#2

 専業主婦だが、婚外に恋人のいるさほ子に恋をしていた。その気持ちは、冗談半分に何度も伝えてあった。

 さほ子はその気持ちを知りながら、けれど紳士然として不快なモーションをかけてこない博人に好意を持っていた。

 博人は何度もさほ子を食事に誘った。

 さほ子の都合が合えば、彼女は家を出てきた。とはいえ、二人の幼い子どもを抱えるさほ子が自由になる時間は思いのほか少ない。それにその貴重な自由時間さえも、恋人のためにキープされることが大半で、博人にまでそれが回ってくることは極めて貴重だといわざるを得ない。

 しかもさほ子には、博人以外にも何人か、親しく食事をする仲の男性がいる。もちろん同性の友人たちとも会うことがある。つまり、好意を持たれている博人にとって、今夜の食事はとても貴重なタイミングだったのだ。

 軽い地震のせいで、このビルのエレベーターシステムが停止してしまうまでは。


 上層階の、高級すぎないフレンチで、ふたりで楽しくワインを開け、カジュアルなコース料理を食べた。

 会話は弾み、さほ子の心が開くのを、博人は好ましく感じた。

 このディナーでさほ子との関係が決定的に変化する(例えばさほ子と寝る、というようなこと)が起こるとは、さすがの博人も考えてはいないけれど、もちろん心のどこかでそういった期待がなかったといえば嘘になる。

 しかしフレッシュな2015年の白ワインを飲みながら、さほ子の話す四方山話に、博人は夢中になった。

 最初の結婚のこと。そしていまのずいぶん年上の夫のこと。お料理教室での出来事や、子どもの教育の話。得意な味噌汁の話。博人はそのどれもに深く興味を覚え、上手にさほ子をうながした。博人には全く自覚はなかったが、適切な質問をし、余計な私見を挟まず、さほ子の喋りたいように、のびのびと自由に話をさせた。

 さほ子はその、いまの自分の気分にピタリと合致する聞き手を得て、さまざまな話をおおらかに繰り広げていった。


 最後のプリンでコースが終わり、自然に店を出ようという雰囲気になった時、ゆらりゆらりと地面が揺れた。

 恐らく、ほんのわずかの振幅幅だろう。床が、極めてゆっくりと、動いた。普段、一ミリたりとも動くことなどありえない床が。

 店中の女性たちがちいさく悲鳴を上げた。

 しかし、さほ子はさほど驚愕の表情を浮かべなかった。ふたりで一本開けた2015年・白が、彼女から警戒心を解いていた。ゆっくりと、二三度わずかに揺れている間、さほ子の手はテーブルの上にあった博人の手に重ねあわされた。三八階でのゆったりとした揺れの間、博人は自分の手の甲に、さほ子の体温を感じ続けた。

 そして揺れが収まると、彼はその手を裏返し、自分の手のひらで、さほ子の手を受け止めた。親指を彼女の手の中心にもぐりこませ、指の腹でそっと、彼女の手を味わった。

 このまま大地震が来て、自分達はここで死ぬかもしれない、と確かに思った。

 思いながらしかし、恋焦がれた人の肌に触れているという甘美な熱に、博人は酔った。酒よりも強く、酔った。

 さほ子はその指を、なすがままにさせた。その瞬間、確かに彼女は心を許し、博人はそのスリットに心の半身を、滑り込ませることに成功した。

 もしもう一度、地震が床を揺らしたならば、恐らく博人はさほ子の気まぐれな心を掴み、そのまま先まで突き進んだであろう。もしもう一度、地震がこの高層階のレストランをかすかにでも揺らしたのなら、ここから続くいくつかの出来事は起こらずに、さほ子も博人も傷つかずに済んだだろう。

 しかし地震は、一度の揺れで収まってしまった。

 ただひとつ、数時間にわたって、エレベーターを非常停止させる、という置き土産を残したまま。


 というわけで、甘美な時間は朝露のように蒸発し、さほ子が手洗いに行ったあいだに博人が勘定をすると、地上へ下りるという現実的なミッションが、ふたりの前に横たわることとなった。

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