大ケヤキの向こう側

わたしが競馬場に通うようになった頃。

まだ、外国産馬には厳しい出走制限というものが課せられていました。

マル外とも外車とも呼ばれた外国産馬はたいてい内国産馬よりも強く、それゆえに下の条件でも走らせられるレースは限られたものになっていました。

今でもいくらかの出走制限はありますけれど、当時はもっと厳しかったのです。


そこをクリアして外国の血統を国内で走らせるためというわけでもないのでしょうが、持ち込み馬というものが当時ずいぶんといました。

お腹に赤ちゃんのいる繁殖を輸入してきて、国内で産ませてしまえば外国産馬の扱いにはならなかったからです。

それに、当時はバブルのおかげで良い血統の繁殖が多数輸入されてきていて、そこから産まれた仔馬が走ってたというのもありました。

こうしてデビューした持ち込み馬は、やっぱり内国産馬よりも強いのが多かったように記憶しています。


ホクトミスワキも、そんな持ち込み馬の一頭でした。

父親は名馬と名高いミスワキ。母の父は大種牡馬ノーザンダンサー。

血統を覚え始めたわたしにとって、彼女は名馬の血統を集めた宝石のように見えたものでした。

不良馬場のデビュー戦こそ2着でしたが、折り返しの新馬戦でぶっちぎりの強い勝ち方を見せてくれた彼女。

所用で見られなかった次走でも差のない2着とがんばりを見せたようで、この日のレースでは一番人気に推されていました。


府中の競馬場のパドックで見る彼女はずいぶんと大きく見えたのですが、馬体重が440キロと聞いてびっくり。

もっと体重があってもおかしくないほど、彼女は自分を大きく見せていました。

わたしも先輩もこれには納得。先輩はデビュー前から彼女を追っかけていたようで、「こいつで桜花賞はもらったようなもんだ」とにこにこしながら言います。

距離は桜花賞とおなじ1600メートル。ここで勝ったらクラシック候補生に名乗りを上げられます。

わたしたちは勝ったら祝杯だね、いやいやクラシックの前祝いだと賑やかにスタートを待ちました。


ゲートが開くと、彼女は持ち前のスピードで先頭に立ちます。

そのまま馬群を率いて大ケヤキの向こう側。

さあここから引き離すかなと思った瞬間。


バキッ。

確かにそんな音が聞こえました。

身の毛もよだつようなイヤな音。しかも彼女からは遠く離れているのに。

同時に彼女はスピードダウン。

そこから先のことは記憶にありません……。


最終レースが終わった後。

わたしたちは夕闇迫る大ケヤキの向こう側をずっと見ていました。

「いい、馬だったよな……」

先輩の声が少し震えていました。

ええ、いい馬でしたねと返すわたしの声も、力がありません。

「クラシック行ってたら勝てたよな……」

ええ、きっとぶっちぎりでしたよ。

「子供、見たかったよな……」

ええ……。

それきり、ふたりとも黙りこくってしまいました。


大ケヤキの向こう側には魔物がいる。

いい馬ほど魔物はお気に入りで、あっち側に連れてっちまうんだ。

先輩をはじめいろんな人から聞かされていましたが、本当に魔物がいると思えたのはこの日でした。

彼女も魔物に気に入られてしまったのでしょうか。

もしそうだとすれば、よりによってこんないいのを連れてくことないじゃないかと、叫びたくなる衝動に駆られてしまいます。


20年以上経った今でも、です……。

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