第41話 重なる影、重なるシルエット

 きっかけはいつも気づかない内にやってくるもので。

 出会いと別れは一瞬で訪れるもので。

 記憶は思い出せないと諦めた頃に蘇る。




 花が咲いた。

 濃紺の空が彩られ、ほんのりと火薬の香りがする。

 空っぽになった心のなかに、優しさと焦りと寂しさが淡い色の火の粉と一緒に降り積もっていた。ゆっくり。ゆっくりと。

 ――もうすぐ夏祭りが終わる。




 空を埋め尽くすように白銀の花火が数十発も打ち上げられ、光り輝くカーテンに覆われる。

 一瞬の輝きは白銀から黄金色へ色を変え、そして闇に溶けた。甘く仄白い煙と静寂を残して。

 静かになってから数秒、空間が夏の暑さを取り戻し、氷のように固まって見上げていた体が溶けてくる。重ねていた手を離し、僕らはベンチを立たずに風に流れる煙を眺めていた。




 それから二人で坂を降りて、河川敷の花火会場へと向かう。虫の声に紛れて会場のアナウンスが木々の間をゆっくりと歩く僕らに届く。


『――さん、いつも一緒に居てくれてありがとう。――好きだから、ずっと隣に居てほしい。――、結婚してください』


 とぎれとぎれで聞こえる言葉は、どうやらプロポーズのようで、結婚してくださいという言葉の後に大きな歓声が湧き上がる。


「花火大会でプロポーズって凄いわね。サプライズかしら」

「サプライズだろうな。あんな大勢の前で言うのは恥ずかしいっていうか、怖いっていうか。なんだろう、この感じ」

「私はこの人が好きです、って周りに宣言しているみたいな?」

「それかも。みんなに言えないわ、本人にすらなかなか言えないし。朱音はあんな風なの憧れたりするの?」

「私は別にないかな。好きな人に好きって言って貰えるだけで嬉しいと思うし、周りに言わなくても相手が私のこと好きだって分かれば、それで十分」


 弱々しく灯る街灯の光が、朱音の影を薄く浮かび上がらせる。月明かりにも照らされれば消えてしまいそうな黒。

 その隣に並ぶのはもっと存在感が希薄な黒い染みだった。アスファルトの上でスポットライトを浴びた二人は、時折、腕が触れては離れ、肩がぶつかって一つに重なる。

 遠くでは屋台の列が作り出す赤い光が、淡く膜に覆われたように、ゆらゆらと揺れ動いていた。街灯に誘われる蝶のように、その赤を目指してどこまでも続きそうな坂道をゆっくりと下る。

 響く祭囃子。

 揺れる提灯。

 香ばしく漂う熱。

 飛び交う人声。

 いつしか僕らは、遠くに見えていた祭り会場に飲み込まれ始めていた。どちらともなく離れないように繋いだ手。

 人の流れから顔を背けるように、朱音が髪を撫でつけて呟いた。


「好きな人には幸せになって欲しいわ。告白なんかされなくてもいいから」


 甘い綿菓子の香りが充満する河川敷。手を繋ぐ僕らの向かいから、小さな男の子がヨーヨーを持ちながら僕と朱音の間を目指して走ってきた。

 慌てて腕を上げる。

 その瞬間も手は離すことなく繋いだまま。

 アーチ状になった腕の下を通る男の子。待てー、その後を追うようにもう一人、 戦隊ヒーローの赤いお面を被った子が声を上げて走り抜けた。

 可愛いわね、くすくすと笑う朱音。


「懐かしいな」

「紫苑もあんな感じで遊んでたの?」

「子どもの頃ね。戦隊ヒーローが好きで、よく遊んでたな」

「ふふ、あまりイメージ出来ないわね」


 最近夢で思い出した幼稚園頃の記憶が蘇る。ヒーローの真似をして、初対面の女の子へ声をかけた日のこと。

 どうして思い出したんだというほどの恥ずかしい記憶。

 あぁ、早く忘れたい。


「子供の頃だからね。憧れてたんだよ、正義の味方に。みんなを幸せにできるヒーローに」

「なるほど、そういうことね」

「なんだよ」

「いいえ、何でもないわ。でも、案外誰かのヒーローになれてるかもよ」

「だと良いな」


 漂っていた綿菓子の甘い香りは消えて、水の香りと芝生のほんのりと酸っぱい香りが辺りを包み込んでいた。

 はやく、一ノ瀬たちと合流しないと。

 見回しても二人の姿は、人混みに紛れ見つからなかった。




 次は今回の花火大会のラストです――、アナウンスが花火の再開を知らせている。

 ラストは夜空を彩る十分間のショー。最後の花火に祈ると願いが叶うという言い伝えが――、響くアナウンスを聞き、そんな言い伝えがあるのと聞いてくる朱音に、首を傾げつつ空に掲げられたスピーカーを眺める。

 ……そんな話があったかな、記憶にないけど。

 何を願おうかと話ながら、一ノ瀬たちを探して最初に花火を見た場所へと向かうと、寄り添うように並ぶ二人の姿が視界に入る。

 声をかけようと向かう途中、甲高い音とともに最後の花火が夜空に打ち上げられた。突然始まったラスト十分。

 周囲の視線が一点に注がれる。

 すうっと柳のように長い尾を引いた青い光が降り注ぐ。


「動けなくなっちゃったね」

「仕方ないか。まぁ、あの二人の様子を見るとこのままでも良いかって」

「そうね、美菜も一ノ瀬君の肩に頭をのせてるし、あんなに距離が近いと……無理ね。あの空気感は、さすがに声かけられないわよ」


 困ったように笑い、書きかけのメッセージを取り消す朱音。花火を見上げるカップルに混ざって、二人のシルエットが古いフィルム映画のように、一コマずつ現れては消える。

 花火が開くたびに二人の距離が変わる。

 近付いていた二人が離れ、次の瞬間には、向き合う二人の横顔がくっきりと照らされた。

 赤く照らされるシルエット。

 そして。

 二つのシルエットが一つに重なった。

 連理の枝のように離れることは無かった。


「え、ねぇ、あれ。ねぇ、紫苑」

「ちょっと、落ち着け」

「無理、落ち着くなんて無理よ」


 正直なところ僕自身も焦っていてたが、隣で慌てる朱音を見ると驚くほどに落ち着くことが出来た。

 寧ろ、普段見られない朱音の慌てぶりに驚いたくらいだ。でも、その気持ちも分かるな。驚かないほうが無理だろ。

 二人からは目を逸らす。


「いつからだったのかな、私たち邪魔じゃなかったかな」

「たぶん今日だと思うよ。一ノ瀬が、今日何かを頑張るって言ってたから」

「そっか。良かった、安心したわ。それにしても、あの二人、ようやくって感じよね」

「うん、安心したし、こっちも嬉しくなるな」

「そうね。美菜も一ノ瀬くんもこれから幸せになって欲しいわ。……私みたいに後悔しないで」


 心配ないよと言い、僕は手に力を入れる。

 朱音が何かを言ったが、花火の音で声が届かない。もっと近づいたら聞こえたのかな。

 もっと近づいたら……。




  スターマインが空を彩る。夜の黒を無くすように、空一面が白く輝く。

 そういえば、願いが叶うんだっけ。


「朱音はなにか願うの?」

「そうね……あなたが初恋の相手と再会できることかしら。紫苑はなに願うの?」

「もっと自分のことを願えば良いのに……。僕は、朱音が幸せになれるようにかな」

「紫苑だって、自分のこと願いなよ」


 願いが叶えば良いなと思うが、最後に叶えるのは自分自身だろうなって客観的で冷めた自分がいる。

 それでも。

 それでも今だけは祈って良いだろう。

 絶え間なく響く破裂音。

 ついに空から闇が消えた。

 音が消える。その静寂に線を引くように、ゆらゆらと笛の音が昇っていき、水色の花火が開いた。

 今日一番大きな花火。

 最後を彩る透明感のあふれる水色の花火。

 それは願いを叶える奇跡の色だった。

 奇跡の色は――。




 夏の始まりと終わりを告げるように、空を埋めた花火はしゅわしゅわと炭酸のような音を立てて、闇に溶けて消えた。

 

「終わっちゃったわね」

「うん、あっという間だった。来年もさ、こうやって一緒に来れたら良いな」

「そうね。来年はもっと――」

「もっと?」

「何でもないわ」


 口許を僅かに歪ませた朱音が、僕の手を引いて歩き出す。一ノ瀬君たちのところへ行きましょう、と振り向く。

 赤く照らされた浴衣に落ちる柔らかな影を、冷たい夏風が揺らした。風に乗った夏の香りが、短かった祭りの終わりを知らせていた。

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