141-150


141


この氷河を渡るには、と先生は始められる。この氷河を渡るには、号砲を、逃さぬことが肝心です。緩んだ氷が互いを砕く、その音が春の号砲です。私達は流れる氷に乗って、次の氷河へと渡ります。移動こそが私達の約束、子どもらよどうかお元気で。轟音、巨大な氷が青天を割る。錨を上げる船のように。



142


#キッチンはいつも2013年だ。2013年の、たぶん11月、雨戸を閉めないカーテンが薄明かりを孕む中、私の2013年はこのように存在する。つまり、私は棚からグラスを出して、2013年の水を注いで飲む、2016年に死ぬ犬が私に気づいて起き出して、首輪の音を鳴らして歩き、私の足に尾を絡める、というように。



143


朝目覚めると部屋の中に鹿がいた。昨日酔っぱらって鹿をペットにしたのかと記憶を手繰り寄せたが、そんな覚えはない。鹿は黒く濡れた瞳で俺を一瞥し、昨夜脱ぎ捨て床に放ってあったシャツをこれまた濡れた鼻で嗅ぐ。二日酔いのダメ学生の部屋には場違いな気品をまきちらし、鹿は優雅に頭を擡げている。


※「朝目覚めると部屋の中に鹿がいた。昨日酔っぱらって鹿をペットにしたのかと記憶を手繰り寄せたが、そんな覚えはない。」の書き出しをお題としていただきました。



144


鳥打ちは目を悪くしたので、もうほとんど鳥を打つことはないのだが、草はらに、未だ打筒を携え出る。日毎渡りあい、その肉を市で米にかえ、鳥打ちを永らえさせてきた米鳥を、今一度両の眼で見る。米鳥が空に湧き上がり、若い鳥打ち等がそれを打つ。鳥打ちの黒眼には雲が降り、白く静かに煙っている。



145


女たちがふるいしきたりにしたがって投網を編むあいだ、男たちはふるいしきたりにしたがって舟を漕ぐ。かれらの頭上に死んでは生まれるふるいふるいかもめらのむれ。



146


鈴には、ころがる音がまとわりついており、それが夥しい数のものごとからおまえを遠ざけてくれる。たとえば濡れて無遠慮な手から、洞のように底のない欠伸から、我が物顔でおまえの内に満ち、引く、潮としての月のものから。



147


わたしが砂金を砕いています、と菓子職人が胸を張る。わたしが砂金を砕き、この甘い雪の上にまいています。わたしが雪を降らせています、と次の菓子職人が胸を張る。わたしが雪を降らせ、卵と乳色の土をおおっています。わたしが土をたがやしています、とまた次の菓子職人が、もの思いに耽る王さまに。



148


王さまの葬列には古今東西生者も死者も、海を越え空を渡り陸を歩いてやってきた。王さまは死ぬ前に黄色い花を所望したから、みんな黄色い花を手に持っていた。世界中の黄色い花が王さまのひつぎに満たされてこぼれていった。明るいのも、暗いのも、薄いのも、濃いのも、大輪のも、そうでないのも。



149


私たちは息急き切って母親から逃亡した、あたたかく広いあの胸がいまはおそろしいのだ、いつかわかる、いつかわかるという母語が私の背中を追いかけてくる。



150


ご覧、月が欠けてゆく。ほろほろ、ほろほろ。パンくずみたいに星が散る。ほろほろ、ほろほろ。おやきみ食べるのへただなあ、生地をこぼしちゃいけないったら。ほろほろ、ほろほろ。ほろほろ揺れる馬車の荷台、幌を透かして月の光が、黄色の甘いまるまんじゅうに、落ちてほろほろ萩の月。


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