第9話 第七皇子、再びの夜

 梅や水仙の、冬に咲く花が見ごろを迎えた二月一日――朔日の、夜。

 ほんの半月前の夜と同じく、すっぽんとか牡蠣かきとかいわゆる精力を増大させる食材がふんだんに使われた夕餉を終え、湯あみをすませた桂影けいえいは一人、臥房しんしつ牀榻しょうとうに座っていた。

 枕元で正座している。両膝には薄い冊子を広げていた。

(……僕に、できるのか? 房中術が――)

 できなくても、やらなくてはならない。桂影はそういう立場に生まれたから。

 皇子ではなかったら、両手で頭を抱えて、牀榻の上を転げ回りたかった。

 あの時、失敗さえしなければ――などと後悔しても、もう遅い。

 年齢相応に、人間の男女の身体については学んではいるものの、半月前の夜と比べて、桂影は疲れていないし、酒も飲んでない。

 完全な素面だ。

 極度の緊張下にある、と桂影は己の肉体を判断した。これで今回も前回と同じ結果になってしまったら――人生が、終わる。

 だから無理やり思考を変えて、桂影は相手のことを考えた。

(どうしよう、あの娘、すごい美人だ)

 加えて、彼女が属する教坊きょうぼうの人間曰く、性格と頭脳も良いとか。男が理想――夢想する女性だという。

 桂影は、綺麗なものが好きだ。宝石も、磨き上げられる前の原石も、大好きだし、風や水流で削られた岩や小石も、人の手から生み出された花々とはまた違う美しさを持っていると思う。

 あの娘は花というより宝石の仙女ではないか。琥珀色の髪に、翡翠の眸。真珠のような頬に紅珊瑚の唇。

 仙女もかくやという美貌を持つ女性は、桂影が生まれ育った場所ゆえに、珍しくはない。そして後宮なる場所は、外見以外にもあらゆるすべてを最上と評される女性ばかりが集められている。

 血筋、性格、頭脳、頑健な心身。次代の君を儲けるに相応しい女性が。

 ただ桂影の十八年の人生で、血族でもない異性と言葉を交わすのは、生まれて初めてだった。

 昼間、あの娘と言葉を交わした時は、心から水仙が仙女の姿をとったかと思った。あわてて毒花と思ったのではないと弁解したが、正直、不審者そのものだったと今更ながらに反省する。

 何度目かになるかわからない溜息を吐くと、桂影は膝上の冊子に眼を落した。

 この冊子は帝国の房中術が記された玉房経典ぎょくぼうきょうてんだ。〈黄花の儀〉を迎える皇子が熟読する、重要な指南書である。

 これには「房中術の相手役を褒め称えてから行動に移せ」としっかり明記されている。

 別に経典内容を意識していたわけではないけれど(真昼間から、赤の他人の異性を口説くのはどうかしている)、桂影は自分の口から咄嗟に相手を花に喩える科白が出てきて驚いた。

(あの娘は毒花だと知らなかったようだし)

 昼間の相手の驚いた様子を、桂影はそのように判断した。

 宮中において、取り扱える生花は、毒性がないものに限られる。また牡丹や芍薬といった薬効あらたかな花を、資格のない宮女や宦官が勝手に薬として伐採することは禁じられている。

 ゆえに、これから七王府で過ごす彼女にも、そうした知識を身に着けてほしいと思う。

 必要になるかはともかく、知識はなくて困ることはない。

 心臓に手を当てれば、やたらと早い。騎馬や剣稽古を終えた時のようだ。

 緊張しすぎると、肉体によくない。房中術を失敗する恐れがある、と指南書には書かれている。

 だから常に落ち着いて事に当たれ、とも。

 桂影は膝上の冊子から顔を上げて深呼吸を繰り返した。三度目で大きく息を吸って、吐こうとした瞬間、叩扉の音が響く。

 思わずむせたのを誤魔化し、慌てて玉房経典を枕元に押し込みながら、入室に応じると、砂豹に案内されて黄花閨女が、牀榻の前に両膝を着いた。

 黄花閨女を横目に、砂豹が足音も立てず、滑るようにして桂影に近づいた。

「畏れながら、王爺」

「なんだ」 

 砂豹は猛禽のごとき鋭い眼差しで桂影に「お障りはありませぬか」と囁く。

 桂影が十歳の頃から仕えているだけあって、砂豹は主人の応答の声がおかしいことに気づいていたらしい。

「問題ない」と桂影が真顔で言うと、砂豹は安心したのかかすかに眉尻をさげて退室した。

 二人だけになった。桂影は「こちらに」と娘に声をかけた。

 半月前と同様に、娘――翠玉が床榻に上がると、桂影の右隣に座った。

 互いが床榻の足元を見るように、横並びになる。

 桂影はちらりと視線を翠玉に向けた。床榻の近くに置かれた燭台に灯る蝋燭の光が、彼女の金髪を一層輝かせる。

 白い睡衣は、女性とわかる優美な曲線を描き、存在を主張するように豊かに突き出た胸の下では紅牡丹のごとき赤い帯が結ばれている。

 この帯は、華燭結びという。花嫁の衣装に用いられる結び方だ。

 桂影は相手の胸元ばかりに眼が行く己を自覚して、慌てて顎を突き出すようにして顔をそらした。

 互いの小指が触れ合う距離だ。桂影は生まれて初めて、人ひとりがこれだけ近くにいるだけで温かいのだと知る。

 再度、視線を向けて、翠玉の目元を注視した。

 反り返った睫毛は長く、白い肌に影を落とし、その眸は翡翠でできた玉盤のごとく。

 昼間の泣いた後は、そうと知らなければまったくわからない。それだけで桂影は胸をなでおろした。

 ゆっくりと顔を横に向けると、相手も同じように顔を動かした。翡翠をはめ込んだような眸と眼があった。無性に桂影の鼓動が早くなる。

「改めて、余の黄花を受け取ってくれるか?」

「謹んで拝命いたします」

 作法通りのやり取りを終えると、桂影は相手を褒める言葉を紡いだ。

「……き、きれいだなー」

 たったのこれだけである。

 自分でもわかるのだから、耳にした彼女にも棒読みだとはっきり聞こえただろう。

 沈黙を先に破ったのは、翠玉だった。

「……もっと感情を込めてくださいませ。婦女子は身体の部分を誉められると嬉しゅうございます」

 髪でも指でも声でも、花に宝石にたとえ、あらゆる美辞麗句をもって相手を讃える、と聞かされた桂影は柄にもなく叫んだ。

「言えるかっ!!」

 男子たる己が、そんな歯の浮くような科白を言えるものか。

 ――ちなみに寸前に眼を通した玉房経典には書いてあった。

 けれど、桂影が、恥ずかしいとか、照れなどではない、けっして、ない。私情を露わにするのが、成人男子にあるまじき行為だと育てられたのである。

 ゆえに宵徳のような人間は軽薄そのものとして認識される。

 だが、そんな桂影に対し、翠玉は不思議そうな表情で小首を傾げた。

「……御身と初めてお会いしたときは、仰ることができたのに?」

「その時に言ったからいいだろう?」

「まあ! 婦人を褒める美辞麗句が一つだけというのはいただけません」

「今日の昼に言った! 花のようだと!」

「毒花に例えるのはいかがかと」

「水仙は痛み止めに使えるんだぞ? とても世話になった!」

 桂影は自分よりも冷静な相手に、八つ当たりじみた怒りを覚えた。

「褒める言葉が多いときはどうすればいいんだ!? 君のような綺麗な娘は、褒めるだけで夜が明けるぞ!!」

「――まあ」

 おそらく自分の顔も彼女みたいに赤くなっているに違いない。そんな確信を桂影は持った。

「……ええと、畏れ入ります、はい。その場合は、あの、それが相手に伝わればよろしいかと思いますわ」

「伝わったか?」

「はい」

 頬を染めた娘に、桂影も「うん」と肯いた。

 いくら褒めるだけで一夜を過ごせそうとも、今は不老長寿に至るための作法を実践中なのだ。

 第七皇子が万の言葉で婦人を褒め称えることができても、「男」として役に立たなければ、無意味。

 翠玉が言った。右手で赤い帯の先端を持ちあげる。

「帯を解くには、こちらの端を引っ張って……ええ結び目が緩みますから大方の睡衣はこの結び方です。洞房華燭だけは、特別な結び方になっているのですが」

 皇子はいずれ初夜で花嫁を迎えるが、宮妓の場合は違う。相手に生娘を捧げる宮妓たちを慮ってのことである。

 桂影は帯を引っ張った。すると衣擦れの音がして、翠玉の肩から睡衣が滑り落ちた。白い肩や二の腕、豊かな胸元が露になる。

 桂影は狼狽えた。翠玉が説明するが頭に入ってこない。

「華燭帯は、このように花嫁の睡衣を脱がせやすく結ばれており――きゃっ!?」

 翠玉は悲鳴を上げた。桂影の右手が彼女の左胸を掴んだからだった。たわわに実った桃をもぎ取るような勢いで、だ。

 痛い、と呻く娘に、桂影は慌てて指の力を抜いた。脱力しただけで、右手は相変わらず翠玉の胸を掴んでいる。

「おっ、王爺! 今宵も左道をお望みでしょうか!?」

「いや。経典通りに、頼む」

「正道ということでよろしいですね」

「ああ」

 相手の言葉に桂影は我に返った。さりげなく右手を己の膝に置く。

 燭火を浴びて、淡く色づく白い肌と陰影が作る翠玉の色香に、桂影の心臓が内側から飛び出しそうだ。体中の血液が沸騰した感覚に襲われる。

 脳裏で玉房経典をめくる桂影は、相手の胸に触れる前に、やらなければならないことがあったと思い出す。

(な、なんだっけ――)

 正しい手順が書かれた頁を思い出す。確かに単語が書いてあった、「なにかをすべし」と。「なにか」の部分を思い出そうとするも、桂影の脳味噌は鮮明に覚えているのは、右手の温かく柔らかな感触と重量感ばかりだ。

(僕は変態だったのか?)

 桂影は、房中術で相手を尊重できない己に気づいて落ち込んだ。

(……待てよ)

 桂影は脳裏に浮かんだ考えを口にした。

 とても真面目な顔と声を作る。

「君に問う。玉房経典は知っているな?」

「はい、もちろん」

「――説明してみよ」

「はい。玉房経典は全三十篇からなる房中術の指南書にございます」

 大陸の歴史とともに記された書物。

 男女の『気』を高め、不老長寿に至る房中術は、陰陽の理から我欲の制し方、頑健で賢い御子を儲ける方法まで事細かに記されてある。

 この経典に反する行為――左道を実行すれば、たちまちのうちに『気』は弱まり心身ともに死期を早める結果となる。

 すらすらと答える翠玉に、桂影はほぞを噛んだ。両手は己の膝頭を強く握りしめた。でなければ、娘の腰に両手を回しそうになるからだ。

 自分が学んだ房中術と、彼女が宜春院で教わるそれとは違う可能性に思い至ったのだが、目論見は外れてしまった。

 合っている、のである。

 桂影がそう言うと、娘の顔に浮かぶ不安が消え、代わりに形の良い唇が三日月形になった。鳥が落ち、魚が溺れ、花も月も恥らうような、甘やかな笑みに桂影は息をするのも忘れてしまう。

(お、落ち着け、落ち着くんだ、僕!)

 桂影が知らないだけで、彼女のいる宜春院では快楽に重きを置いた左道を教えているのだと思ったのだが、どうやら見当違いだったようだ。

「くしゅん!」と翠玉が小さなくしゃみをした。申し訳ありません、と口にする彼女に代わり、桂影はずり落ちた彼女の睡衣の襟元を整えた。けして相手の白い胸元に触れたいとか見たいとか、そういう理由ではない、たぶん。

「寒くないか?」

「大丈夫です」

 桂影に答えた翠玉が笑った。

「以前も御身は同じことを仰っておりましたわ」

「そう……か?」

 内心の動揺――「なにか」を彼女にしないと、桂影は再び失敗する。なにせ房中術は、正しい手順があるのだから。

 なんと言おうかと黙考する桂影を、乱れた裾を片手で直し、柳眉をひそめた翠玉が見つめている。

「私は……私の身体は、お気に召しませんか?」

「はぁ!?」

 素っ頓狂な声を上げた桂影に、彼女は困り果てた様子で言葉を発した。

「だって、御身は怒っていらっしゃるようだもの」

 違う、と桂影が否定すれば、相手の眸が見開かれた。燭火を受けて輝く双眸は、王府にある翡翠の玉盤よりも美しい。

 などと、桂影がつっかえながら、ボソボソと言うと、彼女の眉間から皺が消えた。

「まあ良かった! では、私は王爺から見て美しいのですね?」

「――大した自信だな」

「畏れながら、この身は宮妓。美しくあることが存在意義。それに自信のない者の技芸など、観ている方を興醒めさせてしまいますもの」

 桂影の呟きを、どのように受け取ったのか、彼女は開き直った口調で言い返した。

「侍寝の御下命を賜りましたが、私の役目は御身に愛されることです。御身に愛されない以上、私がここにいる意味はありません」

 ふと、娘はなにかを考えるような顔を一瞬だけ覗かせた。右手を口元にあてて、伺うような視線を桂影に向ける。

「王爺が男装をお望みならば、準備いたしますが……」

「なぜだ、どこからそんな発想がでてきた?」

「畏れながら。御身は、私より砂豹様や雪豹とお話なさっている時のほうが、落ち着いておられるようですから」

 桂影の十八年の人生で、身内ではないまったくの他人である同世代の異性と関わるのが今回が初めてだ。

 だから自分が不審者のような言動をとっていることは十分に自覚しているし、当の本人からも指摘されて、桂影は言葉に詰まった。

 けれど、相手のあらぬ疑いをすぐさま払拭できるだけの冷静さも持ち合わせていた。

「そんな倒錯的な趣味はない。そもそも、僕は宦官も同性を相手にするつもりはない」

 君は君のままでいい、と言うと、相手は微かに眉を寄せて「そうですか」と小声で言った。

「……言いにくいことだが、これは君を小星にするかどうか決めるための試練なんだ」

 努めて平坦な声で言った桂影は、もし自分がこの娘の立場だったら相手を殴り倒すだろうと思った。宮妓とは宮廷の妓女。宮廷とは即ち瑞光帝陛下に他ならない。

(なんだ?)

 なんでそんな恥ずかしそうにこっちを見るんだ。いや、見るのは構わないんだ。だって今は不老長寿に至るための時間だ。

「……なんと言った?」

「せ、接吻でございます!」

「接吻だと!?」と娘につられて声を上げた桂影だが、すぐに「ああ」と頷いた。

「そうだな。『気』が混ざるために必要な手段だな」

 玉房経典に寄れば、男女は互いの口を重ねることで『気』を得るという。

 もっと言えば、それ以外の部分に触れることは、左道――誤った作法になるので注意が必要だ。

 指南書にも書いてあった。

(それだ!)

 桂影が彼女にやらなくてはならないこと――胸を掴む前に「接吻」だ。

 接吻後なら、いくらでも相手の肌に触れて良いと、玉房経典には記されている。

 桂影は両手を伸ばして、相手の肩を引き寄せた。 

 互いの吐息が鼻先にかかるくらいの距離で、桂影は言った。

「……君に無理をさせる」

「いいえ、王爺。この身は、御身より既に御厚情を賜っております」

 翡翠色の眸に瞼が下りると同時に、桂影は相手の唇に己のそれを押し当てた。

 

* * *


 桂影は夢を見ていた。

 ――夕焼けの風景が眼の前に広がっている。十歳まで過ごした後宮の園林だ。

 幼い桂影は、青年に手を引かれたまま、彼と同じ仕草でどこまでも広がる赤い空を仰ぐ。

 途端、青年が桂影に顔を向けた。

「――なあ、七王爺。もし御身に■■■■ができたら、そのときは絶対に■■■やれ」

 逆光で相手の顔は黒く塗りつぶされている。

 だというのに、その声だけは、はっきりと桂影の耳に聞こえ――彼は目を覚ました。


* * *


〈儀式〉を終えた翌日の昼過ぎ。

 第七皇子、桂影殿下は再び悩みを抱えていた。誰もいないのをいいことに、書斎机に両肘をついて、組んだ両手に額を当てる。

 ――夕べは、あっという間だった気がする。夢を見たはずだが、内容はまったく覚えていない。

 刻限になると、砂豹が翠玉を迎えにきて、彼女は退室した。

 名残惜しい、という感情を皇子は、顔にも声にも態度にも出してはいけない。欲に溺れた者が万が一に玉座を得ても、その国の未来は明るいとは言えないからだ。

 だから桂影は、経典に書かれた通りに相手をいたわる言葉をかけて、彼女を見送った。

(まさか、あんなことをするなんて)

 あんなことやそんなことが、本当に不老長寿に至るのか。古人はなにを考えていたのだろう、と十五の自分なら疑問に思わざるを得ない。

 用法、用量を守らねば、薬が毒に転じるのと同じく、房中術もまた正しく決められた作法に則り行わなければならないのだ。

(……取り合えず、十五に成り立ての頃じゃなくて良かった)

 あんなことを毎日やったら、身が持たないし理性が崩壊すると思う。その点でも我が父は偉大ということか。

(待て。それじゃあ毎日やりたいみたいじゃないか!)

 桂影が己の自制心の弱さに気づいて愕然としたと同時に、扉が叩かれた。

 慌てて表情を引き締めて、来訪者を出迎える。

「ご機嫌よう、七王爺」

 現れたのは砂豹だった。茶道具が置かれた四角い銀盆を運んできた。

 子どものころから最も付き合いがある宦官のため、桂影の態度が弛緩した。

 その態度は、七王府にいる唯一の女性よりも気安い。

 そうした主人の表情を見て、砂豹は微かな嘆息とともに湯気が立ち上る茶杯を桂影の前に置いた。

「向後のお食事は小星様もご一緒になさいますか?」

「なぜ!?」

 声を上げた桂影は、砂豹の白けた眼差しを受けて、「わかっている」と答えた。

 妻帯していない皇子は、一人で食事を囲む。そこに夫婦や親子でもない異性と、すなわち小星とともに食事をすれば、皇子にとって特別の女性だと周囲に喧伝できるのだ。

 基本的に、楽人や宮妓の身分は低い。それは宦官も同様だが、皇族の世話係と、宴席で侍る女性たちならば、皇子の桂影からすればどちらに重きを置くか明白であった。

 かつては技芸を披露し、糊口を凌ぐことは、身分卑しき者がすることであり、田畑を耕し、税を納めるのがまっとうな人間の生き方とされていた。

 瑞光帝の御代においては、国境で北方蛮族の諍いがあった以外は、京師や他の地方は安定しており、楽人たちに向ける視線は、過去のような蔑視は少なく、むしろ娯楽提供者や流行の発信者としての側面が強く、持て囃されているが、服喪のために、北方の離宮で過ごしていた桂影には無縁だった。

 ――ようするに、生まれて側にいる異性にどのように振舞っていいか、さっぱりわからないのである。

 女性が好むような衣装や宝石を用意した、実際に夜を共に過ごした。

 彼女は今もなお、不老長寿に至るために、桂影の側にいる。

 側に置く理由は、第七皇子が異性に関心があると知らしめるため。

 そして――――

「小星様のおかげで、まこと奴才やつがれは助かっておりまする。少なくとも紅閨にいる小者たちの育成は彼女に任せられますから」

 翠玉という、目に見え、実際に声がかかる主人という存在がいるかいないかで、使用人の質も変わると砂豹は語る。

「そうだが……」

「畏れながら申し上げます、七王爺。小星様は御身の御子を産み参らせる可能性があるお方にございまする」

 しわがれた声が、香ばしい匂いのする湯気を割る。有無を言わせない口調の砂豹に、桂影は言葉に詰まった。

 子を産む(かもしれない。それも自分の)女性と。

 子を成せない宦官。

 複雑怪奇な宮中の常識でも世間の常識から見ても、人の階層で見れば、明らかに前者が上だ。

「奴才が丁重にもてなすのは当然にございましょう?」

 飄然と答える砂豹は、元は敬事房にいた宦官だ。女の世話で禄を得ていたのだから、親族以外の異性とまともに付き合ったことのない桂影より、経験も知識もある。

 敬事房は皇帝陛下の閨房、つまり龍床に侍る妃嬪たちの管理から護衛までを務める、宦官の役所だ。最も先帝の場合は、閨に招くのが男でも女でもなかったのが問題だったのだが。

 謹んで房事にかかわる仕事を行う――だから「敬事房」。

 皇帝と次代の後継者を産む女と最も親密なかかわりを持つゆえに、宦官にとっての最高位、太監に最も近しい部署とされている。そして、それは今も変わらないと桂影は認識している。

 なにより。

 登極からほど遠かった父が、先帝に譲位を迫ることができたのも、この老宦官が手引きしたからだと、事情を知る者は囁く。

 だから、なぜ彼が太監ではなく、数段下の家令、それも第七皇子に仕えているのか。

 一説には、過去を知る瑞光帝に疎んじられているからだとも、過去に大病を患って大声が出なくなり、出世街道から外れたとも言われているが、桂影は真実を知らないし、知らなくても砂豹は、七王爺の家令として十分な働きを見せている。

 そんな砂豹に反論しようとした桂影は、叩扉の音に首を巡らせた。

 紫の袱紗を捧げ持った翠玉がしずしずと書斎に入って来た。

 袱紗に置かれたのは、墨箱だ。

 緩やかに広がる金の髪は、今は侍女らしく耳上できちんと編まれ、細い首を露わにしている。衣装は、緑襦紅裙という後宮や東宮で労役にある宮女のお仕着せだ。

「墨をお持ちいたしました」

「頼んだ覚えは……」

「奴才がお願いいたしました。王爺御自ら、小星様に御身にお仕えする心構えをお伝えくださいませ」

 暗に翠玉の面倒を見ろという砂豹の真意を読み取り、唖然とする桂影をよそに、家令は相変わらず感情が読めない表情で、翠玉に言った。

「畏れながら、小星様。次からは、墨ではなく漆妃と仰ってくださいませ」

「はい、わかりました」

 宮中ゆえに、あらゆるものを美称で言い換えるため、墨は漆妃と呼ぶ。

 素直に肯く翠玉を見てから、砂豹は桂影に拱手する。

「それでは、七王爺。奴才はまだ仕事がありますゆえ、これにて下がらせていただきまする」

 彼女と二人だけになれと言うのか――そんな桂影の無言の視線を浴びても、砂豹は意にも介さず退出した。

 桂影は、墨箱を捧げ持つ翠玉に、書斎机に置くように声をかける。

「大事ないか?」

「はい。問題ありません」

 笑顔とともに向けられた返答に、桂影は言葉を詰まらせた。自分の問いが恐ろしく間抜けだと気付く。

 大事ないから、侍女として七王府にいるのである。

 桂影は、翠玉の微笑みに、ふにゃふにゃっと緩みそうになる己の顔面に力を入れた。

 組んだ手で、口元を隠す。

 あんなことやそんなことをしたというのに、どうしてこの娘は平気な顔でいられるのだろう。

(……宮妓だからか?)

 桂影は顔をしかめた。はたから見たら、突然黙り込んだ主人に戸惑う侍女という構図なのだが、桂影の心は夕べ以来に再会した相手にどんな言葉をかけるかに砕かれて余裕がなかった。

 宮妓、宮廷の妓女。歌舞音曲を以て皇帝に仕え、宴席に侍り、時と場合によっては枕を交わす。

 彼女たちは、他人から視線を浴びることに慣れている。その美貌で、その芸能の才ゆえに。

 だから、東宮という、たとえ余人の姿がいなくとも、誰かしら――たとえば皇帝陛下直属の編廠という、宦官で構成された隠密組織など――が見ている、聴いている。

 皇子の私生活の場である東宮に足を踏みいれる官僚などは、朝廷とはまた異なる人の視線に気づくはずだ。

 また、もしも豪胆な市井の民を東宮に客人として丁重に招いても、一週間で心が疲弊するだろう。

 人の姿はない、気配はない。しかし、誰かに常に見られている、見張られているというのは、慣れない者にとっては拷問に等しい。

 そして桂影は皇子だ。他者に仰がれ、傅かれ、すなわち他者に常にみられる対象として生まれ育てられた。

 だから、皇子に仕える者は、他人の視線に慣れた者でなくてはならない。

 ――だからこの娘は肌を露出しても平気なのだろうか?

 ――いや、こちらも大変、眼福であったけれども。

 それとも皇子の自分と同じく、相手もまた己の職分を全うすべく、私心を封じているのかもしれないが。

(今それを聞くわけにはいかないだろう!)

 書斎に設けられた窓からは、からりと晴れた冬の空が広がっている。

 太陽は、まだまだ高い。

 こんな明るい時刻に、そんな質問をするのは、愚か者だ。

 と、そこで桂影は相手が立ったままだと気づいた。桂影から見て、右手側の壁を背にした状態で、彼女は背筋を伸ばして立っている。

「――君」

「はい!」

 桂影が声をかけると、弾けるような明るい声が返ってきた。

 桂影の息が止まる。

 光にかざした琥珀から糸を紡ぐことができたなら、彼女の髪はそれでできているに違いない。白玉や真珠を思わせるなめらかな肌に、紅玉も恥じるほどの艶を持つ唇。桃花石を薄く削ったのかと見紛う、整えられた手足の爪。

 儀式の最中に、それを言えていたら、良かったのに。

 今ならまだ間に合うだろうか。

(……?)

 一瞬、脳裏を掠めた違和感に、桂影は皇子として不当と見られたくないから、と判断する。

 異性を口説くなど妓楼で浮わつく花々公子じゃあるまいし、第一、自分がそんなことをしたら、元氏にも一族にも朝廷にも、宵徳と同類だと思われるじゃないか。

 明るいのも軽いのも、言い換えれば、陽気な莫迦である。

 だからこそ宵徳を支える桂影は、石のように寡黙で堅苦しく……と言った振る舞いが自然と身についたのだが、寡黙も堅苦しいも言い換えれば不気味な根暗である。

 では、余人ならあの娘をどのように褒めそやすのだろうと考えた桂影だが、この想像はひどく腹立たしいと気づいただけであった。

「墨――あ、いや。漆妃だ、漆妃。君、筆の覚えはあるな?」

「はい」

「これと、これ。これに、返信を書いてほしい」

 桂影が彼女に命じたのは、祐筆だ。第七皇子から見て当たり障りのない面子の手紙を机に並べ、彼女に説明する。

「場所は――どうぞ」

 桂影は立ち上がった。己が座っていた椅子をすすめる。

 桂影の書斎は、主人である桂影の書斎机の他に、二台の長榻に挟まれた長方卓がある。長方卓は、長榻に座った桂影の膝くらいの高さで、書き物にするにはいささか低い。

 そして祐筆を命じた相手、すなわち七王府だと、祐筆が可能な、高等教育を受けた宦官が、砂豹をはじめわずかしかいない――が、たとえば砂豹ならば、家令用の執務室があるから、砂豹はそちらで桂影の返信を代筆するのだが、翠玉は七王府の婦人居住区――紅閨の住人だ。

 いちいち紅閨と往復しなくてもいいだろう、という自論で、桂影は、皇子の椅子に腰を下ろすのをためらう翠玉を無理やり座らせ、相手の白いうなじを直視して狼狽した。

 気のせいだろうか、花のような甘い良い匂いがする。翠玉の首筋から発せられると直感した桂影は、書面に眼を落す相手に悟られないよう、じりじりと距離を取った。

 万が一にあってはならないが、ここで桂影が彼女に背後から抱き着けば、玉房経典における左道に該当する。

 変態の烙印は、嫌だ――桂影は、書斎机から離れた。

「王爺、どちらへ?」

「ちょっと出かけてくる。手紙が書けたらこちらの箱に入れてくれ。後で見るから」

 桂影は、机に置いた空の文箱を指さすと、相手の反応を見ないで、部屋を出た。

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