第2話 久遠 二、

あの蝶は、たぶんこの中だ。

錆びついてはいるものの鍵がかかっていない、見た目以上に重い扉を汗だくで開き、中に入り込んだ。ギィィィィ、バタン。大きくきしみ閉じるドアの音。

玄関口に小さなロビー。それを囲むように幾つかの扉があるが、部屋数は少ない。どの部屋も薄暗く殺風景。数少ない調度品の選び方の趣味は悪くなさそうだ。

興味深いのはキッチンで、食料の類の貯えが無に等しいのに、紅茶、ハーブティの種類が異常に豊富なのである。品のいいカップ&ソーサーが一人分ずつ十数セットと、茶葉の瓶が専用の棚に並んだ様は、まるで実験室の薬品庫だ。

ロビーの真ん中から逆時計回りでつながる階段。忍び足で歩いてもギシギシと大きな音を立ててしまう階段をゆっくり上がり、あの窓があった位置の部屋を目指して進んでいった。

ドアを開ける音、足音で既に彼は気づいていたはずだ。自分の許へと近付いてくる無礼な侵入者に。しかし、彼は多分、その微かに開いた隙間から淡い光が漏れる部屋の扉を選んで押し開いたその時、あの蝶を噛み砕いたのだ。まるで私に見せつけるように。

真珠色の羽が、ふるふると七色に光る鱗粉を撒き散らす。その細い胴をクシャリと噛む。真っ赤な唇から伸びた象げ色の犬歯。まるで繊細な飴細工を一瞬で噛み砕く、残酷な子供のように。

そして、彼の姿は近くの壁に掛かった姿見に映っていない! 吸血の余韻に酔ったように、ゆっくりと羽を降ろしていく蝶の姿があるだけである。


不思議に恐怖を感じなかった。あまりにもその淡い光の中で起きた一部始終が美しかったから。

私はあの蝶になりたい。そう、思った時、足の力が抜け、ドアにすがったままガクンと跪いてしまった。

白い悪魔。

光にとろけそうな柔らかな金髪、陶器のような肌、氷青(アイスブルー)の瞳、薔薇色の唇。細身の体にシルクシャツ、真っ白なカーディガンを羽織り、ベージュのコーデュロイのズボンを穿いている。

彼は、ゆっくりと振り向いた。

「腰が抜けたかい? お嬢さん。しかし今まで逃げずにいた気の強さと好奇心は評価してあげよう」

細い指の両手の中、蝶はゆっくりと羽を再び動かし始めた。

「クロワゾン・・・こいつの名前だよ。こんなものは綿菓子程度にしか僕の喉の渇きを満たしてはくれないが、ね」

「あ、あぁあううえぇ?」

私の唇には、かすれた母音しか上らない。相手の話す言葉の意味も理解できるし、自分が言いたい言葉も、文字(スペル)まで頭に浮かぶのに、発音することだけが出来ないのだ。

この人は、吸血鬼なのだろうか?

「君は、もともと口がきけないの? ・・・そう、それほど深い心の傷を持っていては、吸血鬼なんてさほど驚きもしないわけだね。言っておくけど僕は十字架も光も平気だよ。強い日差しには少々弱いけどね」

あなたは私の心を読めるの?

「そう・・・試みれば言葉では零れてしまうような、はかない微細な感情まで、心の丸ごと読むことができるよ。だから、今まで、どれほどの人間が、僕の吸血行為を目撃してショックを受け発狂したか、どれほどの子供があの森で迷い、寒さや飢えで苦しんで、或いは獣に喰われて断末魔の恐怖を味わったか・・・全部知ってる。君が、今、本当は、ちょっとだけは怖いけど、それに好奇心が勝っている、ということも」

クスクス。彼が何故か笑い出したのに驚いたように、真珠色の蝶は彼の両手から飛び立った。

「安心しなさい。僕との約束を二つ守りさえすれば、僕は君の血を吸ったりはしない。一つはここでのことを誰にも言わないこと」

大丈夫。私は口がきけないから。・・・私が微笑むと、彼は急に厳しい表情になって

「もう一つ。それは、僕の目の前で、血を流さないこと。血を見た瞬間、理性を失ってしまう。君の傷口にむさぼりつくだろう」

顔をぐっと近付け、そう付け加えた。

「・・・僕は基本的には人間の血は吸わないことに決めている。本当に愛した人の血以外、口にしたくないんだ。喉の渇きは森に棲む獣や、あのクロワゾンの体液を接取することで充分満たされている」

あの、大量のハーブ・ティーと?

「精神安定効果があるからね」

クスクス、笑いながら私の心に直接語りかけてきた。・・・本当に悪い子だね。他人の家の中を偵察してきたのか。

「僕はこの森から出ることは出来ない。幾度かは森の中を彷徨ってみたが、外に出ることは出来なかった。君のような変わり者を除いて、恐れもせずに話し相手になれる来客も無かったからね。この孤独を鎮めるには嗜好品が必要なんだ」

私たちはもう、友達でしょう?あなたは孤独ではなくなったわ。

「君に僕の孤独は理解できないよ。絶対に」

冷たい笑顔で拒んだあと、優しい声で尋ねた。

「君、名前は?」

みもざ。胡桃沢みもざ(くるみさわみもざ)。職業は、詩人。

「詩人・・・くだらない大人の最たる予備軍か」

私は、声で語れない私だけの、コトバを探すわ。誰も語れない物語を語る者になる。

「僕は音ノ原久遠(おとのはらくおん)。職業は・・・そう、この森の守り神、というところ・・・いや、この森の虜(とりこ)なのかもしれない」

知り合いの一人に吸血鬼を加えることが出来るというのも、なかなか出来る経験ではない。それにしても恐怖心のかけらもない、私のこの感覚はどういうことなんだろう。

度胸、とかじゃなく。現実からはみ出してしまった者同士の孤独感が共鳴するのだろうか。

でも、彼の抱える孤独は多分、私には想像がつかない程の果てない深さだろう。


「帰り途(みち)はクロワゾンが教えてくれる。着いていきなさい。」

また、来てもいいの?本当に?

「君はつくづく変わった子供だ。幼さゆえの無邪気さなんだろうが」

熱いカモミール・ティを勧め、彼は微笑む。

「君は、一生話せないかもと思い恐れているけれど、間もなく言葉を取り戻すよ。心配しなくてもね」

はっきりと、予言した。彼は吸血鬼にしては優しい。

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