第3話 最悪の目覚め

「王爺」

 玻璃はりの鈴を振ったような透明感のある声に、桂影けいえいの意識が浮上する。

 ――知らない声だった。

 だから桂影は起きようとはしなかった。

 なにせ疲れているのだ。

 馬を操って半月はかかる北の離宮から数日前に東宮へと帰還し、三年間、離宮へと持ち込んだ荷物を十歳から十五歳まで過ごした七王府で紐解き、父皇帝をはじめ親族や百官に挨拶をし、予想だにしなかったあれやそれやを命じられて、とにかく忙しかった。

(あれやそれやって……?)

 衾褥ふとんのぬくもりが心地よくて、桂影は思考を放棄する。

 それにしても、この衾褥はこんなにも気持ちよかっただろうか。ぎゅっと衾褥に顔をうずめると、柔らかい、とても柔らかい。永遠にこの状態が続けばよいと思ってしまう。

 とくとくと聞こえる規則正しい音が、桂影をさらに夢の世界へといざなった。

 あと、とても良い匂いがする。

 思いっきり息を吸うと、衾褥が身じろぎしたが、桂影は気にせず、甘い匂いに「なんの花だ」と思いをはせる。

 桂影は貴石や奇石の収集家だが、花の名前については疎かった。離宮では、自ら田畑を耕していたから、食べ物の植物はわかるようになったが、賞玩用ともなると、いまだにさっぱりである。牡丹や蘭の細かい品種名なんて、教えられないとわからない。

(……ああ。四王爺よんおうやに文を送らなきゃ)

 花が好きな第四皇子を思い出す。

 早くに亡くなった長兄以外の、五人いる異母兄の中で、桂影と最も年近い五番目の兄・宵徳しょうとくは、従兄弟同士という関係もあって、わざわざ七王府を訪れたが、宵徳以外の兄皇子とは季節の文を交わすくらいだ。

 八年前に北方で起きた内乱当時は、桂影は子供だった。また皇帝がおわす京師は太平そのものであり、表向きは後宮も東宮も良好な人間関係を築いている。

 すると衾褥が動いた。逃げる衾褥だ。

 桂影は腕に力を入れ、うっすらと眼を開けた。

 ――黄金、真珠、翡翠。

 真っ先に視界に飛び込んだ貴石に、自分はいつの間に収集品を牀榻しょうとうに持ち込んだのかと考える。

(というか、なんでこんなに温かいんだ?)

 黄金も真珠も翡翠も、温石おんじゃくとしては使わない。

 思考が分散する桂影の耳に「王爺」と再び誰かの声がした。

(女?)

 桂影は何度か瞬いた。ぼんやりとしていた視覚が徐々にはっきりとした輪郭を結ぶ。

 仰向けの桂影と衾褥の間に人がいて、眼が合い――桂影は、完全に覚醒した。

「……誰だ?」

 掠れた声とこめかみに走る痛みは、昨夜飲んだ酒のせいか。

 口にしてから桂影は、現状を思い出した。

 ――自分の純潔を与える女性の存在を。


* * *


 桂影が〈黄花の儀〉を迎えた翌日の昼。

じゃって驚いているのじゃ。ぶち込む場所さえ間違わなければ、大概の皇子にとって、この儀式は成功で終わるというのに」

 再び、七王府を訪れた宵徳は、昨日と同じく案内された桂影の書斎の長榻に座ると、茶粥ちゃがゆを片付ける異母弟に半眼を向けた。

〈黄花の儀〉は国家儀礼の一種である。

 当然、その始まりから終わりまで逐一記録され、父皇帝に報告される。

 父皇帝とはすなわち朝廷、公の機関。

 宵徳他の成人した皇子も、場合によっては、臣下の一人として朝議に参加する。

 桂影の場合は、母妃への喪が明けたものの、いましばらくは皇子として朝議への出席を控える予定だが。

 昨夜、黄花閨女こうかけいじょを運んだ宦官たちは、桂影の様子を観察していた。

 黄花閨女が臥房へやに現れた時の皇子の対応や、儀式の最中に第三者を呼びつけたこと。

 さすがの桂影も、儀式の手順は頭に入っていた。だから、花を咲かせたような黄花閨女の赤い帯が解かれた気配もなく、情交の名残すらも感じられない牀榻を見た老家令や宦官たちは、諸々を悟った顔つきになり、桂影自身も内心では青ざめた。

 ――まさかの、失敗。

 黄花閨女と宦官たちが去った後、七王府の家令を務める高砂豹こうさひょうにも確認した桂影だが、自分が兄たちの評価と比べて悪い。それもかなり――というのが判明したばかりである。

 宵徳は「やれやれ」と頭を振った。

「まさか、御身が黄花閨女を抱くのを忘れて寝こけていた、などという噂を耳にするとはのう」

「寝てない、起きてた」

 黄花閨女が来るまでは、起きていた――肝心の時には眠っていたから、宵徳になじられなくとも、桂影は十分に自己嫌悪に陥っている。

「ほほう? では失敗した理由も、それに至った理由もちゃあんと覚えているのじゃな?」

 公私ともに宮言葉を操る宵徳の言いたいことは、桂影とて十分に理解している。

 だが、本音を言えば、なにゆえ成人してまで、腹違いの兄に自分の女性経験を語らねばならんのだという葛藤もあった。

 房事ぼうじに対しておおらかなのは、平民と恥知らずの莫迦ばかだけだ。桂影には、皇子としての矜持や羞恥への感情がある。

 透かし彫りが入った背凭せもたれに、両手を掛けてふんぞり返った宵徳は、紫薇花色しびかいろの長袍も相まって、巨大な蝶のようだった。彼は、書斎机に両肘をついて、空になった茶粥の皿に目をやり、押し黙る桂影を見やった。

「おぬしが、実際、どのような手段で黄花閨女を愛したのかは、余個人としては興味の埒外じゃ。じゃが、我らは皇后元氏げんしの血族。そなたのあやまちちは余の過ち、余の過ちはそなたの過ちじゃ」

 処罰を下されれば、当人のみならず一族連座が基本である。

 そして、たとえ真偽が定かでなくとも、宮中はあらゆる話題に事欠かない場所である。

 噂に尾ひれがつき、当初の原型を留めていなくても、真実と異なっていても、なにがどのようなはずみで、皇子の名誉を傷つけるかがわからない――最悪は、父帝から死を賜る可能性もあるのだ。

 そういう場所で桂影も宵徳も生まれ、育てられた。

 とくに当代は、長幼ちょうようじょを重んじる帝国の慣習と異なり、皇子本人の資質をもって次代の君とすると明言されている。

 宵徳は、皇帝の唯一の正妻にして後宮の頂点である皇后を生母に持つ、六番目の皇子だ。

 望めば、登極は不可能ではない。宵徳自身と、異母弟にして従弟の桂影がやらかさなければ、だが。

 そして桂影は、七番目の皇子。母親が皇后の実妹だったがとうに儚く、桂影より四年早く生まれた宵徳の後見に、外戚の多くはついている。

 ここで桂影も、自ら、あるいは近しい者に「己こそが次代に」などと表明なり神輿に担ぎ上げられそうになれば、宵徳ひいては伯母にあたる皇后との関係も悪化するのは予想に難くない。

 他の兄皇子とその一派は、宵徳と桂影の仲違いと、そこから発生する不祥事を期待している素振りもあるが、桂影は早くに宵徳や周りに「六王爺を支援する」と宣言していた。

 それゆえに――宵徳の黒い双眸は真剣な光を帯びている。

 覚えていないのか、と問われて桂影は黙した。

「覚えて……おらぬのか」

 答えたくなかった。答えられないのではない。

 皇子としての矜持だとか意地とか見栄とか、そうした感情が桂影の心中に渦巻く。

 そんな異母弟の沈黙を「是」と受け取った宵徳は、諦めた表情で天を仰ぎ、再び顔を前に向けた。

「最っ低じゃな」

 魅力的な笑顔も明るく軽い声もそのままに、宵徳は桂影を詰った。その眸は心底軽蔑――というより、莫迦にしきった様子を浮かべている。

「おお、なんというお可哀想な黄花閨女か。その身を捧げるというのに、相手は自分を放っておくのだもな! なぁ、七王爺!?」

「ぐっ……! 彼女にも、謝った!」

 己の現状と同衾相手の存在をすぐさま思い出した桂影だが、彼女に対して謝罪した直後に、儀式終了を告げる宦官たちが臥房へと現れ、彼女を連れて去っていった。

 黄花閨女は、儀式を終えると老娘なる後宮の産婆によって、破体女はたいめとなったかを確認される。

 黄花の――純潔の乙女が、破体女となれば、相手を務めた皇子には「男性としての機能あり」と見なされるのだ。

「頭を下げるくらいなら、その辺の猿にもできるぞ。して、黄花閨女は小星しょうせいにするのか?」

 小星とは妾妃しょうひを表す宮中の用語であり、不老長寿に至るための皇子の重要な相手役だ。〈黄花の儀〉で皇子が召し上げた黄花閨女が小星となったり、儀式後の皇子が自ら選んだ娘を表す。

 傍から事情が知らない者が二人を見れば、弟に揶揄われる兄という構図だが、実際には彼らの立場は逆である。

 宵徳は桂影より四つ上だが、その身長は男にしては小さい。

 桂影が十を過ぎた頃には、その背丈はあっさりと異母兄を追い越してしまった。

 おまけに宵徳は母親と似た顔立ちだから、身長もあいまって、二十歳を過ぎたとは思えない容姿をしており、己の外見をよくよく熟知しているから、事情を知らない者の前では、十代半ばのごとき言動を平気で行うのだった。

 桂影は堪えきれず反論した。

「僕が最低なら、三人も四人も小星を侍らせている君はどうなんだ!?」

「おっ、逆切れか? 逆切れなのか、七王爺? それはそれ、これはこれじゃ。大体、余は今まで出会った御婦人全てを記憶しておるもの。相手が来た時に寝こけていたおぬしと一緒にするでない」

 ちなみに、と宵徳は腰に両手を当てて胸を張った。ずいと金銀に輝く指環を見せつけるように、右の掌を異母弟に見せる。

「余の小星は、五人おる!」

 一週間のうち、五日は五人それぞれと過ごし、残る二日は休息――と宵徳は答えた。

「威張ることか、それ!? あと別に聞いてない!!」

「勿論だとも」

 宵徳は「英雄は色を好むのじゃ」とばっさり切り捨てた。

 ――早世した第一皇子と離宮にいた桂影を除いた、成人済みの五人の皇子の中で、宵徳が召し抱える小星の人数は群を抜いていた。ゆえに政敵には「色好みの六王爺」と謗られ、一族は宵徳の将来性に響くと懸念しているのだが、当人はどこ吹く風である。

「さあて、それで、どうするのじゃ、七王爺? 女嫌い、不能の疑いが持たれているのと、可及的速やかに小星を立てる熱心さ。どちらが皇子にとって喜ばしいことかのう」

「どちらも最悪じゃないか」

 桂影は呻いた。

 前者は、龍椅りゅういを得る資格どころか、皇子の地位を剥奪される可能性がある。

 後者ならば、「男」になったばかりの第七皇子が、早速、小星を見繕うのだから、「色に溺れた」と噂が広まるのは必至。

「じゃが、他に打つ手はあるかのう」

 あるなら教えてもらいたい、と言い放つ宵徳に、桂影は一瞥を投げて立ち上がった。己より背が低い兄を見下ろした。

宜春院ぎしゅんいんに行く」

 房中術とは、すなわち愛。

 ――愛を知らなければ、子供を作ることなどできないのだから。

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