第6話 第七皇子と家令

 七王爺ななおうやこと第七皇子、桂影けいえい殿下が大人の男になる儀式、〈黄花こうかの儀〉において、相手役を務めた黄花閨女けいじょを、自身の邸第やしきに召し抱えるため、自ら教坊司きょうぼうしのもとに足を運んだという噂は、いくばくかの虚飾があったものの、おおむね桂影の望む通りに流れた。

 噂を消すには、新しい話題を提供すれば良い。

 だから「黄花閨女を忘れて儀式の最中に眠ってしまった」という事実よりも、儀式の翌日に自ら足を運び、教坊司に彼女を小星に取り立てるほど熱心な、あるいは色惚けした皇子と思われるほうが、いくらかはマシであった。

「どちらも最低だけどな」

 七王府の書斎で、桂影は一人、自虐する。

 自分が公主だったら、莫迦にされたと思って相手を殴っている。皇子と異なり、公主の黄花は夫のみに与えられる栄誉のため、〈黄花の儀〉に類するものはないが。

 そしていよいよ彼女と対面、もとい再会するわけだが――正直、なにをどのように話すか、さっぱりわからない。

 おまけに離宮からの私物の運び入れ、新たに七王府に雇われた宦官たちの指揮、書類仕事もろもろで、桂影は体を休める時機が一向になかった。

 ようやく一息ついて、桂影は書斎机に書物を広げた。

 身体の疲労もまた房中術によって回復されるのだと、蓮の花が表紙に描かれた冊子――玉房経典ぎょくぼうきょうてんには書かれてある。

 本当かよ、と板切れ並みに薄い冊子を広げながら桂影は思った。

 経典には、他にも簡略化された男女の肉体構造や「とにかく相手を大切に!」という精神論がびっしりと書かれてある。

 一応、教育の一環として、男女の成長過程に応じた変化など学んでいるが、兄の宵徳しょうとく曰く「知識と実践はな、全然違うのじゃよ」とのこと。

 経典を閉じて、抽斗に仕舞った桂影はこめかみを揉んだ。

〈黄花の儀〉を終えて、この十日間は大変だった。

 教坊司の元を訪れた際に、桂影は、黄花閨女との面会が制限されたことを知らされ、面食らった。どうやら、今回の桂影の時に初めて導入された条件らしい。

 前回――つまり六王爺こと第六皇子、宵徳殿下が、〈黄花の儀〉を終えた直後に黄花閨女をその場で己の小星に任命し、さらに別の娘を一人二人……と手をつけ、彼女たちに休息を与える名目が必要と判断されたからだった。

「ほらな、やっぱり余の時と違うじゃろ?」

「君のせいじゃないか!」

 どこから聞きつけたのか、三日連続で七王府を訪れた宵徳とそんな不毛なやり取りをした後、桂影は七王府の北――紅閨こうけいと呼ばれる、婦人用住居の改善に乗り出した。

 なにせ十歳から十五歳まで過ごした東宮の七王府も、当時ですら紅閨は清掃範囲内だが、住む人はおらずこれといった調度品も少なかった。

 そしてまた七王府に仕える使用人も、人数やその質が限られていた。

 王朝によっては、宦官は皇帝、皇后、妃嬪ひひん、皇子、公主と多くの主人に仕え、その分だけ派閥も生まれ、争いの火種となったが、当代における宦官はすべて皇帝の御為に存在しており、彼らはあくまでも「皇帝の命令によって皇子に仕えている」だけに過ぎない。

 だから皇子が生まれて九歳まで育つ後宮と、十歳から住む東宮の宦官は顔ぶれが変わる。

 五年間、東宮の七王府で働いた宦官たちはみな有能であったから、母を偲び北の離宮へと赴く桂影には、家令である砂豹さひょうをはじめとするごく少数の者だけが随従となり、多くは、そのまま東宮や後宮の別の部署へと異動が決まった。

 現在の七王府は、宦官を育成する内侍省が鍛え上げた「皇子に仕えるのが初めての」宦官ばかりが多い。

 だから主人にして皇子の桂影や、家令であり七王府の使用人を束ねる砂豹も、新米である彼らに対する指示は、具体的かつ細かくなるため時間や手間がかかる。

(こんな状態で、小星を迎えて大丈夫なのか……?)

 小星は女使用人として、皇子に仕える。主に紅閨で過ごす彼女のために、小星用の使用人も必要で、王府内の体制が変わる。この辺のやり取りを砂豹と決めた桂影は、誰もいないのをいいことに欠伸をもらした。

 離宮では、日が沈むと同時に眠り、夜明けと共に目覚める生活を過ごしていた。

 東宮に戻ってからは、宴ほどの規模ではないが、親族男性を招いて七王府で晩餐会を催し(〈黄花の儀〉を完遂した前提での、祝い事だった)、桂影の儀式の結果については、「離宮から戻られたばかりゆえ、お疲れだったのでしょう」と客人に気遣われてしまった。

(見放されないだけ、良しとしよう……)

 件の儀式日の夜は熟睡だった。

 どうも儀式前に葡萄酒を飲んだからだと思うのだが、次の日もその次の日も同じ分量を飲んでも、二日酔いに襲われるだけだった。

(まさか三年の間で酒に弱くなっていたなんて……!)

 頼んだ覚えはないのだが、砂豹が運んできた、あの葡萄酒。

 鶏の卵一つが入る程度の銀の杯を飲み干しただけで、まさかあんなに眠くなるとは――などと、取り返しのつかないことをいつまでも悔やんでいる桂影だが、書斎の扉は一向に叩かれる気配がない。

 正直、今も――もうすぐ昼になるというのに――頭が痛いし、正直言って横になりたい。これから七王府を再訪する小星のために、昼寝の時間を削ったのだ。

 両目をこすった桂影の耳に、扉を叩く音がする。皇子としての顔で応じれば、砂豹が現れた。

「畏れながら、七王爺に申し上げます――」

 宦官が皇子に対する口上を述べたのちに、砂豹は言った。

「小星様のお迎えに伺った者が過ちを犯しました」

「なに?」

 眠気が吹き飛ぶ。砂豹の説明によれば、七王府から宜春院ぎしゅんいんまで、件の黄花閨女――書類上では、すでに「小星」扱いとなっている彼女を迎えに、二人の宦官と馬車を用意したのだが、道中、車輪がぬかるみに嵌り、二人でどうにか馬車を引き上げているうちに、宜春院への到着が遅れたという。

 宜春院に到着した彼らは、翠玉を探すも見当たらず、門番に尋ねたところ、すでに徒歩で七王府に向かい、その後は知らないと伝えられた。

「……なんと」

 桂影の体にどっと疲れが沸き起こる。自分の自覚以上に、かなり疲労していたらしい。

「馬車が使えなくなった時点で、片方が七王府に知らせてくれれば、手が打てたのに……」

「仰せの通りにございまする」

 思わずぼやく桂影に、砂豹も眉間にしわを寄せる。

 七王府で働く宦官のうち、現場に慣れ、臨機応変な動きができる者はまだ少ない。

 宦官は内侍省で、言葉遣いから立ち居振る舞いといった宮廷作法、家事、学問、武術など多岐にわたる教育が施されるが、拝礼だけができる者が、たとえば七王府から六王府に手紙を届け、六王爺に主人の代理として挨拶を交わす、という段階に達しているわけではない。

 葡萄酒一杯で泥酔したことを気に病む己を棚に上げて、桂影は「仕方ないな」とだけ言った。これだけで砂豹には、迎えに寄越した宦官二人への処罰内容を、同じく宦官である己に一任されたとわかる。

 皇子本人が罰するのと、使用人を束ねる家令が罰するのでは、当人や他の宦官たちの心情も違うのだ。

 桂影自身は、宦官の些細な不始末については寛容だった。己の命や尊厳を脅かされず、そして宦官自身が命に係わる行動を取らない限りは、大抵のことを許してしまう。

 ゆえに使用人である宦官への懐の深さが、七王爺は異性に関心がないとも讒言されるのだが。

「ええと、それで。彼女はどこでなにを? もうここにいるのか?」

「いいえ。現在、手の空いている者を教坊、七王府から宜春院の道、六王府に向かわせております」

「六王府?」

 門番曰く、六王府の馬車――荷馬車と彼女が鉢合わせしたらしい。

「荷馬車って、あの荷馬車か? 屋根や椅子がない……」

「御想像通りかと」

「――彼女は、馬車に積んだ荷物に乗るような人か?」

 歌舞音曲をはじめとする芸術に秀でた宮妓や楽人は、時として常人と異なる行動を取る。芸術家ゆえに許される振る舞いは、当代である瑞光帝が芸術分野の理解者だからだ。

(教坊司は、性根も素晴らしいと言っていたが)

 美人で性格もいい女性は、後宮に召し上げられることが多い。

 現在の後宮は、そうした女性の多くが皇帝陛下に仕えているが――――。

(そんな女性を、僕のそばに置いていいのか?)

 という疑問が、桂影の胸の奥底に生まれる。

 皇子の純潔を賜る黄花閨女や不老長寿に至るために侍る小星の存在は、皇子にとっては同衾相手というだけではなく、将来の花嫁に対して皇子がどのような態度

をとるかという、百官の観察項目でもあった。

 皇帝の娘である公主の降嫁先が、政治であるのと同様、皇子の花嫁相手とその一族も、国家の将来に、皇子自身と周りにどのような有益をもたらすかが重視される。

 当代の皇子は、生まれた順番ではなく、皇帝陛下によって、次期皇帝である「太子」に指名される。

 ゆえに、長男を太子とし、以下の皇子には、順次、適宜ふさわしい伴侶――許嫁を用意するのが朝廷の役割であったが、現在では、どの皇子が皇帝となるか不明のため、皇子の多くは許嫁を持たない。

「在下は存じませぬ」

 と、悩む桂影に寄り添う気配もなく砂豹が言った。能率的な老宦官の態度に、桂影も考えるのをやめる。

「そうだな。僕は眠い。すまないが、彼女が来たら起こしてくれ」

「はい。――して、七王爺。御身はどちらで午睡なされますか?」

 普通に室内の長榻で眠る気だった桂影は、浮かせかけていた腰を椅子におろした。

 老家令の意図を問うように、無言で見つめる。

「畏れながら。お見えになった小星様を、そのまま臥房でお迎えなさいますか? それともまさかこちらで――」

「いや、いい。わかった!」

 桂影は立ち上がった。

「彼女とはここで会う。会うだけだからな!?」

「かしこまりました。それで侍寝の日はいつになさいますか?」

 尚も問う砂豹に、桂影はうんざりした顔で、机の片隅に置いた帳簿を開いた。

 この帳簿には七王府で働く宦官たちが、誰がどこの配置かが記載されている。侍寝とは、皇子が他人と同衾する日である。

 専門知識や技術が必要な経理関係や厨房勤め以外は、王府内の警備や掃除を輪番する。

〈黄花の儀〉を再開した場合は、夜間の王府内の警備や浴堂の準備を行う人員をも考えねばならないのだ。

 本来ならば、皇子と気心が知れた勝手の分かる宦官が、人員配置を考えるのだが、七王府の場合は、宦官同士も互いの人間関係の構築の真っ最中であり、砂豹を含めたわずかな熟練者は新米宦官の育成で忙しく、桂影も口を挟む結果となった。

 現在いる宦官で、家令を務める砂豹が最も桂影に近しい存在だ。

 もし桂影が、皇子として女性を侍らせる場合(異性の一人や二人と同衾しないと、身体の機能や嗜好が疑われるご時世なのである)、砂豹も家令として夜に活動するため、彼の朝の起床時間を遅くしたり、昼間に仮眠をとる時間を与えねばならない。

「……えーっと。一日。一日にする!」

 二月一日――朔日さくじつは、東宮に住む皇子たちの公務日だ。ゆえに王府で働く宦官たちも、勤務の流れを把握している者が多い。

 自分がなにをするか分かっている者が多いから――砂豹が昼に休息する時間があっても大丈夫なのだ。

「朔日にございますか」

 よろしいので? と砂豹に問われたが、桂影は「ああ」と頷いた。

 一月半ばに行った〈黄花の儀〉を失敗した桂影は、早急にやり直しをして「男」になったと周囲に公言せねばならない。

 時間が経てば経つほど「不能」の疑いや謗りが免れないが、今回から黄花閨女は儀式後は一週間の潔斎が設けられ、桂影には打つ手がなかった。

 おまけに彼女を出迎えるために三日間も日にちを要したため、二月も近づいた現在までになると、だんだんと考えるのが面倒くさくなってくる。

 これまでの蓄積された疲労が露わになったのか、半ば投げやり状態に見える桂影に、砂豹は慇懃に頭を下げた。

「かしこまりました」

「ああ。僕は寝るぞ」



 

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