第四章 松虫《まつむし》其ノ参


基房がそう己に言い聞かせたその時、院と女院の出御の声がかかった。

一同、奥の御簾へ向かって一斉にこうべを垂れる。

さやさやと衣擦れの音をさせてお二方がますのは、観月の宴とて、基房らが並ぶ広廂のすぐ内側。

それにしても高貴の御身があまりに端近はしぢかな…と、基房が内心眉をかすかに寄せていると、隣で同じく伏している兼実の秘やかな笑いの波動が伝わってきた。

無論口に出すことはないが、この聡すぎる弟の態度が、近頃では鼻について仕方がない。


幼い頃から兄の背を見て育ち、藤原本家の長子であることの重みを感じてきた基房は、思いがけぬ長兄の急逝で氏長者うじのちょうじゃとなったわけだが、それゆえにことさら「所詮次子の器」と侮られぬよう懸命に励んできた。

その彼からすれば、兼実の何事にも恬淡としたありさまは気随気儘に思えるのだが、それでいてこの弟が自分よりも遙かに切れる男であることも知っている。

その能力は藤原家のためにこそ使って欲しいと願いもし、また宗家の男子として当然とも思うが、果たして兼実自身はどう考えているのか、これまた読めぬ。


困ったものよと苦虫を噛みつぶしていると、当の兼実がこっそりと袖を引いてきた。

(兄君、そろそろ…)

院と女御が席に落ち着かれたのを見計らい、かすかに合図して寄越した弟に視線だけで頷き、裾を捌いて御座所へと向き直る。

たとえ意に染まぬ御方とはいえ、招かれた宴の始まりに院への挨拶を欠くことは、この場の最高位にある者としてできぬ、と生真面目に基房が口を開いたその時、突然院のほうからお声がかかった。


「おお、今宵の月は見事じゃのう。あの月に堅苦しい言葉など無用じゃ。のう、さよう思わぬか、女院」

「ほんに、あのようにくっきりと。嫦娥じょうがの住まうというも、まことのように思えまするな」


面目を潰された形となった基房の上を、お二方の和やかなお言葉が通り過ぎていく。

あまりのことに今度はくっきりと眉を顰めてしまったが、くだけた席での上つ方のご温情に異を唱えるわけにもいかず、心を落ち着かせてすっと顔を上げる。

その兄を器用に片眉を上げて横からそっと見やる兼実の視線に気づいてはいたが、知らぬ顔を決め込んだ。

このくらい、なにほどのこともない。座を乱すことを何より厭う基房は、そのまま院の無作法を受け入れることにした。

次に院がお言葉をお掛け遊ばしたのがよりにもよっての人物だったことは、その基房の忍耐を逆撫でするものではあったが。


「嫦娥ならばここにおるであろ。のう、権大納言ごんのだいなごん


…またしても平家、平家だ。古来の名門藤原氏をこれだけ控えさせておいて、なにゆえ平家なのか。

問われた重盛は軽く頭を下げ、同意を示した。


「まことに女院様は目映まばゆいばかりの天女にあらせられます」

「ほほ、そうであろ、そうであろ。じゃがこの天女、宴のただ中に舞い降りることは叶わぬでな、夜天に残してきた住処をせめて愛でようではないか」


その院のお言葉で宴の開始となり、酒や肴が供されて座は一気に和やかなものとなった。

さすがに女院が御簾よりお出ましになることはなかったが、院ご自身は気軽に貴族たちに混じって御酒を干され、楽しげに語らい、お得意の今様を朗々と披露される。

軽々しすぎる…と内心思ってはいても、もう基房がそれを顔に出すことはない。

ただ静かに杯を傾けていると、ご機嫌伺いの貴族たちが花にまとわりつく蝶のように入れ替わり立ち替わりやってきた。そうした者たちとやりとりするのも務めと割り切ってはいるが、先程の院のなさりようが腹に燻って消化しきれない自覚がある今は、少々鬱陶しい。

いつものように如才ない言葉を返すこともせず、適当に受け答えするに留めていたら、そのうちに潮が引くように一人減り二人減り、やがて身内の者しかいなくなった。


「摂政殿下の御気色みけしきことのほかかんばしからず」


含み笑うような声は無論弟のものだ。


「しかして院の御心まことに麗しくおわします。――本日は今様を謡われるお声も、いつにも増して張りがおあしゃりますな」

「…俗謡など、やんごとない御身分に相応ふさわしからず」


苦々しい呟きは弟にしか聞かせないほどのものだ。だが弟は衆目のある場所での苦言を咎めるように目で制して、さらに声を低めた。


「あれしきのことでお拗ね遊ばすな。院の兄君への意地悪は今に始まったことではありますまい」

「意地悪…おことはそう思うのか」

「そう、思うておきましゃれ。院のなさりようは子供が玩具に熱中するのと同じ。お気に入りの平家をお手元に置き、お苦手な兄君を煙たいと思うておられると」


そのような単純なものか。藤氏長者に対する侮りは藤氏全体を軽んじることだ。院はそのご意思を示されているのではないか。その疑いが先程から頭を離れない。

まさか、古来よりの臣たる藤原氏を全て敵にお回しになるお積もりであろうか。そのようなことをすれば、藤原北家出身の待賢門院をご生母とする院ご自身のお立場に関わる。

なんと言っても宮中に於いて最大派閥であり、末端まで合わせれば、藤氏の数は平家などとは比較にならぬのだから。

しかし疑念は基房の上を去らず、彼はいつまでも一人の思索に耽っていたのだった。



(続)



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