第31話 夢・ゆめ

 夢を見た。遠い遠い昔の記憶。

 幼稚園に通っていた頃か、それよりも前か。

 いつの間にか他の記憶の底へと埋もれていた記憶から、すぅっと伸びた紐を辿るように、夢として引き上げられた。

 第三者視点から見る自分の姿は、どこか他人事のように見える。

 それはまだ僕が正義のヒーローに憧れて、皆を守るとか世界を救うとか、そういう類の夢を見て、そんな未来を信じていた頃。僕は母親に手を引かれ、とある家族に合っていた。顔には靄がかかり、はっきりとは見えないが、両親と手を繋いでいる同い年くらいの女の子を見て、歪みのない幸せな家族というものを理解したのは覚えている。

 母親が僕の背中を押し一歩前に出る。僕と目が合うと、その子は父親の脚を抱えるようにしがみついた。

 その反応に人見知りな僕は少し傷つきつつ、朝のテレビで見たヒーローのように勇気を出して、脚の後ろに隠れる女の子に話しかけたのだった。


「こんにちは。俺は、しおん。......えっと、こんにちは」

「こん......にちは」


 ぎこちない会話が最初だったのを思い出した。

 僕がまだ、俺と言っていたのが懐かしい。自分のことを『俺』という方が格好良いと思って、背伸びをするように使っていたっけ。

 この日から何回かこの子と会うようになり、少しずつ仲良くなったようだ。


「いつか俺は、世界の平和を守るんだ。ヒーローみたいに、皆が幸せになれる世界を作るんだ」

「あたしのことも守ってくれるの?」

「もちろん、ヒーローは皆のピンチに駆けつけるんだ。だから守ってあげる!」

「約束だよ」


 手と手を目の前に出し、小指を立てた小さな約束を交わした。


「でも、あたしには守ってくれるお父さんがいるから、これからもピンチにはならないかもね」

「お父さん好きなんだね」

「うん、大好き」


 その言葉が切っ掛けとなり、夢は霞の向こうへ消えていく。代わりに浮かび上がったのは、幼稚園でヒーローごっこをする記憶。みんながヒーローで、誰も悪役がいないヒーローごっこは、誰かの正義と誰かの正義がぶつかりあっていた。もちろん僕もヒーローで、世界の平和のために、他の正義を倒すことに必死だったように見える。

 その後には、入学式で先生の話を聞いている記憶。黒板には、『入学おめでとうございます』の文字が、赤や緑、黄色のチョークで描かれている。慣れない小学校の木のテーブルと、木の椅子の座り心地に緊張している顔が面白い。

 それからも、運動会や遠足、休み時間のサッカーやドッジボールなどの記憶を思い出しては、消える。これは夢だという、心地の悪い感覚を残しながら。

 記憶から伸びた紐は、辿ろうとしても途中の結び目で引っかかり、解こうとしている間に指の隙間から滑り落ちていく。

 滑り落ちては次の記憶が現れる。

 気付いたら僕は水の中で、誰かの手を握っていた。その場がどこなのかを把握するのに、少しの間が空いた。俯瞰で見渡し納得する、ここは僕が通っていたスイミングスクールだ。プールの中、曇りガラスの壁からは黄色い夕日だけが届き、青と黄色の波が揺れる。

 手を握っていた相手を僕は知っている。知っているけれど思い出せない相手。二ヶ月に一、二回のペースでしか会わなかったはずなのに、いつしか練習後の休み時間、一緒に泳いでは遊ぶようになっていた女の子。彼女の笑顔が好きだった。

 そういえばある日、彼女が落ち込んだ様子だったのを思い出す。きっと夢の中も、その日のことを映しているはずだ。


「どうしたの」


 僕は彼女の両手を握って話掛ける。握った手が少し震えていた。


「寂しくて、辛くて、どうしたら良いのか分からないの」

「そっか。大丈夫、目が赤いよ。無理して来なくても......」

「プールの中なら、どれだけ泣いても誰にも気付かれないからね」

「僕は気付いたよ」

「キミは別に良いの」

「分かったよ。でも、そんなに泣いて大丈夫なの?」

「大丈夫。泣きたいときは思いっきり泣いて良いんだよ。そうすれば、いつかは笑えるようになるから。そのときは幸せになれるの。それが明日なのか、何年後なのか、何十年後なのかは分からないけれどね」

「それまで泣き続けるの?」

「ううん。いつか、泣くのもやめると思う」


 それだと、幸せになるのを諦めることと一緒だろう。

 幸せになれないなんて、そんなの寂しいとあの日の僕は思っていた。

 ――善人ぶるなよ。俺は誰も幸せにできないだ。

 朱音を傷つけたときにも、聞こえていたっけ。ヒーローの夢を諦めた子供の僕が閉じ込めていた思い。

 想い、祈り、願い。

 そうか心の奥では、まだヒーローに憧れていたのか。


「泣けなくなるほど思い詰める前に、僕を頼ってよ。僕は痛みを感じることは出来ないけど、受け止めることくらいなら出来るからさ」

「ありがと。今度会えたときは、頼らせて」

「来週くらいか?」

「分からない、今日でここ辞めちゃうから。今日でお別れなの」

「そんな......突然過ぎない? もう会えないの?」

「うん、もう会えないかもしれない。......でも、もし、いつかどこかで会えたら私を見つけてくれる?」

「必ず見つけ出して、僕から声をかけるよ。何年先でも。そうしたら必ず笑顔にさせるから、キミを幸せにさせるから」


 それから僕らは無言で手を握り続けていた。一言も言わず、休み時間が終わるまでずっと。

 彼女と手を離すと、プールの底へと体が沈み、また夢が反転する。

 スイミングスクールの屋上の扉を開ける瞬間へと、時間が飛んだ。

 扉の向こうには、視界いっぱいに広がる夕焼けと一人の女の子。それはさっきまで、プールで泣いていたあの子だ。プール上がりの少し湿って艶のある長い髪が、ゆっくりと風に揺れる。扉を閉める錆びついた音に彼女が振り向いた。

 逆光の中、柔らかな西日に照らされた彼女の横顔が見えて......夢が消えた。

 

「篠崎くんの家で?」


 聞き慣れた声の方へ顔を向けると、朱音が座っていた。向かいには一ノ瀬と一條が座り、それぞれお弁当を広げている。昼休みのようだ、しかもつい最近の記憶。教室の隅には作りかけの模擬店の看板が立てかけられており、色味のない教室に色がついていく。


「だめか? 誰かの家で勉強会するなら篠崎んちが、良い気がするんだけど」

「一ノ瀬は知ってるんだっけ。うちの場所」

「知らない、けどここの近くだろ?」

「まあな。そうだな......お前の家はだめなのかよ」

「いまは駄目かな。いや、良いんだけど。......やっぱり、まだ駄目だわ」

「はいはい、分かったよ。五十嵐も一條も良いか?」

「私は別に」

「良いよ、楽しみだな」

「じゃあ、集合場所は後で連絡する。一ノ瀬と一條は一緒に来るだろ?」

「そうしようか。ありがとう」


 一ノ瀬が笑う。

 なんて言うことの無い、ありふれたいつもの昼休みの光景だ。揺れるカーテンも、黒板に消されないまま残った数式も、購買で買ったコロッケパンを食べる誰かの姿も、机の上の教科書も、全てがいつも通り。

 一條が笑顔になり、その様子を朱音が楽しそうに眺めている。そして、その隣で僕も笑っていた。今までで一番幸せそうな夢。誰もが笑っている光景は、子供の頃の僕が抱いていた理想に近かった。

 教室が光りに包まれ、白く塗り潰されていく。白く、真っ白く、純白に。

 最後には、白さに耐えられなくなった夢はひび割れ、音を立てて割れる。硝子のように輝き、破片は吸い込まれた。音がなる。頭の奥に響くような音が――。




 平日にしかならないはずの目覚ましが、騒々しく騒ぎ立て朝を知らせる。土曜日だと言うのに、ゆっくりとした朝を迎えられなかった僕は、布団に潜り音から逃げて思い出した。勉強会って今日だっけ。

 這い出るように布団から出た僕は、芋虫よりも遅いスピードで目覚ましを止め、転がるようにベットから落ちた。


「いっ――」


 落下の衝撃で目が覚めた。

 あぁ、頭痛い。何か夢を見ていたような気がするけど、何だっけな。夢は思い出そうとする度、蒸発するアルコールのように、すうっと頭から消えていく。

 夢を思い出すのは諦めて、少し遅い朝食を食べてから出かける準備をしていると、インターホンが鳴る。インターホンに呼ばれるように扉を開けると、見慣れた顔が現れた。


「おはよう。眠そうね」

「ああ、おはよう。今起きたから」

「本当、休みになると駄目ね。また起こしてあげようか?」

「遠慮しておく」

「はいはい。そういえば今日は、桜さんはいるの」

「母さんなら、出掛けてる」

「そうなの。挨拶したかったんだけどな」


 一言二言言葉を交わし、朱音と一緒に待ち合わせ場所へ出かける。

 朱音たちと放課後に初めて遊びに出掛けた日以来、久しぶりのカナリアだ。扉を開けると、カフェと言うより喫茶店と言ったほうが似合う店内には、コーヒーを飲む常連客が疎らに座っているだけの空間が広がる。壁にかけられた鮮やかな鳥が映る小さな写真に対して、カナリアではなく閑古鳥を連想しながら、窓際の四人席へと歩く。

 マスターに注文をして、朱音と席に座り一ノ瀬たちを待つことにした。コーヒーを飲み一息つくと、心地よいアコースティックギターとサックスの音色が流れる店内に眠気を誘われる。


「まだ眠いの?」

「お店の音楽とソファの感じが」

「そうね。これでテストが無ければ幸せな時間なのに」


 欠伸を噛み殺し、カウンター脇に立てかけられた雑誌の表紙を眺める。装飾された恋や愛、浮気や横領の文字が楽しそうに自己主張していた。自分の関係ないところで世界は動いているんだなって、地球は廻っているんだなって感じる。

 正直、地球が廻っている以外はどうでもいい。そうやって、眠い頭でコペルニクスに思いを馳せていると、朱音にも眠気が伝染ったようで口に手を当て欠伸をしていた。


「ねえ。紫苑は、恋と愛の違いってなんだと思う?」

「魚と人」

「その鯉でも、私のIでも無いから」

「あの雑誌の表紙ね」

「そう。恋とか愛とか、他人が決めるには曖昧すぎると思うのよ」

「そうだな、たぶん.基準が自分か相手かじゃないのか。恋は自分のために、愛は相手のために、みたいな。人肌恋しいっていうのは、結局は自分が寂しいから言うんだと思うし、家族愛みたいなのは自分よりも相手を優先するって気がする。だから恋はエゴで、愛は――アルトになるのかな」

「自分か相手か、ね。例えば、貴方のためなら命を捨てても良いとか、命にかえてもキミを守る、みたいなセリフは愛ってこと?」

「ううん、微妙。このセリフって、残された方の気持ちを考えてない気がするんだよ。なんていうかさ、これを言うシーンの相手は友達とか恋人とか家族が多いだろ? 自分の命を投げ捨てるくらいなら、大切な人を守って自分が生きられる道を探せよって。残された方は助かるかもしれないけど、喪失感とか罪悪感なんかの傷や枷は残るだろ。そんなものを負わせるのが愛とは思えないんだよ。自分も大切に思われてるっていう自覚を持てって話だな」

「それなら、僕がキミを幸せにするっていうのは、恋? 愛?」

「......知らない。言った人がどう思ってるいるかだろ」


 先月、そんなことを言っていたな。雨の中で朱音と向き合った記憶が甦った。

 理由は単純だった。赤くなった目元を見たら、何となく朱音に言わないといけない気がしたから。ただそれだけ。でも、もしかしたら――、


「もしかしたら、恋と愛のどっちもかもな」

「......そう。そうだと良いわね」


 微笑むような表情を浮かべた朱音が紅茶に口をつけるのを見て、ぬるくなったコーヒーを飲む。飲み慣れたはずのコーヒーが、心なしかいつもより苦く感じた。

 店内に流れていた音楽が途切れたタイミングで、お店の扉が音を立てて開く。カランコロンと寂しく鳴るベルも、カナリアというより閑古鳥を連想させていた。


「おはよ、お二人さん。デートですか?」

「よう、元気か。遅れて悪いな」


 一ノ瀬たちの声で、僕らの席が少しだけ明るい雰囲気を醸し出し始める。


「おはよう。デートじゃないのは分かってるでしょ」

「眠い以外は元気だな」


 いつもどおりの適当な挨拶を交わし、二人が紅茶を飲み終わるまで気が抜けた様な緩い時間を過ごした後、喫茶店を出る。強くなり始めた日差しを恨めしそうに見上げながら、途中のスーパーで飲み物やアイスを買い家へと向かう。いつもの公園の前を四人で歩いて、マンションのエントランスへと入るのは新鮮で、少し緊張した。




 三人をリビングへ案内し、買ったばかりの飲み物やアイスを仕舞う。

 

「良いなこの部屋、落ち着く。おお、キッチンからリビングが見渡せる。ここで料理しながら、喋ったりとかするんだな、これが家庭的っていうやつか」

「取り敢えず座れよ、今日は勉強会だろ。一條も何か言ってくれ」

「残念だけどね、こうなった圭は放置するのが一番なんだ」


 そうなのか、まだ続けて一ノ瀬が楽しそうな声を上げているが気にしないでおこう。


「篠崎君、私も手伝うわ。飲み物用意しようか?」

「それじゃあ、お願い。僕は紅茶が良いな」

「いつもの?」

「いつもの」

「美菜と一ノ瀬君は何か飲む? お茶と紅茶とコーヒーと、さっき買ったジュースがあるわ」

「私はオレンジジュース」

「俺はコーヒーをお願いしても良いか?」

「分かったわ」


 三人分の要望を聞いた朱音が棚からカップやグラスを4つと、紅茶とコーヒーとヤカンを取り出しているのを眺めていた。一ノ瀬たちは、テーブルの上でノートを広げている。


「なあ、五十嵐。グラスとか、お湯沸かすならヤカンはそこの棚に入っているからな」

「え......そ、そうね。ありがとう」


 朱音から氷が入ったグラスを受け取り、並々注いだオレンジジュースを一條の待つテーブルへ運ぶ。中身が溢れだすペンケースやノート、教科書が並べられた隣に、濡れないようにそっとグラスを置く。


「ありがと。なにか手伝うことある」

「特に無いかな、とりあえず座っていてよ。そうだ、一ノ瀬の面倒を見といて」

「了解です。それなら得意だから任せて」

「俺は子供じゃないぞ」


 子供じゃないと言い続ける一ノ瀬は放っておき、キッチンへ戻りお湯を沸かしている朱音の隣に並ぶ。ヤカンから吹き出し始める蒸気が、柔らかく膨れ上がる。


「何飲む?」

「私も紅茶にしようかしら。これにお願い」


 朱音が差し出したマグカップを受け取る。

 最近は家に来ると必ず使っている朱音専用のマグカップに、先日、朱音が持ち込んでいたティーバッグを入れると、微かにレモンの香りが漂い始めた。

 何も考えずに蒸気越しの揺れるリビングを眺める。


「なあ篠崎、トイレ借りても良い?」

「良いよ」

「一ノ瀬くん、その廊下出て左ね」

「こっちか、ありがとう」


 一ノ瀬が部屋を出ると、リビングで寛ぐ一條が不思議そうな顔をして、こちらを見ていた。何がそんなに不思議なのか。ゆっくりと首を傾げた姿は、そのまま顔の向きが九十度に傾きそうになっていた。


「朱音ちゃんも初めてだよね」

「何の話よ」

「紫苑くんの家に来るの」

「どうしたの、突然」

「部屋の場所とか良くわかってそうだし、キッチンにも慣れてるなって」

「......私の家とレイアウトが似てたからよ。それに篠崎君にも聞いてたし」


 一條はよく見ているなと思いつつ、マグカップにお湯を注いでいく。ふわりと紅茶とコーヒーの香りが広がった。


「ほら、とりあえずテスト勉強な」


 マグカップをテーブルへと運び、自分のノートを広げる。隣では朱音がノートを広げ、テスト箇所を確認し始めた。その様子を、一條が楽しそうに写真を撮っている。勉強をしないで大丈夫なのかよ。


「ねえ、私ね。さっきのキッチンの様子を見てたけどさ、二人とも息ぴったりだよね。結婚でもしてるの。夫婦なの。指輪とかしちゃってるの?」

「それはない」


 僕と朱音の声が被る。

 それと同時に廊下への扉が開き、一ノ瀬が帰ってきた。


「そろそろ勉強か。篠崎、国語教えてくれ。俺は数学を教える。分からないところがあったら言ってくれ」

「数学は助かるな」


 話を反らしつつ、僅かながらの勉強用の気合を入れるために、キッチンに置いたままのお菓子を一ノ瀬に持ってきてもらう。その間に、一條が顔を近付けて小さく片目を瞑った。


「結婚式は呼んでね」

「だから違う」


 再び、朱音と声が重なった。

 目の前には一條の笑顔、僕と朱音の手元にはお揃いで色違いのマグカップ。この中途半端な関係が、いつかバレる日が来るのか。忘れている夢の内容を、いつか思い出す日が来るのか。緊張と不安と期待が入り混じって、砂糖とミルクが混ざったコーヒーのように曖昧な色になる。

 もしかしたら恋とか愛とか曖昧なものは、コーヒーに砂糖を混ぜるかミルクを混ぜるか、それとも全部を混ぜるかくらいの些細なことなのかもしれない。


「とりあえず、一ノ瀬、早く数学を教えてくれ」


 三角形を円にする方法とか、ベクトルの向かう先を見通す方法とか。

 幸せになる方程式とか。

 あとは、二人の距離の測り方とか。

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