第6話 マティス

 ブラック家の一室。

 マティスの勉強部屋であるその場所で、あたしはマティスの朗読を聞いていた。

 本を机に立てて、背筋を伸ばして、お行儀よくページに書かれた文字を読むマティス。

 マティスは兄のニコラスと同じ黒髪、黒目の丸い顔をした八歳の男の子。

 大きいレースの襟のついた服が可愛いわ。

 あたしはマティスの周囲を円を描くように回って歩いていたけど、離れて、窓に近づいた。

 ブラック家は、裕福だから二階建て。

 一階は、石造りだけど二階は木造の造りよ。

 木窓を開け放した窓から見下ろすと、マティスのお母様が、庭で広げていた洗濯物を集めるのが見えた。


「た……いひ……んだ……」


 あたしは振り返って、マティスのところへ戻った。


「たいへんだ、ね。マティス」

「うん、た……いへん、だ」


 あたしは頷いて、またマティスの周りをぐるぐる回りだした。


 マティスはなかなか字を覚えられない。

 あたしは心の中でため息をついた。


 なぜかしら。

 頭が悪そうには見えない。話し言葉はすらすら話すし、大人顔負けの言葉だって使う。

 数の計算だって、他の子より早いくらい。

 字、だけなのよ。文字が覚えられない。


 何度も羽ペンで文字を書く練習をしたわ。ギールよりはるかに上手く書く。

 読めないのよ。

 いえ、一日の最後にはその日学んだ言葉は読めるようになっているわ。

 でも、次に会ったときはみんな振り出しに戻っている。


 最初のギールが、マティスをもてあましたことは想像がついた。


 これは、大変よ。本腰をいれなきゃね。


「なんで、僕、字が読めないのかな」


 いきなり朗読をやめてマティスが言った。


「……僕より小さい子や、後から字の勉強を始めた子の方が、僕よりいっぱい読めるよ。僕も一生懸命勉強してるのに。本を読めるようになりたいのに」

「マティス」


 あたしがマティスのそばにしゃがみ込むと、マティスは丸く黒い目であたしを見下ろした。


「僕は、バカなの? アネッテ先生?」

「そうじゃないわ。今だけ。続ければ、読めるようになるわよ」

「ギール先生は、そう言わなかったよ」


 マティスは子供ながらにため息をつく。

 あたしは眉がぴくりと持ち上がった。


「ギール? あいつ、あなたになんて言ったの」

「僕は、バカじゃない。……ただ、そんな子なんだって」


 マティスはあたしの目を見つめながら続ける。


「読めない子なんだって。生まれつき、そんな子なだけだから、気にしなくていいって」


 あの、バカ!

 なに、言ってんのよ。

 マティスに勉強する気をなくさせてどうするのよ。

 自分が読めないからって、変な言い訳を考えるんじゃないわよ!


「ねえ。ギール先生は、もう、僕の家に来ないの?」


 黙っていたあたしにマティスが聞いた。


「ギール先生、好きだったのに。テスお姉ちゃんが結婚してから、来なくなっちゃった」


 そうね。

 あなたのお姉ちゃんとギールはいろいろ……いろいろ……みんなを巻き込んで……いろいろやらかしちゃったからね!

 それは仕方がないわ。ギールはもうこの家に足を踏み入れられなくなっちゃったんだもの。


 マティスはさみしそうな目をした。


「ごめんね、マティス。ギールは他にいろいろお仕事があって、忙しくて来られないのよ。あたしが代わりじゃだめかしら」

「ううん……ギール先生に会ってみたいな、って思っただけだよ」


 この子、ギールが好きなのね。

 まあ、あいつ、優しいし、怒ることなんてないし。

 女子供には好かれるわよね。


「ギールが好きなのね」

「……ギール先生は、僕と同じだから」


 マティスは頷いて言葉を続けた。


「僕と同じだけど、先生だからすごいな、て思ったんだ。僕も、先生になりたいんだ。……僕の家は軍人の家だけど、ニコラスお兄ちゃんが軍人だから、だからお兄ちゃんは僕に先生になってもいいよ、って言ってくれた」

「マティスなら……ギールよりもはるかにいい先生になれるわよ」


 あたしは微笑んでマティスの頬を撫でた。


「僕、先生になれると思う?」

「なれるわよ。だから、勉強してんじゃない」

「……僕、勉強は好きだよ。……今日覚えたことは、寝て明日になると、忘れちゃってることが多いけど……でもたまにね、ひとつかふたつ、覚えてることがあるんだ。その字が分かったときはね……」


 マティスはにっこりときれいな笑顔を浮かべた。


「とっても嬉しいんだ」


 あたしはマティスの頭を撫でて、頭に口づけた。


「そう。なら、勉強を続けましょう。もう少しで夕食よ。それまで」

「はい」


 マティスは気持ちよく返事して本に目を戻し、朗読を再び始めた。



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