前の自分を思い出してみたり。
京都専用でありながら、当時の京都には彼の得意とする中距離のレースは数えるほどしかありません。
狙いを定めて出走しようとしても、オープン特別やハンデ戦なら負担重量が過大なものになって行くだろうことは、レースを見る前から明らかなことでした。
それを裏付けるよう、翌年の彼は成績が急降下していきます。
すばるステークスでは61キロを背負わされて6着。続く京都記念では59.5キロのトップハンデでブービー。
そんな状態の彼が宝塚記念に出走を決めたと聞いて、意外な感じがしました。
「確かに賞金狙いなら定量戦のここはいいかもしれないけど、阪神でそこまで走れるかと言われたら……」
そんなことも思ってしまいます。
しかし、出るとなったらきっと買うんだろうなあとも。
とにかく、先輩に連絡を入れることにしました。
「……うん、聞いてるよ。宝塚かぁ。勝ち目は薄いよな」
電話の向こうで先輩はそう言い、少し笑いました。
「まあ、何か秘策でもあるのかもしれんぜ。見に行くか?」
「行きたいのはやまやまですが、阪神までどうやって行くんですか」
「府中だよ。阪神まで行けるんなら真っ先に誘ってるとこさ」
この頃は先輩もわたしも馬券の成績は芳しくなく、どこかに遠征というのも難しい状況でした。
「気が向いたら来ればいいさ。条件戦しかないが場外行くよかマシだろ?」
「ですね。気が向いたら」
そう言うと、「じゃあな」と電話が切れました。
……行くしか、ないだろうなぁ……。
レース当日。
府中のレースをそっちのけにして、わたしと先輩はパドックの映像をモニターで見ていました。
条件戦だけなら閑散としている馬券売り場ですが、他場のGIともなると人が増えてきます。
窓口を塞がないよう、それでもなるべくモニターの近くにいたいと思っていたわたしたちですが、人出に押されてだんだんとモニターが遠くなって行きます。
そんな中でも、視線だけはしっかりとモニターに釘付けなわたし。
「マックイーンの出来が良すぎるし、イクノディクタスも連戦の疲れを見せてないしほかもよく見える……」
そんなことをひとりでブツブツ言ってると、横で先輩がこう言います。
「オースミロッチを見てみな。人気はないがいい出来だぜ」
言われて画面が彼を映し出すのを待ちました。
1枠1番なので、画像が一周してくるまで時間があります。
モニターの向こう側では雨が激しく降り続いてます。先輩はそれを見ながら続けます。
「この雨が助けになるかもしれん。まだ良馬場だが、今の阪神はかなり荒れてる。みんないいとこ走りたがるはずさ」
「……ですね。きっと内はぽっかり空くんじゃ……あ!」
「ヤネにその度胸があればな。出来はいいが」
やがてモニターの映像は騎手の整列シーンを映し出します。それぞれの馬に騎手がまたがり、馬は表情を変えていきます。
モニターにオースミロッチと主戦の松本騎手が映りました。11頭立ての10番人気ながら、ふたりともキリッとした表情に決意のほどが伺えます。
「……度胸、あると思いますよ」
わたしはそれだけ言うと、人混みをかき分けて窓口に急ぎました。
4コーナーでぽっかり空いた最内をキープしてるに違いない。きっとやってくれるはずだ。
そう、信じることにしたのです。
スタート前にロンシャンボーイがゲートから飛び出して枠入りのやり直し。
緊張の糸が切れそうになります。
「……もっと降って泥んこなら良かったんだがな」
先輩がぽつりと言います。
「あいつは重馬場もこなせる。ほかが苦手ならもっと楽が出来るかと思ってたんだ」
「大丈夫ですよ。きっとやってくれますって」
わたしはモニターから視線を移さずに答えました。
「これだけ降って荒れてんですから重馬場と変わりませんよ。信じましょう」
「……だな」
そんなやりとりをしてる間に、ゲートが開きました。
オースミロッチは最内枠からまっすぐスタート。横を見ればメジロパーマーが馬場の良いところを選んで前に出ます。
後続もそれにならって馬場の五分どころへ。オースミロッチだけが最内のラインから動こうとしません。
そのまま1コーナーに進入。オースミロッチ1頭だけ別なレースを戦ってるようにも見えます。
わたしはここで彼らの決意に気づきました。
「これだけ降ったらどこ通っても一緒だ。絶対に最内から動かないぞ。これで勝ちに行ってやる!」
最内でペースを守りながら走る彼らから、そんな声が聞こえた気がしました。
向こう正面の激しい先行争いを横目に、彼は内ラチ沿いのラインから離れようとしません。
3コーナー手前でメジロパーマーが脚元を滑らせて後退しても、彼は脇目も振らずに最内をキープ。
4コーナーも離れた外をメジロマックイーンが上がってくるのを見ながら最短距離でクリア。
そうして、直線に入ったところでオースミロッチは先頭に立っていました。
後はどこまで粘れるかだけ。
しかし現実は甘くありません。
直線に入ってすぐ、彼はメジロマックイーンに交わされてしまいます。
その後ろからイクノディクタスやセキテイリュウオーらが迫ってきますが、交わされてからもオースミロッチは粘りを見せています。
最後の最後にイクノディクタスに交わされてしまいましたが、10番人気での3着入線は上出来以外の何者でもありません。
わたしたちは大きなため息をつきました。
「……信じてて良かったですよね」とわたしが言えば、先輩も「やってくれたなあ。それも俺たちの予想以上に」と答えます。
「4コーナーで切り込んで行くかと思ってたんだがな。まさか最初から最内キープとは恐れ入った」
「あそこまでやれるなら勝ちたかったですけどね。でも、十分やってくれましたよね」
「ああ、あれ以上を望んだらバチが当たるってもんだ」
そう言ってふたりで顔を見合わせ、ニッコリと笑いあったのでした。
オースミロッチはその後も走りましたが、その年の秋の天皇賞を最後に引退、種牡馬になりました。
中央競馬では勝ち馬を出すことは出来ませんでしたが、地方競馬では少ない産駒から勝ち馬が何頭か出ました。
そうして種牡馬を引退すると、鹿児島の乗馬クラブを経て養老牧場へ引っ越し。そこで最期まで暮らしていたそうです。
わたしは今でも阪神が雨と聞くと、このレースを思い出すのです。
大雨の中、強敵に勝負を挑んだオースミロッチのような馬がまた現れてくれないかと思いながら。
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