桃色カラス

練田古馬

一話

 絵を描いていると、ときどき思い出す。

 昔、小さい頃に絵を描いていた時のことを。


 あれは、何の絵を描いた時だったろうか。今はもう判然とせず思い出せないけれど、その絵のはじに描いたカラスだけは、今でもぼんやりとだが、覚えている。


 何故カラスを描いたのか。それは、絵の内容が記憶にないから分からない。だが、あの時は、本当に小さい頃だったから、自分の中で鳥を思い浮かべた時にカラスくらいしか出てこなかったのだと思う。

 そりゃ、ヒヨコとかペンギンとか、他にも知っている鳥はいくつかいたけれど、それでもやっぱりカラスだけしか頭になかった。

 近所にも沢山たくさんいたし、何より10年も満たない自分の人生の中で一番出会っていた鳥だったから。


 だから描こうと思っていた。けれど、その時の僕は、カラスを描けなかった。

 何故なら、愛用していたクレヨンセットの中に黒いクレヨンが入ってなかったからだ。

 別に盗まれたわけじゃない。ただ、単純に僕が使いきってしまったのだ。


 黒という色は案外欠かせない。

 どんなモノでも、輪郭りんかくを表すのには黒は重要だし、それ以前に黒いものを描く機会だってそう少なくはなかった。黒猫とかアスファルトとか……、もう覚えてないけど、多分そんなようなものを書いたりして無くなってしまったんだと思う。


 そんなわけで、僕は困っていた。カラスを描くための黒がないということに。

 しかし、その時の僕の逡巡しゅんじゅんは一瞬だった。

 そして、何を思ったのか、僕はピンクのクレヨンを手に取ったのだ。

 今思い出すと、本当に不思議でならない。何故ピンクで描いたのだろうか。


 使われないまま放置されていて、可哀想だったから?


 それとも単純に好奇心だけ?


 ともかく、青い空にピンクに着飾らされたカラスは、二重の意味で浮いていて、とんでもなく異質だった。

 今では、僕の記憶から断片的に切り取られているだけだが、それでもなお、異質だと感じる。


 空という空間に桃色は合わない。まあ、フラミンゴという桃色の鳥は存在するわけだが、それは高校生になった現在でも肉眼で見ることはなく、僕にとっては縁の遠い話だ。

 それは小さい子供にも同様で、故にこそ、僕はその絵を見た友達にひどく馬鹿にされた。


「何これ? ピンクの鳥?」

「変なの……」

「こんな鳥いるわけねーじゃん」


 そんな風に言われたっけ。

 いっそこれがフラミンゴだと断言できたら、むしろ鳥博士なんて言われて、自慢できたかもしれない。

 だけど、僕が描いたのはあくまでピンクのカラスだった。


 もちろん、僕は友達の反応を見てとてもショックを受けた。

 どことなく変だということは理解していたけど、それでも描き切った時は謎の満足感があった。


 その絵は今、どこにあるのだろうか。

 捨ててしまったのだろうか。家のどこかにしまってあるのだろうか。

 まあ、いずれにせよ、あの絵をもう一度見たいとは思わない。


 今は、黒なんていくらでもある。鉛筆、シャーペン、絵の具にマーカー。どんな画材だって使える。自分で買って補充出来る。

 カラスを桃色に染める必要なんてないんだ。


「………………」


 そうして、人生の色々を経て、僕は高校の美術部に所属している。


 クロッキー帳の上に鉛筆を滑らせて、目の前の本を描き写す。

 ただ、精巧に。ただ、精密に。見たままを紙面に映し出す。


 僕はデッサンが好きだ。

 そこに明確に書くものがあって、似せれば似せるほど上手く描けたと実感出来る。

 中学の頃は、ガラスコップのデッサンで区展に選ばれたこともある。それが僕のデッサン好きを、更に後押ししているとも言えるだろう。


 逆に、ワシリー・カンディンスキーのコンポジションみたいに、芸術性をそのまま絵にしたような価値を産み出すのは、苦手だ。

 僕には到底無理だとさえ思う。

 写実的な方が僕には向いている。だからこそ、画家は比較的ラッセンのような人が好きだ。……ネタで言ってしまうと古いだろうから誰かに言うことはないけれど。


 バキッ。


 芯が折れた音がした。

 同時に、クロッキー帳の中で描かれていた本が大きくゆがむ。


「あー…………」


 溜め息と共に消しゴムを手に取る。

 思考が散漫になっていたせいで、変な風に力を入れてしまった。

 紙には変な凹凸おうとつが出来てしまい、消しづらい。


 やれやれと思いながら消しゴムを掛けていると、唐突とうとつに後ろから声がかかった。


「芯を飛ばす程、力強い絵を書いていらっしゃるのは誰かな~?」


 振り返ると、美術部部長を勤めている先輩が後ろに立っていた。

 彼女の指の間には、僕が折って飛ばしたであろう鉛筆の芯がつままれており、どうやら先輩の席の方まで飛んでいってしまったのだろう。


「すみません、僕が飛ばしました」


 申告はしたが、そうするまでもなく先輩が僕の背後に迫っている時点で、犯人が僕だということはバレている。


 しかし、先輩の表情は決して怒っているようなものでもなく、ましてや怒りを隠すために別の表情を張り付けているわけでもなく、ただ、何となくこちらに来た、という感じだ。

 視線は僕には向かわず、その先のデッサンの方に向かっている。


「君はデッサン好きだねぇ」


 あきれるわけでなく、ただ純粋な感想として、先輩の感想がつぶやかれる。


「はい、まあ……、それなりに」

「抽象画とか、嫌い?」

「……いえ、別に」


 抽象画。

 美術部のくせに、その考えにどうしてか至らなかったな、と自分のデッサンを見やりそう思った。

 先輩は、僕の発言を聞くや否や、合点がてんがいったという感じでうんうんとうなずく。


「何というか……、あれだね。好き嫌い以前に興味が無い感じだね」

「はぁ…………」

「んじゃ、描こうよ」

「え……?」

「抽象画、描こうよ。自分の中身、全部ぶちまける感じでさぁ!」


 先輩は大きく叫びながら、勝手にクロッキー帳のページをめくった。

 同時に本のデッサンも去ってゆく。

 先程まで描いていたせいか、何だか哀愁あいしゅうただよわせながらページの向こう側に行ってしまう気がして、無意味にもうれいに似た感情が芽生えた。


「……デッサン、まだ途中だったんですけど」

「まあまあ、いいから書いてみなよぉ」


 そう言われて出されたクロッキー帳を前に、僕は硬直する。

 何というか、自分勝手な先輩だ。

 美術部に所属しているくせに、妙に落ち着きがなく、絵を描くような人間だとは初見では思えない。

 よそ見をすると、また何をギャーギャー言われるか分からないからえて見ないけど、多分彼女の描いている絵は描き途中だ。

 僕なら一度描き始めた絵は、最後まで書かないと逆に落ち着かないものだが……。

 まあ、鉛筆の芯を飛ばしてしまい、先輩の集中力をいでしまった僕の落ち度だと割り切って、絵の方に集中してみようか。


 さて、今まではデッサンをクロッキー帳に描いてきたが、先輩がやらせようとしているのは、抽象画だ。

 抽象画は、描き手の認識によって捉え方が少し変わったりするが、基本的には描き写すということをしない絵画のことを指す。


 だが、僕は描き写す以外の方法――つまり、デッサン以外の絵を描いたことがほとんどない。

 そのせいで、僕は何を描くべきか迷っていた。何を描こうか対象を決めてしまったら、それは抽象画になり得ないのだが。

 故に、その思考を停止させるために再び脳みそをリセットして同じようなことをエンドレスで続けている。

 握った鉛筆はクロッキー帳ではなく、虚空こくうを行ったり来たりするだけだ。


「おいおーい」


 クロッキー帳を見つめるだけで何もしない僕を見かねてか、先輩が僕の肩を大きく揺さぶる。


「なーにを固まっているんだ! 描け! 描くんだよ!」

「………………」

「あ、鉛筆折れてんのか。はい、私のを貸してあげよう」

「…………」


 そう言えば、僕はずっと芯の折れた鉛筆を持っていた。……というか、問題はそこじゃないのだが。


「どーした! デッサン君!」

「あの……」

「何だ!」

「……頭で考え過ぎる僕には、やっぱり少しハードルが高いです」

「そんなこと言うな! 君ならできる! 自分を信じろ! 今日からお前は富士山だ!」

「いや……、そう言われても……」

「なんだよー……んじゃ、いーや」


 存外あっさりと、そして、つまらなそうに僕の元を去り、先輩は自分の描き途中の絵に向き直った。

 何だったんだろう、一体……。

 そんな気分屋の先輩を横目で追って、もののついでにそばの絵画を一瞥いちべつする。


 その絵は何かに例えるのが困難であったため、恐らく先輩の好きな抽象画というやつなのだろう。

 それは、紫の宇宙空間のようなものを背景に、白と赤の十字が浮遊しているかのような絵だった。

 僕はその絵を見て、意味のない疑問符しか頭に浮かばなかった。

 しかし、絵画の本質というのは、ああいう絵にこそあるのかもしれない、と不意に思った。


「………………」


 仮に、僕が思うがまま、滅茶苦茶に抽象画を描いたとしたら、先輩は何を言うだろうか。


 凄い?


 面白い?


 それとも……変?


 真実は、空想してるだけじゃ分かるはずもないけど。

 実は、抽象画ではないのだが、ちょっと描いてみようかなと思ったものがあった。でも止めた。

 何故かは…………、分からない。何故だろう。

 僕は頭を振り、クロッキー帳をめくって、描き途中のデッサンを呼び戻した。

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