3-4

 アリスはすぐ上野駅に移動し、駅員の案内で救護室に赴いた。駅の喧騒は遠い唸りになっている。あまりの静けさに思わず気が張りつめる。ドアノブが冷たい。


「失礼します……」


 小さな声で言いながら入室する。

 布のスクリーンで仕切られた静かな空間。アリスが見回していると、仕切りの一つから話し声が漏れ聞こえてきた。


「ね、お願い。書いてちょうだい」


「嫌だって何度も言ってるだろ……」


 カルナの声だ。かなりか細く、声だけで具合が悪いのがわかるくらいだ。

 女性がカルナを説得している。


「必要なの。あなたのことを知らないと、あなたを助けることもできない。もしかしたら大きな病院へ運ぶ必要があるかもしれない。その判断を間違わないためにも、ね」


「……」


 力無い舌打ちのあと、がりがりとペンを走らせる音が聞こえてきた。


「カルナ?」


 スクリーン越しに声をかけると、白衣の女性が出てきた。柔和な笑い皺の女性だ。


「お友達かしら?」


「はい、そうです。カル……あいつは大丈夫ですか?」


 カルナが偽名だったことを思い出し、アリスは言い直す。

 全然大丈夫じゃなさそうな声でカルナが言う。


「大丈夫だ。どっか行ってろ」


 アリスと白衣の女性は目を見合わせて苦笑いした。カルナは問診票のクリップボードを投げ出し、布団にくるまった。サングラスとヘッドフォンをしている。


 白衣の女性は問診票を取ると、アリスに外へ出るよう合図した。アリスは頷き、救護室のドアに手をかける。


「じゃあ、ゆっくり休んでねカルナ。帰るとき合流しよ」


 カルナはもごもごと返事をした。


 アリスが救護室外の廊下で待っていると、間もなく白衣の女性も出てきた。問診票を抱えている。


「どうしたんですか、あいつ……」


 白衣の女性は口に人差し指をあて、声をひそめた。


「お友達はね、光や音に敏感な体質なんだって。久しぶりに昼間でかけて気持ち悪くなっちゃったみたい。いつもはヘッドフォンとサングラスをつけるらしいんだけど、女の子の前だから遠慮しちゃったのね」


「あ……」


 カルナがヘッドフォンとサングラスを取り出したとき「話し相手になってよ」と遮ってしまったのを思い出し、アリスはしゅんとする。

 それを見て女性はそっとつけ足した。


「あの子だって悪いのよ? カッコつけきれなくて倒れちゃったんだから。でもそういうお年頃だから、お姉さんが優しく見守ってあげてね」


 アリスは少し気が楽になり、はにかんで頷いた。


「それじゃあ、楽しんできてね」


 白衣の女性が救護室に戻る。踵を返した拍子に、手に持った問診票がちらりと見えた。


 え?


 驚愕のあまり、救護室のドアが閉まってなおアリスはその場に立ち尽くしていた。

 見間違いではない。見慣れているから見間違えるはずもない。名前の欄には確かに、こう書いてあった。


山桜桃梅ゆすらうめ 加月かづき




 カルナはとっぷり日が暮れるまで寝込んでいた。在来線への乗り換え駅で落ち合うと、諦めたのか消音ヘッドフォンとサングラスをしていた。


「人の声は聞こえるから大丈夫だ」


 言いながらキャリーケースの片方をアリスに押しつける。アリスは頷いたが、どう話を切り出せばいいかわからなかった。


 誰もいない下りの在来線。アリスは、反対側の窓に映った自分とカルナを見ていた。電池がなくなり、Plum phoneは電源を切っていて暇だった。


 不意にカルナが言う。


「思ったより釣れなかった。筑山つくやま駅で何日か置いた方がいいな。着いたら荷物を隠せそうな物陰を探すぞ」


「えー、それ明日にしない?」


「プログラマー三大美徳を知ってるか? 短気、怠惰、傲慢だ。俺はさっさとボットを集めたいし、また明日駅に来たくないし、お前の言うことを聞く気がない」


「でもRIP RISAの予約販売が……」


 今夜十時に人気ファッションブランドの新作が公開されるのだとアリスは告げる。


「いつも数分で在庫切れになっちゃうから、パソコンの前で準備してたいの」


 カルナは「ほーん」と言いながら、キャリーケースからノートパソコンを一台取り出した。

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