LOST DAYS~It‘s a wonderful WORLD~⑤

 「イっくん!!」

 

 どれくらい、そうやって立ち尽くしていたかはわからない。

 

 ただ、頬に張り付いた返り血がまだ乾いておらず、ドロリとした感触を残したままであるところを見れば、さほど時間は経過していないようだった。

 

 俺の名前を叫びながら部屋のある屋敷の離れへと飛び込んできたマリネ。

 血相を変え、息を切らし、飄々とした普段の彼女からは考えられないほど取り乱している。

 

 やはり『龍神たつがみ』の仕事関係で外に出ていたようで、防刃・防弾加工のされた特殊な強化服とミリタリーブーツという姿。

 

 さきほど嗅いだばかりの血と火薬の匂いが、より強く彼女の豊かな金髪から香ってきた。

 

 これまで俺の前では絶対に外の世界の匂いを持ち込むことはなかったマリネ。

 

 いつでも甘く、爽やかな香りを振りまき、俺に世界の汚らしい部分を感じさせないように最大限配慮していたのだと思う。

 

 そして、今。

 そんな優しい誤魔化しをする余裕もなく、マリネは息せき切って駆け付けてきたのだろう。

 

 「イっくん!!イっくん!!ああ、よかった、生きてる!!生きてるよぉ、イっくん!!」


 彼女はギュゥッと思い切り俺を抱きしめる。

 

 ことあるごとにくっついてくる、あの甘やかすような甘えるような柔らかいものではなく、確かな俺の存在を自分の体に覚え込ませようとするかのような、固く力強い抱擁だった。

 

 「大丈夫!?ケガしてない!?」

 

 「……いたい……」

 

 「え!?どこ!?どこが痛いの!?ほら見せて!お姉ちゃんに痛いところ見せて!」

 

 「……くるしい……」

 

 「くるしいの!?辛いの!?ああ、なんてこと!?やっぱりわたしがずっと付いていなくちゃダメだったのに!ごめん!!ごめんね、イっくん!!」

 

 「……おかえり……」


 「呑気か!?おかえりって呑気か、イっくん!?」

 

 マリネは一層、腕の力を強める。

 

 関節がはずれたままの肩が痛い。

 圧迫された胸のせいで呼吸が苦しい。


 しかし、むしろ不満を訴える度に事態がより悪化していくんだろうという最適解を、俺はキチンと自分の頭だけで導き出し、まるで脈略のないことを言ってみた。


 「あああ、聡明なイっくんがそんなおバカなことを口走ってしまうくらいヒドイ怪我を!?頭だね!?頭を強く打ったんだね!?」


 「…………」


 うん、何を言ってもどうしようともマリネのウザさからは逃れられないことを悟った。

俺はもうこれ以上は何も言うまいという新たな天啓を得て口を閉ざずことにした。


 「こんなに血が出て……どこなの!?傷口はどこなの!?」

 

 「…………」

 

 俺は貝のように黙り込みながらも、スッと自由の利く方の腕を上げて指をさす。

 

 指し示すのは縁側。

 そこに横たわる、俺でもマリネでもない黒づくめの第三者。

 

 この頬に付いた血は、その死体の傷口から流れたものだ。

 

 「……イっくん?」


 俺の挙動に気が付いたマリネは、俺の指先の向こうへと視線を送る。

 

 「……うそ……」


 マリネが息をのむ。

 

 密着しているおかげで、彼女の飲み込んだ唾液が食道をくだっていくのがこちらにも伝わる。

 

 俺の心配のために周囲の状況がまったく見えていなかったマリネが、冷静さを取り戻し、そして通り越していく過程も手に取る様にわかった。

 

 「……イっくんが……やったの?」

 

 事切れた男の亡骸を見る。

 

 穴だらけになった柱を見る。

 

 無残に破壊された部屋の有様を見る。

 

 俺の右手に持たれたままの拳銃を見る。

 

 顔を上げる。

 

 俺の目を見る。

 

 潤んでいるせいでより深く濃くなった澄んだ碧眼。

 そこに映り込む、どこまでも乾いた空虚な黒い瞳。

 

 どこまでも相容れなさそうな四つの幼い眼が、一つになって混じりあう。

 

 「……っっっ!!イっくん!!」

 

 マリネは再び俺を強く抱きしめる。

 

 死体を見て動転したわけではなく。

 甘えるでも甘えられるでもなく。

 俺がここにいることを確かめるためるということでもなく。

 

 俺がどこかへ行ってしまうことを恐れ、必死で繋ぎとめようとするような、切実さのこもった抱擁だった。

 

 「ごめんね……ごめん……ごめんなさい、イっくん……ごめんなさい……」

 

 何のごめんなさいなのだろう?

 どうしてごめんなさいなのだろう?

 

 「……わたしの力じゃ無理だった……考えが甘かった……努力がぜんぜん足りなかった……」


 無知な俺には何もわからない。

 マリネが教えてくれなければ、わからないことはいつまでもわからないままだ。

 

 ……だから今、マリネの嘆きに、自分がどう応えてあげればいいのか、俺にはわからない。


 「ごめんなさい、イっくん。……守って……あげられなかった……」


 「…………」


 「結局……結局……」


 「……結局、逃れられねーのさ、タチガミ・イチジの宿命からは」


 俺でもマリネでもない、別の誰かの声が聞こえた。


 静かな真夏の夜を震わす低い声。

 地鳴りのように深い深い声。


 この声をただ一度だけ聞いたことがある。

 ……というより、忘れもしない。忘れることができない。


 なにせ今の俺のすべては、この男の声から始まったのだ。


 そしてまた、男は新たな始まりを俺に告げる。


 『逃れられない』


 それは俺の穏やかな日常という繰り返し記号が満載の長く冗長的な日々に、無慈悲に、そして厳格に打たれた終止符のような言葉だった。

 

 「これでわかったろ、マリネ?お前さんが幾ら……あー努力?だったか?まぁそんなもんしてみたところで、ソイツは結局、こうなっちまうしかなかったんだよ」

 

 「…………」

 

 「いやいや、この一年間、随分とお前さんなりに色々やってたみてーだけどな。くっくっくっ……ぜ~んぶ無駄。無駄も無駄。無駄で無駄。無駄の満漢全席かってくらい、とにかく無駄な足掻きだったってわけだ」

 

 ちょうどまた、月が雲に隠される。

 なので、その嘲笑まじりの低い声を発する人間に暗い影が落ちて顔は見えない。

 

 それでも、その影すらも服従させてしまうかのような、威厳というか、凄みみたいなものは、ヒシヒシとこちらに伝わってくる。

 

 俺がバケモノだというのならば、この声の主は一体なんなのだろう?

 

 この男を前にすれば、俺なんて元の何者でもない、枯葉よりも他愛ない存在になってしまうような気がする。

 

 「どれどれ……刺客様のツラでも拝んでやりましょーかい」

 

 そう言うと、男は声と大柄な体躯にはそぐわない軽やかな足運びで、縁側からはみ出す、事切れた暗殺者の方へと屈みこむ。

 

 「あん?鉛筆かこりゃ?くっくっくっ……たまげたなおい。一流の殺し屋と偉い坊さんは道具を選ばないとはいうが、まさかこんなしけた赤鉛筆で眼球のど真ん中を抉るとはな。くっくっく……」

 

 実に楽し気な笑い声を上げながら、男は乱暴な手つきで死体の目に刺さった鉛筆を引き抜き、同じく適当に脱がせた目出し帽と一緒に、そこらへポイと放り投げる。

 

 その手、その声、その言動。

 そのどれもに、死者への配慮など微塵も感じられない。

 

 この男にとって死人……いや、そもそも命など、路傍に転がる石と何ら大差のない取るに足らないものなのだろう。

 

 「……眉間、それもゼロ距離からか。帽子を被っていても穴っぽこの周りがキレイに焼け焦げてやがる。胸の一発が余計っちゃ余計だが……まぁブレた様子もないし、うんうん、とりあえず初めてにしては上々か」

 

 「…………」

 

 「…………」

 

 「……ううん?しかしコイツの顔……どっかで見たことがあるような気が……。うーん、誰だったか?おーい誰だっけお前。名を名乗れ~おーい」

 

 男はふざけた調子で死体の頬をペチペチとはたく。

 

 「……ミムラさんだよ」

 

 ここで俺と共に黙り込んでいたマリネが、初めて声をだす。

 

 硬く、冷たく、そして同時に途轍もない熱を宿した静かな声だった。

 

 「あん?ミムラ?」

 

 「そう、ミムラさん。ちょっと熱くなりやすいし、普段はうっかりしてるところはあるけれど、それでも確かな中・近距離の射撃技術と豊富な実戦経験。肝がすわり、度胸があって、死線をくぐり抜けてきた回数はウチでも多分、一番だった」

 

 「そして今夜はその死線をくぐり損ねて、はいお陀仏ってわけか」

 

 「……どうしてそんな言い方しかできないんだよ……」

 

 「他にどういう言い方があるってんだよ?」

 

 「どれだけミムラさんがウチの為に必死で仕事をこなしてきたかわかってるの?まだわたしが本当に小さい時から『龍神たつがみ』の第一線、一番危険な仕事ばかり率先してやっていて、暇があれば後進の為に指導だってしてくれて……。優しくて頼りがいがあって、みんなのお兄ちゃんみたいな人で……。わたしだって……わたしだって射撃のこと、外の世界のこと……ミムラさんからたくさん教わったんだよ!!」

 

 「だけど死んだ」

 

 マリネの怒号をひらりと躱し、男はまるでコピー用紙にタイプされた文字を読み上げ、更にはその紙を丸めて屑籠に放り捨てるがごとく、あっさりと言う。

 

 「どれだけ優秀でも、どれほどウチに貢献してくれたとしても、どんだけ慕われていたヤツでも、今、コイツは死んでる。もう生き返らない。お前さんに銃の手ほどきをしたり、漫画を見繕うことだってもうできない。完全に完璧に、どこまでも死んでるんだ」

 

 「っっつ!!だから!!」

 

 「そしてもうウチを裏切ることも、イチジの命を狙うこともできない」

 

 「それ……は……」

 

 「ああ、確かにミムラには長い間無茶ばかりさせた。ウチの連中の中でも飛びぬけてタフな奴だったし、腕も信頼していた。……だけど裏切った。というよりも元からスパイだったのは知っていた。知っててウチに招き入れた」

 

 「……え?」

 

 「俺らの仕事はどう言いつくろってみてもあこぎな裏稼業だ。表にだって裏にだって、ウチと反目する組織はごまんといる。そん中でも特に昔から仲の悪いところから最初コイツは派遣されてきたんだよ。俺を殺すためにな。……とはいえまだお前が生まれるずっと前の話、あれやこれやとしている間にあっちよりもここにいた期間の方が長くなっちまって、本人もとっくに縁は切ったと言っていたんだが……はてさて、ここにきてどんな心境の変化……もしくは状況の変化があったことやら」

 

 「……おじいちゃん……」

 

 三度、月が雲間から顔を出す。

 柔らかな月光が庭を、世界を、死体の傍から体をゆっくりと起こす、大きな大きな男の姿を暴き立てる。

 

 月の下では何も隠せない。

 

 俺が無感情に殺した人間が、マリネの世話になった人だったことも。

 マリネがそのことに随分と心を乱していることも。

 

 そして、さきほどから容赦なく少女を追い詰め続ける男が、彼女の実の祖父であり、『龍神たつがみ』の総代であり、要であり、象徴であるところの立神零厳たちがみれいげん、その人であることも。

 

 「さしずめ、お前さんでも人質に取られたんじゃねーのか?」


 「……わたし?」


 「思わず宗旨替えをしてしまうほど魅力にあふれたダンディな大将。そしてこんな薄汚れた自分に屈託なく懐いてくるその孫娘。『龍神たつがみ』の秘密兵器を完成前に叩き潰さなければ、お前さんを殺すとでも脅された、だから止む無く銃を取った。誰にも相談できず、誰も巻き込めず。一人孤独に、失敗しても始末されるだけ、成功してもやっぱり俺に殺されるだけ。おまけに事情を知らないお前さんには恨まれるは、同じ釜の飯食ってきた仲間からは裏切り者のレッテルを張られるはの八方塞がり……って筋書きはどうだろう?いやいや、泣けるシナリオじゃねーの。ベタベタだが、だからこそわかりやすくて俺は好きだねぇ」

 

 軽薄な態度とは裏腹に、零厳のたとえ話は妙に確信的だった。

 確実な裏どりがあって、あえて泳がせていたというところか。

 

 それが証拠に。

 

 ちょうど月が顔を出すかださないかという頃合いに、どこかで待機していたであろう数人の構成員が、驚くほど手際よく、刺客の死体をどこかへと運び去っていった。

 

 準備は万全。すべてが予定調和。

 

 今夜マリネが屋敷にいないことも。

 そこを暗殺者が狙うのも。

 俺が刺客を返りうつことまでもこの男の想定内だったのだろう。


 「……黙って……」

 

 「お前さんも罪作りな女に育っちゃってまーまー。その歳でオッサン一人垂らし込むなんて大した小悪魔ちゃんだ。お前さんの親父もお袋もその辺に関してはバカみたいに奥手だったってのに誰に似たんだかな?ん?ああ、俺か?そうだそうだ、お前さんには俺の血が流れてるんだったけな?はは~なら納得だ。俺もお前さんくらいの歳の時にゃぁもう女の体の味を覚えて……」

 

 「黙ってよ!!」

 

 マリネが再び、怒りをあらわに叫ぶ。

 その慟哭に呼応するかのように、山の木々がざわめく。

 

 「おお、なんだ?反抗期か?」

 

 「黙ってってば……」

 

 「大事な孫娘の頼みとあれば聞いてやりたいところなんだが……なにせ今宵の俺は機嫌がいい。ようやく俺の大事な大事なバケモノ君がお目覚めになられた記念すべき日だからな。普段は無口な俺の舌も、ここぞとばかりに回っちまうんだ」

 

 「……もう黙って………」

 

 「どうしたどうした、さっきから苦しそうにして?あ、もしかしてあれか?ついにお赤飯か?そいつはめでたいことが続くじゃねーか。しかし、俺には息子しかいなかったしなぁ、こーゆー時何をどうしたらいいのかよくわからん。侍女長辺りにそれとなく頼んでおくから、あとは女同士で話し合ってくれや」

 

 「……黙って……」

 

 「それともミムラが死んだことが苦しいのか?」

 

 「……お願い……」

 

 「それとも、あれほど血なまぐさいことから遠ざけようとして弟なんてうそぶいていたガキが、あっさりとミムラを殺しちまったことが苦しいのか?」

 

 「……お願いだよ……おじいちゃん」

 

 「だから最初に俺は言っただろう?無駄なんだよ、無駄。コイツは……タチガミ・イチジというモノは、はじめからそういう風に作られているんだ」

 

 「っ…………」

 

 「お前さんのせいじゃない。お前さんの努力が足りなかったわけじゃあない。なるようになった、あるべきかたちになった、すべてはここに百戦錬磨のプロの殺し屋の死体が転がっていたことと、こうやって無事にソイツがそこに突っ立っている、その事実に帰結するんだ」

 

 「……やめて……」

 

 「もう一度聞くぞ、マリネ。何を悲しむ?何を嘆く?ミムラの死か?それともイチジの生か?」

 

 「やめて……」


 「そのどちらもか?……ああ、なるほどなるほど。じゃぁ、お前さんは、あのままイチジが大人しく殺されてくれればよかった……そう言いたいわけだな?まぁ、そうだわな。そうすりゃ、もう読み書きや常識を教えなくてもイイ、仕事の度にわざわざ長風呂に入ってキレイな自分を見せる手間をかけなくてもいい、すべての時間をこんな人形の世話に捧げなくてもいい。……俺への当てつけか、単なる意地か。引っ込みのつかなくなった今の現状から、お前さんは晴れて解放されるわけだ」

 

 「っっっ!!もう、本当にやめっ……!!」

 

 「…………」

 

 「……ほぉ……」

 

 「イっくん?」

 

 「…………」

 

 俺は今にも飛び掛かっていきそうなマリネと、そんな彼女を相変わらず楽し気に煽り続ける零厳の間にスッと体を入れる。

 

 入れる……とはいえ、ここにいる誰よりも小さな体を目一杯に挟み込んだところで、なんの障害にもならない。

 

 ましてや目の前に立つ大男。

 

 孫がいる歳とは思えないほど若々しい肌艶と黒々とした長髪。

 不精髭でも隠し切れない、顔中に刻まれた多種多様な傷跡の数々。

 軽い口調とは裏腹な鋭く尖る鷹のような目。

 着崩した着流しから垣間見える隆々とした筋肉。


 そしてなにより。


 体躯そのものよりも、彼の奥底から湧き出る尋常ではない量の威圧感を前にしては、まだ存在自体あやふやな俺ごとき、砂粒よりもまだ小さく見えたことだろう。


 「どうした、イチジ?」


 しかし、零厳はそんな矮小な俺の目を真っすぐに見返す。

 

 決して侮っていない。

 決して油断はしていない。

 

 おそらく、怒りのあまり殴りかかろうとしていたマリネに相対していた時よりもまだ真剣にこちらを見据えている。

 

 まるで『龍神たつがみ』の総大将にして最強戦力である自分と対等になりえるものと、まみえてでもいるかのように。

 

 「おうおう、勇ましいねぇ、男だねぇ。イジメられるお姉ちゃんを見かねて割り込んできたか?」

 

 「だ、だめ!下がって、イっくん!!」

 

 「…………」

 

 「ほれ、何か言ってみろよ?俺は必要ないって言ったのに、色々とマリネが言葉を教えたんだろ?感情を与えたんだろ?ほら、遠慮するな。ほらほら。お前は今、その胸にどんな感情を抱いている?」

 

 「…………」

 

 この胸に抱いている感情はなんだろう?

 

 「その感情を言葉に表すとしたらなんなんだ?」

 

 「…………」

 

 この感情を言葉に表すとしたらなんなんだろう?

 

 「……お前が何も言わないということは、これまでマリネがしてきたことは、本当に無駄だったんだと証明することになるが、イチジ?お前はそれでいいのか?」

 

 「イっくん!いいから!わたしのことなんていいから!今は下がって!!お願いだよ!!」

 

 「……ごめん……」

 

 「え?」

 

 振り返った俺は、右手に持ったままでいたハンドガンをマリネにそっと手渡す。

 

 「……ごめん……」

 

 ああ、そうだ。

 

 この胸を……。

 

 マリネが零厳にいいように言われ、怒りや悲しみに震えながら上げた悲痛な声を聞くたびに、この胸をえぐるように疼いた痛みを表す言葉を、俺はマリネからこの一年で確かに教わっていた。

 

 「ごめん、俺のせいで、マリ姉ちゃんをかなしくさせた。だから……ごめんなさい」

 

 「い、イっくん……」

 

 「はっはっは!!おいおい、よりにもよって『ごめんなさい』かよ!!いやいや、マリネ。お前さん、いい歳したオヤジだけじゃなく、こんなガキまで篭絡して調教してやがったか!!はっはっは!!我が孫ながらとんだ魔性だなぁ、おい!」

 

 「……ウザイ……」

 

 俺は無防備に背中を向けたまま、零厳に言った。

 

 ああ、本当にウザイったらない。

 この男。また、人のお姉ちゃんを貶めるようなこと言って下品に笑ってる。


 「あん?」


 「……黙れ……」

 

 「おおっと、目上の人間に対しての礼儀は教わってなかったみたいだな?」

 

 「いいから黙れ……若作りの色ボケクソジジイ」

 

 「……おい、マリネ。……お前さん、どんな教育をしてきた……」

 

 ヴオォォン……バチィィィィンンン!!


 「……ひゅ~」

 

 「ちょ!イっくん!!」

 

 黙らないから蹴りを入れて黙らせた。

 マリネが散々頼んでも止まらない口に向かって真っすぐに。

 

 俺ははずれたままの肩関節など気にせず、床に張り付けた右手を軸にして半回転。

 零厳の横っ面に、思い切り左脚で蹴りを浴びせた。


 眉一つ動かさず、呆気なく腕でガードされはしたが、躱すのではなく防御をさせたというところにまだ光明はある。

 

 「……なんつー鋭い蹴りだよ。俺じゃなかったら冗談抜きで首がスッパり刈られていたところだ」

 

 「…………」

 

 「で?次はどうする、イチジ?」


 グインッ……


 そもそも体重が軽い俺の蹴りでこの大男が倒れ伏すわけがないのは想定済み。

 

 元より本命は二撃目。

 

 ガードによって受け止められていた左脚をそのまま防御する零厳の腕に絡め、今度はそこを支点としてテコの原理で体自体を跳ね上げる。


 そしてその勢いのまま、蹴りよりもまだ早さと力を乗せた右膝をアゴへと繰り出す。


 ボギャァァ!!


「イっくん……早い……」


「おっとっと……こいつはまたとんでもねーな」


 それも難なく受け止められる。

 速度にしても威力にしても申し分のない、完璧かつ理想的な会心の一撃だった。


 それでも零厳の体にダメージは通らない。


 「だが、その速さも封じられたぞ?」


 ギリギリギリ……。


 「さて、イチジ。次はどうくる?」


 つかまれた膝がしらがゆっくりと握り潰されていく。

 万力に挟みこまれたかのような圧倒的な握力だ。

 これは抜け出すのは難しい。


 やはり甘くない。

 『龍神たつがみ』の象徴は伊達じゃない。


 よってプランの下方修正。

 それは二撃目を止められた瞬間から即座に完了している。


 ……つまりは、まだ終わらない。


 俺の体は間を置かず、すでに三手目へ向けて動き出している。

 

 軸とするため零厳の腕にからめていた左脚を放棄し、今度は受け止められた膝へ支点を移す。


 大きな手の平の中におさまった膝だけでぶら下がるように体を支える形。


 そして……。


 ギュルン!


 「っっ!?」

 

 相手の懐側から、膝を掴まれた方の腕に体全体で巻き付きついた。

 そして着流しの長い袖ごと渾身の力で零厳の肘関節を逆方向に捻じ曲げる。

 

 これもまた自分一人の力ではない。

 

 そのままでいれば俺の膝を躊躇いなく粉砕していたであろう相手の握力を拝借させてもらい、勢いよく回転。

 

 外に流れていく体の遠心力を、掴んだ袖を搾るようにしてそのまま零厳の肘関節へと集中させる。

 

 さすがの立神零厳もこれには思わず顔をしかめる。


 膝の拘束がゆるむ。


 どれだけ鋭くとも軽すぎる俺の攻撃では、躱すのが難しくとも受けることは容易い。


 しかし、この極め技のほとんどは自らの力。

 重たく、そして強い。


 本気で骨を砕かんと込めた力と遠心力のプラスアルファがそのまま関節部に襲い掛かる。


 例えるならば合気。


 体格で劣る分を相手から借り受けてそのまま返すといった、力の強弱よりもその運用の仕方によって戦う戦術。

 

 何故だか、俺にはそのやり方がよくわかっていた。

 

 体が勝手に動く。

 体中の細胞が、筋肉が、脳が、俺の意思とは関係なく動く。

 

 マリネをイジメた男の減らず口を黙らすため。

 立神零厳を殺すため。


 目的の達成のため、最短・最速で俺の体は最適解に則した動きをする。


 「………」


 こうやって腕に巻き付いてみてよくわかる。

 

 見た目通りに充実し、見た目以上に固くしなやかな筋肉細胞。

 まるで鋼の鉄柱にでもしがみついている気分だった。


 それにくらべて俺なんて……。


 本当に矮小で、本当に非力だ。


 子供だとか大人だとか。

 体格差とか経験の差とか。

 そんな言い訳に甘えるつもりはない。

 

 俺は弱い。

 ただ弱い。

 

 どれだけ工夫して拳なり蹴りなりを放ったところで、俺の実力では決して立神零厳には勝てないだろう。

 

 俺は勝てない。

 ただただ勝てない。

 

 ……しかし。

 

 殺すことぐらいならできないこともない。

 

 フワ……。

 

 いまだ体を回そうとする力が丁度良く真上に向いたところで掴んでいた袖を離す。

 

 ふわりとした浮遊感。

 軽い俺の体が放り出される。


 逆さになる視界。

 逆さになる世界。


 そんな俺以外のすべてが裏返った世界で零厳の目と一瞬だけすれ違う。


 何も知らなさすぎる、どこまでも虚ろで空っぽな『無』の黒い瞳。

 何もかにもを知りすぎて色々なものが複雑に折り重なった混濁が渦巻く『有』の黒い瞳。


 ひな鳥のように鈍重なつぶらな目。

 空を制した大鷹のように鋭く細い目。


 同じ目線。同じ土俵。

 

 俺はその時、確かに立神零厳と対等に殺し合っていた。

 

 ガシィ!


 「ぐっ……」

 

 そのまま天井の梁に向かおうかという道すがら、俺は零厳の下アゴをがっちりと掴む。

 

 流れる体がガクンと急停止する。

 いや、無理矢理に止めた、というべきか。

 

 すぐさま行き場を失った力が俺の両腕に集まってくるのがわかる。

 

 「……なるほど……そうくるかよ」

 

 「……死ね」


 バゴォォォンン!!


 零厳の頭頂部で倒立をするように伸ばしていた体を一気に縮め、勢いよく相手の後頭部に、合わせた両膝をぶち込む。

 

 打撃や締めが目的じゃない。

 

 アゴからは引っ張り上げる力X。

 後頭部からは横に突き抜けていく力Y。

 そして二つの方向性の違う力が集束する点Z。


 ……つまりこれは首の骨をへし折るための二撃必殺。

 

 ただの締めでも膝蹴りでも倒れないだろうことはそれまでの攻撃でわかっていた。

 

 まともな打ち合いでは話にならない戦力差があることも理解した。


 ならば重ね掛けではどうだろう?


 おまけに幾らかでもアゴを上げられたおかげで首の筋肉が弛み、骨へのガードが甘くなったところを的確にとらえた乾坤一擲。


 俺はスッと零厳の頭から飛び降り、正面に立つ。

 

 はてさて。


 確かな手ごたえはあったわけなのだが……。

 

 「まぁ……死なすにはちょっとばかし足りねーわな」

 

 そう、殺すには足りなかった。

 

 「いやいや、無茶苦茶いてー。ホントいてぇ。……いつ以来だ?俺がまともにダメージをくらったのって?……四十年くらい前、浮気がばれて嫁さんに刀でひき肉に刻まれそうになった時以来じゃねーかな」

 

 コキコキと。飄々と。

 零厳は首を何度か振りながら、そう、うそぶく。

 

 「……このバケモノ」

 

 「おいおい、自分のことを棚に上げてそれはねーだろーが。なんだよあの無駄のない動き?そしてこの躊躇いのなさ。俺じゃなかったら確実に三回くらい死んでるぞ」

 

 「……次は……しとめる」

 

 「そうかそうか、この俺をしとめるか?」

 

 零厳は再びコキコキと首を鳴らす。

 

 そしてニヤニヤと笑う。

 

 実に酷薄で……しかし、おもちゃを与えられた子供のように本当に楽し気で無邪気な笑みだ。


 「まさかこの俺が……今もなお『戦鬼』だなんて恥ずかしい二つ名で呼ばれている俺が、身構えていて躱せない攻撃がまだこの世にあったなんてな。タチガミ・イチジ……正直、ここまでやるかと驚いている」


 「ダメ……」

 

 時間にして五分もかかっていない俺と零厳の攻防。

 

 その一部始終を茫然と見届けていたマリネがようやく声を出す。

 

 「これからもっと驚く」

 

 「ダメ……おじいちゃんも……イっくんも……」

 

 「ひゅー……かっこいい」

 

 「こんなこと……ダメ……ダメだよ、イっくん……」


 「……死ねよ、クソジジイ」

 

 「……れるか、クソガキ?」


 バン!バン!バン!


 「ダメっつってんでしょうがぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 互いにどこまでも無垢な殺意だけを研ぎ澄まし、いざ激突……というところで、甲高い銃声と、それ以上に鬼気迫るマリネの叫び声が響いた。

 

 俺はその声が耳に入った瞬間、ふっと憑き物が落ちたように全身から力が抜けた。

 殺気も瞬く間にしぼんでいき、それと呼応するように零厳の方でもフゥと息を吐く。

 

 「……イっくん?」

 

 ポンと肩にマリネの手が置かれる。

 背中越しではあるが……いや、背中越しだからこそ、この背筋に走る寒気でとてもよくわかる。

 

 殺気だ。


 さきほど俺を暗殺しようとしていた刺客よりも、『戦鬼』と呼ばれているらしい零厳よりも。

よほど強くて恐ろしい鬼のような殺気が、俺の背中、そして手の置かれた肩から伝わってくる。

 

 「……そうか……これが『こわい』か」

 

 「うん、そうそれが恐怖だよ、イっくん?また一つお利口になったね♡」


 「…………」


 「そして都合が悪くなったら元のダンマリさんかぁ。うんうん、お姉ちゃん、イっくんが成長してくれてとっても嬉しいんだよ♡」


 「…………」


 『♡』とはこんなに身を戦慄させるものだったのだろうか。


 わからない……。

 俺には何もわからない……。


 「わかってるよね、イっくん?わたしが怒ってること?」


 「…………」


 「そしてどうして怒っているのか……それだってもう、イっくんにはわかるハズだよね?」


 「……ごめんなさい……」


 「うううんんん??何がごめんなさいなのかなぁ?」


 「心配をかけた」


 「誰に?誰が?何をかけたって?」


 「マリネに……」


 「違うでしょ♡」


 「愛するマリネお姉さまに、愚かにもこの弟めは再三の愛ある注意も無視して多大な心配をおかけいたしました」


 「うん、よろしい♡」


 そしてマリネは、そのまま背中から腕を回してギュっと俺を抱きしめる。

 俺の存在を確かめるためでも、繋ぎとめるでもない。

 いつもの、優しい抱擁。

 

 それも甘えるという成分が若干多めの、とても柔らかな抱擁だ。

 

 「完全調教済みじゃねーか。……やれやれ、くだらねーオチがついちまっ……」

 

 バァン!ヒューン……。


 ボリボリと頭を掻いていた零厳の髪の毛に、俺を抱きながらマリネの放った銃弾が掠めていった。

 

 「えっと……マイ孫?」

 

 「そんなに気に食わないんならぁ~今から血の雨エンドに突入してみるぅ?」

 

 「……愛する孫娘相手に、愚かなるジジイは少しばかり調子に乗ってからかい過ぎてしまいました。」

 

 バァン!ヒューン……。


 「おいおい、差。弟と祖父に対する扱いの差」

 

 「なんか、イラっとしたんだよ」

 

 「マジに女の子の日だったか?」

 

 「……ねぇ、おじいちゃん」


 「なんだ?」


 「一日……ううん、今夜だけ。今夜だけでいいから、少しわたしとイっくんに時間をちょうだい」


 「……決めたのか?」


 「うん……たった今」

 

 「……そうか。……だが、こうなっちまったからには、それ以上は待てねーぞ」

 

 「うん、わかってる。ありがとう」

 

 「礼なんて、言われることじゃない」

 

 「うん、それもわかってる。……でもありがとう。……この一年。わたしのワガママに付き合ってくれて」

 

 「そういうところがまだまだ甘ちゃんなんだよ、お前さんは……」

 

 そうして、立神零厳は離れから母屋の方へと去っていく。

 

 「なぁ、イチジ……」

 

 その途中、一度だけ零厳は立ち止まって俺に呼びかける。

 

 「お前、これで自分がどんな存在なのか理解できたか?」

 

 「…………」


 「ただ殺す。ただただ殺す。……感情も言葉も何もいらない。得物が鉛筆だろうが拳銃だろうが無手だろうが、とにかく自然と目の前のものを殺す。殺し尽くす。それだけを行動の規範とした殺戮装置、バケモノ……そういうものでしかないんだよ、お前は」

 

 「…………」

 

 「……だがまぁ……俺が思い描いていたお前とは少し違っていることもまた事実だ」

 

 「…………」

 

 「抗ってみろ、タチガミ・イチジ」

 

 そして今度こそ『龍神たつがみ』総代、立神零厳は去っていく。

 どんな灯りも照らさない長い廊下の暗闇に、ゆっくりと溶け込んでいくかのように。

 

 「……ねぇ、イっくん?」

 

 俺に抱き着いたままのマリネは、俺の耳元でささやく。

 

 「お祭り、いこっか?」

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