思い出ラーメン <モフモフコメディ>甘い扉 Ⅱ

来冬 邦子

第一話  風涙の探しもの 

 本日の昼休みは探しものがある。


 とはいえ月初めの月曜日とあって、朝から問合せや催促の連絡がひっきりなしだ。オフィスが通常のテンポで回り始めたのは十四時をまわる頃だった。


 ようやく昼休憩に入れた舘花たちばな風涙ふうるは、逃げるように職場を後にする。ややもすれば気が急いて、パンプスのかかとがカツンコツンとアスファルトの歩道を打った。


 お腹がすいた。ずはランチだ。風涙は裏通りのカフェへと足を向けた。南青山の表通りは近頃にぎやかで落ち着かない。


 真鍮しんちゅうのバーハンドルに手を掛けようとすると、扉のガラス越しに人影が見えた。折しも店を出ようとした青年が、風涙の為にそのドアを押さえてくれた。石畳の小径に珈琲の匂いが店の外に漂い出ると、入れ替わりに沈丁花じんちょうげのかぐわしい香りが流れこんできた。


「ありがとうございます」


 風涙の会釈えしゃくをうけて、その小柄な青年の口元が柔らかくほころぶ。


「It's my pleasure.(お役に立てて光栄です)」


 風涙は軽く目を瞠る。青年は粋なしまの着物に黒い光沢のあるトンビのコートを羽織っていた。黒髪はポニーテール。その装いがしっくりと様になっている。

 通り過ぎたあとには微かに白檀びゃくだんが香った。


 ――演劇の人かしら。それとも茶道の家元。デザイナーかも。


 バーゲンで買ったピーコートがふいに恥ずかしくなった。

 老舗の印刷屋に就職して七年目になるが、風涙はスッピンに近い薄化粧だ。流行りのスタイルを追うよりも、自分はシックであればいい。余裕があれば本を買いたい。そんな志が揺らぐ日も間々ままあったけれど、今日はいつにも増して胸が波立つのだった。


 遠ざかるシルエットが細い坂道を登ってゆく。

 あれは風涙がまだ一度も足を向けたことのない道だった。ぷうんと鰹出汁かつおだしの匂いが流れてきたのはそのときだった。


 ――あっさりしていてコクがある。旨いラーメン屋は匂いで分かる。


 ゴマ油と香草と鶏ガラが濃厚に溶け込んだラーメンの匂いは、青年の登っていった坂の上から誘いかけるように漂ってきていた。


 ――さとちゃんのラーメン屋だ!


 風涙の探しものは、あっけなく見つかったかに思えた。

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