第1章 あの場所へ ⑦10年前の孤独

 車内を重苦しい沈黙が覆う。

 美咲の目にはうっすらと涙が浮かび、ハンカチで口を覆っている。車を止めてなぐさめたほうがいいのかな、と思ったけど、今は自分の感情をセーブするのでいっぱいいっぱいだ。

 あの頃のオレ。東京に行って、一人で泣いていたオレ。

 もしタイムスリップできるのなら、10年前に戻って、あの頃のオレに言ってあげたい。

 お前は一人じゃないからな、って。

 今はつらくても、将来、自分を愛してくれる人と巡り会って、幸せになれるからな。それまでの辛抱だよ。

 そう言って、抱きしめてやりたい。

 一人で、膝を抱えて涙を流していたオレを。


  伯父さんの家では、戸惑うことばかりだった。オレが知っている普通の家族とは、まったく違う一家だったんだ。

 伯父さんは家にめったに帰って来ないし、伯母さんは家事をまったくやらなかった。

 伯母さんが掃除をしている姿を見たことはないし、洗濯もしないし、料理も作らない。毎日、お手伝いさんが来てやっていた。

 でも、伯母さんは働いていたわけじゃない。専業主婦なんだ。

 家にいるときは食い入るように携帯の画面を見つめてメールを打っているか、テレビを観ているかの、どっちかだった。あ、後、鏡の前に座って、ずっと顔をいじっていたなあ。夜遅くまで帰って来ないこともざらだった。

 お手伝いさんは、牧子さんという名前だった。

 牧子さんはオレのばあちゃんぐらいの歳だった。オレのことを聞いていたようで、学校から帰ると「お腹すいてる?」「お菓子食べる?」「テレビ見る?」とよくかまってくれた。

 伯母さんは、年上の牧子さんに完全に命令口調だったけど、牧子さんは笑顔で受け答えていた。ホント、今思い出しても、牧子さんはすごかったと思う。今でも、オレが尊敬する大人の一人だ。

 牧子さんのおかげで、オレは随分救われた。ただ、体の調子が悪くなったとかで、オレが来て3ヶ月ほどで辞めてしまったんだ。

 辞めるとき、「この家は変わってるでしょ。つらくなったら、いつでも連絡をちょうだいね」と涙を浮かべて頭をなでてくれた。その後も何度か牧子さん家に遊びに行ったけど、オレが中学を卒業するころに亡くなってしまった。


 牧子さんの「この家は変わってる」という言葉は、ホントにその通りだった。

 伯父さんと伯母さんが話している姿を、ほとんど見たことはない。

 オレの存在だけを無視しているのではなく、この家では互いに存在を無視しているかのようだった。

 大樹兄ちゃんと会ったのは、東京に来て一週間ぐらい経ってからだった。その間、大樹兄ちゃんは部屋から一歩も出て来なかったのだ。

 オレが到着した日も、部屋にこもりきり。部屋の前を通るときに、「ここは大樹がいるから、絶対に開けないで」と伯母さんに言われただけだ。

 ある朝、部屋から出ると大樹兄ちゃんが隣の部屋からのそりと出てきた。

 いつ切ったのか分からない、肩まで伸びた長い髪はボサボサだった。目は虚ろで、焦点が合ってない。顔中ニキビだらけで、顔色はやけに青白い。すりきれたジャージからはお腹がたぷんとはみ出している。

 伯父さんと伯母さんは美男美女のカップルなので、大樹兄ちゃんの第一印象は、衝撃的でもあった。

「あ、おは、おはようございます……」

 戸惑いながらも挨拶したけど、大樹兄ちゃんはオレのほうをチラリとも見ようとしなかった。重い体を引きずるように、ノタノタとトイレに入った。

 大樹兄ちゃんが引きこもっていると知ったのは、その後だった。近所のおばさんから「あそこの息子さん、ずっと引きこもってるんでしょ? もう会った?」と聞かれたんだ。それまで、「病気なのかな?」と思っていた。

 伯父さんも伯母さんも、大樹兄ちゃんのことは何も話さなかった。何か聞ける雰囲気じゃなかったし。

 近所のおばさん情報によると、大樹兄ちゃんは小学生のときから家庭教師をつけてみっちり勉強し、近所でも評判なほど頭がよかったらしい。中学から私立の名門校に通い、将来は東大に入って官僚か大臣か、とまで言われていた。

 だけど、おばさん曰く、「勉強のしすぎで心が折れちゃったのね」。いつからか、ぷっつりと姿を見せなくなってしまったそうだ。

 そんな話、父ちゃんから聞いたことはなかった。知っていてもオレ達には話さなかったのか、それとも伯父さんが隠していたのか……たぶん、隠していたんだろう。

 オレは、東京に来てから、よく夜中に一人で泣いた。

 オレは、避難所にいるときよりも孤独だった。

 無性に仙台に帰りたかった。

 高田のおじさんや卓也たちとあのまま一緒に暮らせたら、どんなに幸せだったろう。

 帰りたい。仙台に帰りたい。

 でも、高田のおじさんたちには言えない。いつでも帰って来いって言われたけど、言えない。

 おじさんたちも家がないし、それに、おじさんは仕事も失くして大変なんだ。それに較べたら、オレはずっと幸せなんだ。住む家があるだけ、幸せなんだ。

 そう言い聞かせても、涙は止まらなかった。

 たった一枚の家族写真を見ながら、泣いた。

 それはオレの入学式のときの写真だ。

 珍しくスーツを着ている父ちゃんと、花柄のワンピースを着ている母ちゃんと、真新しいランドセルを背負った誇らしげな顔のオレと、母ちゃんの腕の中で大きな瞳を見開いている真吾。写真屋さんでちゃんと撮ってもらった写真だった。

 神様、ほかには何もいらないから、あのころに戻してください。

 目が覚めたら、父ちゃんと母ちゃんと、真吾がいる家に、オレを戻してください。

 何度も、何度も。幾晩も、幾晩も。オレはそう祈った。

 でも、それは叶わぬ夢だとも分かっていた。

 翌朝、泣き腫らした目で起きても、もちろん、誰も何も言わない。それどころか、オレの目が腫れてるのにも気づいてなかっただろう。

 

 あれが試練なのだとしたら、なんでオレだけ、あんな試練を受けなきゃいけなかったんだろう。

 オレたちは何も話せなくなっていた。

 ここに来れば、そうなるって分かってた。

 それでも、来なくちゃいけなかったんだ。この10年間に区切りをつけるために。

 どこまでも続く更地を抜けると、浜辺に突き当たった。

 灰色の空の下、鈍く淀んでいる海原。

 10年前の3月11日、狂ったように街を襲った海が、今は何事もなかったかのように凪いでいる。


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