Episodes[6] // わたしは、していません


 技術復興省ハリマ庁舎――その玄関の扉を開くと、冷気が足下を通り過ぎた。まるで真冬の浴室のようだった。

 庁舎内には空調の風音が低く響いている。事件の日からずっとこのままなのだろう。ホシがタブレット端末を操作すると、空調は静まり、旧式の蛍光灯がカンカランと音を立てて点灯した。


 職員食堂を尻目に、史料分析室へと向かう。黄ばんだ壁に、泥汚れがこびりついた階段。カビの臭いが鼻を突いた。薄暗い廊下を進んでゆく。


 背筋が寒い。これは気温のせいだけではないように思えた。忠志は、可聴域を下回る約十九ヘルツの低音によって幻覚を見ることがあるという論文[Tandy 1998]を読んだことがあった。願わくは、そんな超低周波音のせいであってほしい。オカルト的な何かではなく。


 ただ、一・四五メートル後方から規則正しいテンポで響く足音が心強かった。ホシのオックスフォードシューズが奏でる、ややくぐもった足音だ。時々キュッと擦れる音がするのは、恐らく靴底がスニーカーに似た柔らかい素材だからなのだろう。警護任務に適した設計の靴というわけだ。一方で、ミドルヒールの乾いた足音は、テンポを乱しながら接近したり、離れたりしていた。アカネである。よほどこちらの方が恐怖を煽られる。


 しばらく歩いたところで、『史料分析室』のプレートが目に入った。文字の塗料がひび割れ、少し剥がれている。日焼けに黄ばんだ年代物だ。


 この扉の先ががすべての始まりだ。ホシが扉を開き、中に誰もいないことを確認した後、忠志は大きく息を吸って、足を踏み入れた。


 そこは、ちょうど高校の四十人用の教室を二つつなげたような広さだった。事務机やソファーがあり、ミーティングスペースもある。NebulAIプロジェクトの研究室もちょうどこんな感じであった。


 しかし、事務机の上には何も――端末どころかティーカップさえも――残されていなかった。まるで夜逃げでもしたかのような有様である。


 忠志はホシに言った。


「証拠品は……押収された後ですかね」

「はい。データをお探しなら捜査資料にあるはずです」


 ホシはタブレット端末に視線を落とす。しばらくして、端末を操作する手が止まった。彼女は小さく口を開いたまま、言葉を失っていた。


「何かありましたか?」

「データは破壊されていて復元できなかったとあります」

「証拠隠滅? 誰が」


 しかし、アカネは驚いた表情で、首を横に振った。

「……わたしは、していません」


 もちろん、嘘をついているとも考えられる。しかし、理不尽なまでに非を認めている彼女が、証拠品を破壊するだろうか。


「少なくとも、このパンデミックには、故意犯がいるということになる……。ホシ少佐、時空複製器で過去から証拠品を複製できませんか?」

「残念ながら、それができるのは約百年後です。あまりに近い過去には……例えるならレンズの焦点を合わせられないのです」

「マクロレンズで接写はできない?」

「あくまでもレンズは例えです。でも、出土品なら可能かもしれません。出土した場所はわかりますか?」


 ホシの問いに、アカネは目を閉じて必死に記憶を辿っているようだった。しかし、十秒後には諦めた表情でホシに答えた。


「……わかりません。わたしはデータ分析専門です。でも、史料データベースにあるはずです」


 ホシはタブレット端末で情報を検索する。


「いえ、該当する出土品が記録されていません」

「そんなデータまで破壊を?」

 

 忠志の問いに、ホシは首を横に振る。


「その可能性は低いでしょう。事件当日までの日次バックアップには電子署名とタイムスタンプが付与されています。捏造があれば分かるはずです。最初から記録されていなかったと見るべきでしょう。とすれば――」


 ホシは顎に手を当てたまま黙り込んだ。

 忠志も思考を巡らす。もし真犯人がいるとすれば、それはアカネを犯人に仕立て上げるために不都合だったから破壊したということになる。


「もしかすると、技術復興省や警察の内部に、真犯人か、その協力者あたりがいるんじゃないですか」


 ホシの口元が少し歪む。

「ちょうどその可能性に思い当たったところです。もしそうであれば、許されざることです。けれども動機が分かりません。証拠を見つけるのも困難でしょう」

「いや、もう一つデータが記録されているはずですよ」


 忠志がそう言うと、ホシはハッとして忠志を見た。


「ツバメさん」


 忠志とホシはほぼ同時にそう言った。

 ホシは直ちに区民病院に連絡し、ツバメの移送を依頼した。


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