第三章・赤い異世界生活~ICHIJI‘S view①~

 ホンス爺さんの家からわき目もふらずに道を駆け下り、ようやくドナの街に辿り着いた時に俺がまず感じたのは。

 

 燃え盛る炎の熱さでもなければ、人間が焼け焦げた独特の匂いでもなく。

 感傷でも絶望でも怒りでも哀しみでもなく。

 

 ただただ、言い知れぬ虚無感だった。

 

 街のために何もできなかったという虚しさ?

 何もかもが手遅れだったという己の無力さ?

 

 ……いいや、違う。

 

 これは過去から這い出してきた記憶。

 ヒタヒタと不吉な足音を立てながら、ヌルヌルと背筋を這い回る。


 あの日、あの時、あの場所での記憶。

 

 俺のすべてが始まった蒸し暑い真夏の夜。

 俺のすべてが終わりを遂げた赤道直下の赤い夜。


 いつまでも、いつまでも。

 繰り返し、繰り返し。


 しつこく耳にこびりつく彼女の言葉と祭囃子。

 しつこくしつこく俺をとらえて離さない赤い赤い情景。


 すべて始まりと終わりで一繋ぎ。


 記憶が奔流する。

 過去と現在が複雑に交錯する。

 

 辺り一面を覆う様々な赤。

 倒壊した建物の、もはや瓦礫ですらなくなった石塊。

 

 どこからか聞こえる悲壮的な声。

 どこからも聞こえてくるような気がする悲痛な声。

 

 救いを求めて伸ばされて、結局、掴まれることのなかった手。

 救おうと思って伸ばしても、結局、何一つ掴みあげることのできなかった手。

 

 自分以外のすべてを救うために自らを犠牲にした者の美しい笑顔。

 自分だけが救われるために自らの大事な人に向けて拳銃の引き金を引いた者の醜い泣き顔。

 

 ああ……。

 ああ…………。

 ああああ…………。

 

 やめろ……。

 やめてくれ……。

 

 わかってる。

 もう、これ以上ないっていうくらいに、わかってるんだ。

 

 俺なんて生きる価値もない男だ。

 生きていていい人間なんかじゃないんだ。

 

 多くの命を奪ってきた。

 数多の命を踏みにじってきた。

 

 なんとも思わなかった。

 何も感じなかった。

 

 仕事だと、任務だと割り切ってのことじゃない。

 それしか出来なかっただとか、そうして生きるしかなかったとかいう言い訳だってできない。

 

 本当に、なんとも思わなかった。

 本当に、当たり前のことだったんだ。

 

 食べる、寝る、呼吸する。

 笑う、怒る、涙する。

 

 殴る、締める、斬る、撃つ。

 殺す、屠る、消去する……。

 

 すべては同列だった。

 すべては同じ日常の、同じ風景の中だった。

 

 携帯食を口に頬張りながら殴り飛ばした。

 仮眠中に襲われて反射的にナイフで切り裂いた。

 まったく呼吸を乱すことなく敵を殲滅するまで機械のように銃を撃ち続けた。

 

 ブースタードラッグの過剰摂取による多幸感で、笑いながら首の骨を折ったこともある。

 力量差に任せて一方的に切り刻んだことだってある。

 

 銃口を向けられれば相手が頬の赤い子供でも躊躇いなく殺した。

 敵勢力であれば泣いて命を乞う老人であっても容赦なく殺した。


 だから、今更、自分の行ってきた所業に許しを得ようとは思わない。

 

 他人の生や死はもちろん、自分の生や死に対してさえあれだけ執着していなかった俺が。

 

 どんな命をも軽んじてきた俺なんかが。


 そもそも誰に許してもらえると言うのだろう。


 その責め苦は余さず負おう。

 この命の尽きたその先で、永劫の罰を課せられたとしても甘んじてすべてを受けいれよう。

 

 ……だから……もう、やめてくれ。

 ……わかっているから……もう、許してくれ。


 ―― 大丈夫…… ――


 ……お願いだから……やめてくれ。

 もう、記憶の底から出てこないでくれ。


 ―― わたしが、守ってあげる ――


 何も思わず、何も感じないまま人を殺めたのは数多くあれども。

 泣きながら……嫌だ嫌だと言いながら……どうしてこんなことをと思いながら殺した経験は、ただの一度しかない。

 

 ―― ……ありがとう ――


 笑いながら……それでいいんだと言いながら……心からの感謝をされながら殺した経験も一度しかない。

 

 ―― ありがとうだよ、イっくん…… ――


 その一度づつの経験が。

 そのたった一人の死が。


 俺に何があっても生き抜くことを強要し、決して死ぬことを許してはくれない。


 これはあいつが……立神マリネが俺に託した命。

 これは誰のものでもなく、マリネの命。

 

 だから俺が勝手にどうこうしていいものじゃない。

 

 どれだけ持て余しても、どれだけ投げ捨ててしまいたくなっても。

 

 俺にはどうすることもできない。

 俺がどうにかしちゃいけない。

 

 いつか彼女からの許しを得られるその時まで。

 いつか彼女の元へと辿り着けるその日まで。

 

 いつか『死』がやってくるまで俺は死ねない。

 この赤い記憶とともに生き続けなくてはならない。

 

 あの赤い夜から……逃れることはできないんだ。

 

 ―― イっくん……大好きなんだよ ――


 まったく……。

 好きだっていう相手に、なんてものを背負わせてくれるんだよ……あのバカ姉……。

 

 

 「キュロロロロ……」

 

 「ぎゃぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 仄暗い意識の底から俺を引き上げた誰かの叫び声。

 それは、やはり過去に幾度となくこの耳で聞いてきた絶望一色にだけ染まった痛々しい声だ。

 

 「ち、ちかよるんじゃねぇ!!このバケモノ!!」

 

 それもまた何度となく耳にしたことのある言葉。

 

 何度も何度も。

 何度も何度も。

 

 追い詰めた相手のことごとくが判で押したかのように、その最期に俺へ向けて怯えながら必ず投げかけた言葉。


 ―― バケモノ ――


 「キュロロロロロ……」

 

 「ひぃ!!」

 

 あれは……トカゲ?でいいのか?

 

 全体的に赤黒い体表面。

 地面に這いつくばるようなずんぐりとした肢体。

 深く裂けた口からチロチロと出し入れされる細く、長い舌。

 

 昔、東南アジアでの仕事の際、野営キャンプをはったサバンナでこんなトカゲを見たことがある。

 動きは鈍重、しかしアゴや四肢の力はとてもとても強い。

 おまけに噛まれれば厄介な毒があるとかで、医療チームがワクチンを用意していたのを覚えている。

 

 「キュロロロロロ……」


 ……もちろん、ここまで大きくて凶悪そうではなかったけれど。

 

 「くるなくるなくるなぁぁぁ!!!」


 街の惨状とひどく怯えた声。

 さすがにそのトカゲと無邪気に戯れている真っ最中とは言えない。


 見覚えのある男が尻もちをついて後ずさりながら、両手に持った二本の剣を闇雲に振り回している。

 

 後ずさるのはいいのだけれど、その度に腰にもう二本差した剣の鞘が瓦礫や剥がれた石畳にひっかかり、思うように進めない。


 それが焦りと恐怖をより一層助長して、元から真っ青になっている顔色が、いよいよ蒼白になっていく。


 俺に殴られた腹の傷だって癒えていないだろうに。

 

 まさしく火事場のなんとやらだとは思うけれど、しばらく寝たきりになるぐらいのダメージを負いながらもそこまで動ける胆力には素直に感心する。

 

 ……だからといってこの事態を独力で打破できるのか言えばまた話は全然違ってくるわけだけれど。

 

 「グゥゥゥゥゥ……」

 

 「ひぃぃぃ!!!やめろやめろやめろぉぉぉ!!」

 

 トカゲが只でさえ低い位置にある体を更に沈みこませる。

 『溜め』の動作にも見える。

 

 跳躍する?

 いや、パッとみた感じ、あの筋肉の付き方では垂直方向に飛んだり跳ねたりは物理的に不可能。

 

 ならば水平方向に突進?

 いや、それにしては重心が前足に偏り過ぎている。

 

 それでは……なんのための溜めだ?

 

 「グゥゥゥゥゥ……」

 

 トカゲの喉元がジンワリと紅く明滅し始める。

 

 そう、それは『紅』。

 体表の色やチロチロと口の隙間からのぞく長い舌とはまた一線を画す、光沢のある紅色。

 

 たとえるならば、グツグツと湧きたつマグマのような色だ。

 

 ……ん?……マグマ?

 ……なるほど。

 ………

 ……

 …


 「……ヴアァァァ!!!」

 

 「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」


             ブヴァァァァァァァァァァ!!!


 灼熱の炎が男めがけて放たれる。

 

 その火力も効果範囲も相当なもの。


 昔、火炎放射器を持った敵にぐるりと囲まれたこともあったけれど、あの四方八方、複数人から浴びせられたものと同等くらいの熱量はあるだろうか。

 

 それを単体で大した予備動作もなく、何よりも生身の体から直接放つのだから、つくづく異世界の生物というものは俺の常識の上を超えていく。

 

 あの角の生えたライオン……アルルがホーンライガーと呼んでいたヤツも大概だったけれど、このトカゲもそういうものだと思って対処しなければならないようだ。

 

 「ぎゃぁぁぁぁ!!熱い!!焼ける!!!死ねるぅぅぅぅ!!!」

 

 「……まぁ、まともにくらえば確かに熱いし焼けるし、死ねるだろうね」

 

 「……へ?……」

 

 間一髪、男を炎の射線上から掴み上げることができた。

 

 俺の持つ常識ではなく、この≪幻世界とこよ≫における常識。

 魔物や魔獣といった存在。

 魔素や魔術という概念。

 その他、アルルによって仕込まれたこちらの世界の理の数々。

 

 体を動かすため以外の溜めの動作。

 マグマにも似た明滅。

 そして辺り一面、人も物も焼けただれているという実情。


 ……俺の導き出した答えから見た目も脅威度も寸分たがわず、トカゲが炎を吐き出した。

 

 そう、ここはマホウの世界。

 

 指先から閃光を夜空へ打ち出す少女もいれば、火を吹くトカゲだってここにはいるのだ。

 

 ここに連れてこられたばかりの頃ならいざ知らず、そんな風にある程度この異世界に順応していたおかげで素直に体が動き、炎が直撃する前にどうにか男を救うことができたわけだ。


 「あれ?」


 俺に上着の襟ぐりを掴まれながら、男は呆けた声を出す。

 つぶらな瞳を目一杯に見開き、パチパチと何度か大きな瞬きをする。


 それから自分の体がどこも焼け落ちていないこと、そしてまだ命があることを確認するみたいに体のあちこちを触り、再び気の抜けた声をだす。

 

 「……焼けてない?……生きてる?……助かっ……た?……」

 

 「生きてるしとりあえず助かったとは思うけれど、燃えてることは燃えてるよ」

 

 「ほへ?」


 チリチリチリ……ボアァァ!!

 

 「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!あっちぃぃぃぃ!!!」

 

 「あ、いや、そっちは……」

 

 ケバケバしくて趣味の悪い、男のロングコートの裾。

 俺が助けた時にその丈の長さが災いしてトカゲの炎がかすめ、そこから見事に着火した。


 よほど可燃性の強い素材で織られているのか、瞬く間に火の手は拡がり、男の全身を包み込む。


 パニックになった男は両手に握ったままの剣を放り投げ、あろうことか、せっかく距離をとったトカゲの方へと燃え盛りながら走っていき、トカゲはトカゲでまたしても炎を吐き出す予備動作に入っている。


 「焼けるぅぅぅ!!!死ねるぅぅぅぅ!!!」


 「……はぁ……世話は確かに焼ける……」

 

 俺は捨てられた剣の一本を拾い、男の後を追いかける。

 

 「グゥゥゥゥゥ……」

 

 さほど間を置かないままの二発目。

 

 立派な爪があっても、それを相手に向けて繰り出すのはずんぐりとした体のつくりから言ってほぼ不可能。


 さきほどチラリと覗いた口内には小さく細かな牙しか生えてはいなかった。


 現状、この火炎放射がトカゲの持つ唯一の武器。

 

 しかし、唯一ゆえに最大の武器。

 

 連射といってもいいぐらいの僅かなラグだけで撃てるのだから火力以上にそちらの方が何倍も厄介だ。


 一発目が放たれるまでの時間を見る限り、次の放射までにさほど猶予はない。

 

 グッ……。

 

 俺は足の裏全体で大地の固さを感じるように地面を強く踏み込む。

 俺の踏み込みと地面の反発力を均衡させるようにうまく調整をする。


 トカゲのお株を奪うつもりはないけれど、これもまた『溜め』。

 

 強い負荷により、重心にした右脚の筋肉や血管が膨張してはじけ飛びそうになる錯覚を感じる。

 

 ……しかし、それはやっぱり錯覚。

 

 俺の力と大地の力。

 それが効率よく脚に集まってきている証拠だ。

 

 「……ふっ!!」

 

 たとえるなら弓の弦やパチンコのゴムを限界まで引き絞ったところ。

 一番力が働く瞬間を逃さず、俺は地面を蹴る。

 

 ガゴン!!

 

 荷馬車や無数の人の往来にも耐えうるハズの硬い石畳が、俺の踏み込みで脆くも崩れ去る。

 

 弦から放たれた矢のように。

 ゴムに弾き飛ばされたパチンコ玉のように。


 一瞬で距離を詰めた俺の体は、盗賊の男とトカゲの間に勢いよく滑り込む。


 「……一張羅だったら、ごめん」


 ヒュンヒュンヒュン……

 

 まずはギャーギャー喚き散らす男に向けて剣を数回振るう。

 

 「う、うぎゃぁぁぁ!!!」


 ……正確には男の燃え盛るロングコート。

 水を取りに行く間もなければ、アルルのように魔術なんてものも使えない現状ではおそらく最善の選択。

 

 肉を切らないように加減した俺の剣撃は、男の外装だけを細切れにする。

 決して『うぎゃぁ』なんて叫ばれる道理はない。


 パラパラ……ドチャ……。

 

 「うん?」

 

 布切れが地面に落ちるにしては随分と重たげな音だ。

 それに、妙に手ごたえが固い部分もあった。


 内ポケットにでも入っていたらしい割と大きな巾着袋の中身が、俺の剣と地面に落下した衝撃で辺りに撒き散らされる。

 

 「……宝石に金貨……それに……玉?」

 

 ……ああ、なるほど。

 

 さすがは大盗賊『ユグドラシア』の大頭領閣下。

 

 腹の痛みをモロともしない馬鹿力に加えて、空き巣まで働くとは本当にたくましい。

 火事場を使った慣用句のどちらをも網羅するだなんてなかなかできることじゃない。


 「ああ!俺のお宝!!」


 つい今しがたまで命の危機にひんして錯乱していた男は、同じくらい慌てた様子で地面に屈みこんで散らばった盗品をかき集めに入る。

 

 ……はぁ……本当に世話が焼けすぎる。


 「……一番のお宝は守ってやるから安心していいよ」


 「え?」


 ボグシヤァァァァ!!


 「へぶしっ!!」


 ちょうど蹴りやすい高さにあった顔面を横から蹴り上げると、男の体は布切れよりもよほど軽くいずこかへ飛んで行った。


 なんとなくスッキリしたことは否めないけれど……別に他意はない。

 そうすることが一番効率よかっただけなのだ。


 なにせもう時間がない。


 「……ヴアァァァ!!!」

 

            ブヴァァァァァァァァァァ!!!


 俺の蹴りと同時にトカゲの第二射が放たれた。

 せっかく躱せるくらいの余裕を持たせたのに、これでは一手間余計にかかってしまう。

 

 「…………」

 

 鞘はなかったけれど、居合のように左の腰に剣を添えて集中する。


 今にもその圧倒的な熱量でもって俺の身を焼き尽くそうとする炎が迫りくる中、俺はそれと真っ向から対峙する。

 

 「…………」

 

 ひどく暑い。

 

 街全体が火の海に飲まれている上に、トカゲが捻りだしたばかりの新鮮な火炎は直撃を受けなくても肌や衣服をチリチリと焦がす。

 

 ひどく暑い。

 

 それはあの日の祭りの夜を思わせた。

 それはあの日の終焉の夜を思い出させた。

 

 やめろ……やめろ……やめてくれ……。

 もう俺に構わないでくれ。

 

 ―― イっくん ――

 

 大丈夫。大丈夫だよ、マリネ。

 

 ―― イっくん ――

 

 大丈夫。大丈夫だから、マリ姉ちゃん。

 

 そんなに心配そうにしなくても。

 俺はそう簡単には死ねない。


 いくら死にたくても嫌でも死にきることが決してできない。


 それは、姉ちゃんが俺に残した呪いだろ?


 ……それにさ……。


 「……ふっ!!」

 

 ヒュィィィィィィィンンンン……


             ボゴォォォォォォォンンンンンン!!!


 俺ってほら……バケモノだし。


 刃物で炎を真っ二つに割ることも簡単にできるんだよ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る