第16話 西陣

 株式会社アゴラの登記簿には見慣れぬ住所が記載してあった。


  京都市上京区東鞍馬口町二十四


 戸部貴志君に訊くと、これが新しい本社だという。

 なんでもかんでも勝手に決めてしまう貴志君には困ったものだが、大映通りの本社は引き払わなくてはならない。松永社長に明け渡すつもりだ。


 「いっぺん見てみたらええわ。絶対に気に入る物件ですわ。」

 貴志君の「絶対」は侮れないのも事実だから、新事務所とやら見せてもらおう。


 梅雨の明けの空に太陽がこれでもかとばかりに輝き、アブラ蝉の鳴声が京都の町に夏の到来を告げたその日、私と戸部京子君、後藤工場長と石崎君は、杉山さんを留守番に残して件(くだん)の住所へ向かった。


 千本鞍馬口でバスを降りた私たちを貴志君が出迎えた。

 「西陣へ、ようおこしやす。」

 なるほど、西陣か・・・

 鞍馬口通りを東へ入ってまもなくのところに、その物件はあった。


 「町屋なのだ!」

 戸部京子君が顔を輝かせた。

 「そう、西陣の京町屋、築七十年の伝統ある建物や。」

 貴志君はそう言って、玄関の引き戸を開けると、一階は土間になっていた。

 後藤工場長が土間の広さを測るように奥へと進んでいった。鰻の寝床と呼ばれるように京町屋は間口が狭く、そのかわりに奥行きがある。

 「ここに調理台を置いたら、鯖寿司の調理場になりますわ。昔、三好水産がただの魚屋やった頃は、こんな調理場でしてん。それが鉄筋コンクリートの自社ビルになって、調理場が工場になってしもうた。」

 後藤工場長は町屋の木の感触を楽しむかのように、古びた柱をさすっている。

 貴志君がこの町屋の歴史を語った。

 「ここはですな、西陣織の織機がいくつも並んでたんですわ。アゴラの本社にふさわしい物件でしょ。二階の六畳と四畳半を事務所にしたらええ。」


 私たちは町屋独特の急勾配の階段を登って二階に上がった。

 二階は屋根に照りつけた太陽の熱で蒸し風呂のようになっていた。


 戸部京子君が南の窓を開けた。

 窓の向こうは物干しになっていて、京都の街が見渡せた。

 京都の街は北から南にかけてゆるやかな勾配になっていて、上京からは眼下に京都の街を見下ろすことができる。

 一昔前であったならば、町屋のいらかが海のように広がっていたのだろう。今ではマンションやビルがところどころに建っていて私たちの視界をさえぎっている。


 戸部京子君がすごく嬉しそうにして物干しに上がった。

 「仕事の後はここで夕涼みなのだ。」

 「ビールと枝豆があったら最高っスね。」

 石崎君も町屋事務所に見惚れている。

 東京生まれの石崎君にとっては新鮮な驚きがあったのだろう。


 この物件、土地の広さは四十坪弱と見た。

 家賃もそれなりではないかという私の危惧を、貴志君はたちどころに打ち消した。

 「家賃は七万円ぽっきりですわ。」

 その安さに驚愕した私に、貴志君が説明してくれた。


 西陣は西陣織で栄えた織物の町である。

 町には西陣織の製造を束ねる織元おりもとがたくさんあった。織元はいくつもの町屋を所有しており、職人である織子おりこさんたちに町屋を貸して、そこで仕事をさせた。

 着物文化が廃れた今でも、織元の旦那衆はそれなりに豊かであり、町屋を貸して家賃収入で生活しているわけではないのだそうだ。

 むしろ町屋を守りたい。町屋を再利用して町を活性化させたいと願っているというのだ。

 この鞍馬口通りにしても、若い人たちが町屋に住み着き、食べ物の店や手作りの工芸品の店を開いたりしている。


 「ただし、条件があるのが西陣のおきてなんですわ。」

 条件だって?

 私がいぶかっているところに、ひとりの老婆が階段を登ってきた。

 その昔、ムームーと呼ばれた涼しげな茶色のワンピースを着ている。

 「こちらが、大家さんの吉本さんですわ。」

 私たちは吉本のお婆さんに挨拶した。

 吉本さんは今年で喜寿を迎えたのだそうだが、町屋の急な階段も難なく登れるほどかくしゃくとしている。


 吉本さんは私たちを一瞥したあと、石崎君に目をとめた。

 「お兄ちゃん、あんた足は速そうやな。」

 「これでも高校時代は陸上部っス。」

 「それから、そこのお姉ちゃん。」

 今度は戸部京子君だ。

 「あんた運動会で得意な種目はあるか?」

 「パン食い競争なら負けないのだ。」

 「頼もしいなぁ。それに、あんた、ええ顔しとる。」


 吉本さんは私と後藤工場長を振返って、

 「あんたらは体つきが大きいさかいに綱引きやな。」

 いったい何のことを言っているんだろうと怪訝な顔をしていた私に、貴志君が助け舟を出してくれた。

 「つまりですな、この町屋に住むからには町内の行事、とりわけ年に二回の町内対抗運動会には何をおいても出場しなければならんというわけです。」

 何とも浮世離れした条件だ。しかしそれがこの町の文化なのだ。

 私はここを本社にすることに賛成し、みんなが同意した。

 みんな大いにこの町屋が気に入ったようだ。


 「西陣へ、よーこそ。」

 吉本さんは、ペコリと頭を下げてお辞儀したあと、私たちに質問してきた。

 「ここを事務所にしはるのは聞いてますけど、おたくさんらは何屋さんや?」

 間髪を入れず戸部京子君が答えた。

 「あたしたちはお寿司屋さんなのだ。」

 「ここをお店にしはるんか?」

 「二階を事務所にして、一階で鯖寿司を作るのだ。」

 吉本さんの顔が少女のようにぱっと明るくなった。

 「鯖寿司かいな。大好物や。あんたらなんぼでも作り。わたしが買うたげる。それからご近所にも宣伝しとくさかい、きばって美味しい鯖寿司を作るんやで。」

 「任しておくれやす。」

 後藤工場長が胸をたたいた。

 吉本さんは、後藤工場長の肩をたたき、

 「あんた、ぼーっとしてるけど、腕はよさそうやな。」

 と言って笑った。



 町屋の内部の長さや大きさを測量するために後藤工場長と石崎君が残り、私と戸部京子君は大映通りに戻ることにした。

 焼けるような暑さの中、私たちはお土産に「茶洛さらく」のわらび餅を買ってバスに乗った。


 留守番に残ってくれた杉山さんにわらび餅を差し出し、戸部京子君がお茶をいれ、私たちは夏の味覚を楽しんだ。

 「茶洛のわらび餅はスーパーで売ってるのとは別物なのだ。」

 「そりゃ、この一箱で千円やからあたりまえや。」

 女性と言うのは甘いものに目が無いばかりか、批評も厳しい。


 そんな時、一通の書留郵便が届いた。京都地方裁判所からのものだった。

 それは裁判の呼び出し状だった。

 呼び出し状には、債権者 松永重治の名前があった。

 債務者として三好水産株式会社の部長である私の名前がある。

 私が三好水産を不法に占拠しているというのだ。

 松永は、自分が社長であるという地位の確認と、三好水産の明け渡しを訴えてきたのだ。


 裁判の日は七月二十八日。

 いよいよ、敵も攻めてくるか。

 だが、先手を打っているのは私たちのほうだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る