第13話 僕らの息が止まる距離

 ピピ、ピピという目覚ましの音が響き、夢の世界から引きずりだされる。

 五十嵐親子との食事から一夜明け、世間は土曜日。普段なら休日は目覚ましをかけずに、昼過ぎまでダラダラと布団の中で生活しているのだが、今日は別だ。

 未だに鳴り続ける電子音を止め、仰向けのまま背を伸ばす。パキッという乾いた音が、硬くなった身体から聞こえた。運動不足だろうか、偶には身体を動かさないといけないなと思いつつ、起き上がる。

 時刻は午前十時。スマホを見ると、五十嵐から昨日の写真が送られていた。

 届いた時間は二時間前。休日なのに朝早くから活動しているその姿に敬意を表しつつ、文章を入力する。

 『おはよう。写真ありがとう』と、短めのメッセージを送り、日光を遮る黒いカーテンを開ける。暗い部屋を引き裂くように差し込む光の眩しさに、目を細めながら空を見た。

 雲一つない晴天。

 汚れない青空。

 普段は綺麗なものの象徴である白が雲となり空に浮かぶだけで、まるで汚れのようになってしまうのは何だか不思議だし、寂しくもある。僕としては、真っ青な空よりも少し雲がある方が好きだ、もしかしたら完璧すぎない方が好感が持てるのかもしれない。

 そんな事をぼんやり考えながら、改めて昨日の写真に目をやる。そこに写る四人。結衣さんと母さん、そして五十嵐と自分。

 どこか家族写真のようなこの一枚が映るスマホの画面を消せずに、開けたカーテンの前で僕は立ち尽くしていた。




 時間にすると、一分くらい経ったのだろうか。

 手の中で小さく震える感覚に意識が戻される。五十嵐からメッセージだ。

 『おはよう。やっぱり休みの日は遅いのね』

 この『やっぱり』という部分が気になるが今は置いておき、返信をどうしようか考える。しかし、良い文章が思い浮かばない。そういえば五十嵐と連絡を取り合うのは、二週間前に連絡先を交換して以来だ。

 ひとまず後回しにして朝食にしよう。

 朝食をとるためスマホの画面を見つめながら、リビングへと向かう。

 リビングの扉に手をかけたとき、もう一度スマホが震える。

 『今から少し時間ある?』もう一通連絡が来た。

 『昼前までなら。どうかした?』何があったのか疑問に思い、反射的にメッセージを返す。

 突然時間があるかを聞かれると、ドキッとする。何か良くないことが起こりそうな感覚。例えるなら校内放送で前触れもなく、職員室に呼び出されるのに似ているのかもしれない。

 心臓に悪い。

 『よかった。悪いんだけど、家まで来てもらっても良い?』

 余計に不安な気持ちにさせる文面だ。虫退治とかじゃなければ良いが。

 『今行く』と送り、着替えて隣の部屋へ向かう。インターホンを鳴らし、五十嵐が出てくるのを待つ。玄関の向こうから声が聞こえ、ゆっくりと扉が開く。

 開いた扉の奥から柔らかな花の香と、五十嵐の声が届いた。


「来てくれてありがとう」

「隣だし別に良いけど、どうしたんだ。何かあった?」

「ごめんなさい、なんか心配させちゃったみたいで。大したことじゃないのよ。とりあえずあがって」

「そっか、うん、安心した。それじゃあ、お邪魔します」


 後に続いて玄関へと入る。家の中に漂う花の香と、前を歩く五十嵐の後ろ姿に無意識に緊張している自分が嫌になった。小さく溜息をつきながら、廊下を奥へ進む。

 間取りは、家とは真逆のようで、いつも見ているはずの部屋やキッチンの配置が左右異なり、不思議な感覚に陥る。

 リビングへと案内され椅子に座り向かい合うと、僕を呼び出した理由を説明してくれた。


「改めて、突然来てもらってごめんなさい。その、理由なのだけど。蛍光灯を交換をお願いできないかなって」

「えっ、蛍光灯」

 

 想像もしていなかった内容に、気の抜けた声が出る。自分の肩の力が抜けたせいか、安心したせいか、蛍光灯を交換して欲しいという話を、深刻そうな顔で言う五十嵐に思わず笑ってしまう。


「えっと、なにか可笑しいかしら」

「ごめんごめん、虫退治とかじゃなくて良かったなって安心しただけ。それぐらいのことなら、やるよ。それでどこのを交換すれば良いんだ」

「ありがとう。場所はあそこ」


 五十嵐が指をさしたのは、リビングの奥。

 この部屋、というよりも、このマンションはリビングの天井が一段高くなっている。普段気にしてはいなかったが、設計的にはあそこからリビングなのだろう。そうするとここはダイニングになるのか。


「始めるか。五十嵐、この椅子借りても良いか」

「ええ、使って。私、替えの蛍光灯とタオルを持ってくるから待ってて」


 トタトタと足音を立てながら、洗面所の方へ歩いていく五十嵐。

 家での様子は、学校で会うときと雰囲気が違うなと思いつつ、電灯の下へ運んだ椅子に腰を掛ける。

 そういえばこの電灯ってなんて言うんだっけ。


「シーリングライトじゃないかしら」

「それだ、そのまんまの名前だよな。って、もしかして今の口に出てた?」

「喋ってたよ。……何かあれね、今日の篠崎君、いつもと違って気を抜いてる感じが凄いわ」


 五十嵐が戻って来たので、椅子の上に立ち上がり作業に取り掛かった。

 気を抜いてるのはお互い一緒だろう。


「この部屋が自分の家に似すぎてるせいだな、気が抜ける。はい、電気のカバーが外れたよ」


 上を向きながら会話と作業をするせいで首が痛い。五十嵐にカバーを渡し、丸い形をした電灯を外そうと手を伸ばす。


「それにしても、引っ越して来たばっかなのに、蛍光灯が切れるってツイてないな」

「さすがにびっくりしたわよ。昨日あの後、帰ってたら突然チカチカしだしてね……。お母さんが桜さんに電話して、蛍光灯の種類とか聞いて今朝買ってきたのは良いんだけど、私たちではそこに届かないのよ」

「なるほどな、それで手が届きそうな僕が呼ばれたわけか」

「私より身長が高くて、すぐに頼めそうな人を思い浮かべたら篠崎君しかいなかったのよ」

「どうせ休みの日は暇だし、家も隣だしさ。いつでも頼ってよ」

「ええ、ありがとう。私の方も頼ってくれていいからね。それにしても篠崎君の背が高くて助かったわ。170くらいだっけ」

「うん、171くらい。五十嵐はどれくらいなんだ? ……よし、取れた」


 外したものを渡し、新しい蛍光灯を受け取る。ずっと上を向いているせいか、頭がぼうっと熱くなる。


「私は162よ」

「結構背が高いよな」

「もう少し低い方が良かったのだけれどね。美菜の身長が羨ましいわ」

「そんなに気にすることないだろ。二人とも雰囲気に合ってる気がするし」

「雰囲気ってなによ」

「可愛い系と綺麗系、みたいな。はい、これで交換終わり」


 カバーを付けて交換を終える。

 「もう他にはないよな」と聞きつつ、踏み台代わりにしていた椅子から降りようと右足を出す。その足が床に触れる瞬間、ふらっと眩暈のような感覚に陥り態勢を崩す。水中に居るかのような浮遊感に包まれ、見ているもの全てがゆっくりに感じた。

 揺れる視界の中で聞こえる「大丈夫!?」という声と、こちらに差し伸ばされる細い腕。

 バランスが崩れた身体を支えようと、反射的に五十嵐の腕へと手を伸ばし掴んだ。

 五十嵐のおかげで何とか倒れることは免れたが、今度は柔らかい感覚に包まれる。耳元で「大丈夫」と囁かれる声。背中に回された左腕。


「悪い、助かった。いま離れるから」

「わたしは大丈夫だけど」


 身体を起こそうと、五十嵐の右肩に乗せるようにしていた顔を引き、少し身体を離すと、五十嵐の顔が目の前に見えた。前のめりになっているせいで、10センチ近くあった身長差が無くなっていた。

 鼻の頭がぶつかりそうな距離。いまなら睫毛の本数すら数えられそうで、呼吸が出来なくなる。こんなに睫毛が長かったんだなと思わず見惚れてしまう近さ、普段では近づくことの無いこの距離で見る五十嵐の顔は、いつも以上に綺麗だった。

 朝の柔らかな光を反射する瞳に映る、反転した自分の姿が、五十嵐に惹き付けられていた意識を現実へと戻す。

 背中に回されたままの腕から伝わる体温を感じ、煩く響く僕の鼓動が、その腕を通して伝わってしまうのではないかと心配だった。


「ごめん、抱きついたようになって」

「あ……うん。えっと、大丈夫?」

「ただの立ち眩みだから」

「そう、なら良かったわ」

「ありがとう」


 さっきまで合わせていた視線は、もう交わうことは無く、互いに右へ左へと顔を見ないように言葉を交わす。

 茶色のソファーにオレンジのクッション、棚に乗った暖色の丸い花瓶とその横には小さな写真立て。意識を逸らそうとしても、どうしても五十嵐の顔が頭から離れない。


「そろそろ帰るよ」

「そういえば篠崎君、この後予定があったのよね。今日はありがとう、感謝してるわ。お礼はまた今度、改めてするから」


 「お礼なんていいよ」と呟くように言いながら廊下に出る。

 最初に廊下を通ったときは緊張のせいで気付かなかったが、溢れる花のような匂いの奥に御香のような香りがしていた。嗅いだことあるようで懐かしい、どこか安らぐ匂い。

 次にここへ来ることはあるのだろうかと考えつつ、靴を履き、ドアを開ける。


「篠崎君!」


 決意を固めたような声。こんな風に五十嵐から呼ばれたことに驚きを感じつつ、その驚きを隠し振り向く。

 手を後ろで組みながら、俯いている五十嵐の姿。

 ゆっくりと僕は次の言葉を待つ。

 

「昨日のゴールデンウィークの話。やっぱりお世話になっても……泊めて貰ってもいいかしら」

「いいよ。好きな時に来て良いから」


 顔を上げた五十嵐と目が合うが、視線を逸らしてしまう。再びしっかりと顔を見られるようになるまでには、少し時間がかかりそうだ。

 僕らは、ぎこちない言葉で別れを告げる。


 そうか、今年のゴールデンウィークは一人ではないのか。

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