Ⅳ 幻の正体

 誰かがあの長椅子に座っている。それは間違いない。

 私は胸の奥にどす黒いものが渦巻くのを感じた。


 きっとグラヴェール家の使用人の誰かが、仕事をさぼって昼寝をしているのだ。私にとってあの長椅子は聖域なのに。

 私は不埒者を追い払うべく、そっと背後から忍び寄った。


 以前は真っ白だった大理石の椅子は、海風にさらされて角が少し丸みを帯び、淡い琥珀色に染まっている。

 椅子に近付き様子を伺う。


 するとそこには見たことのない子供が一人、積み上げた十冊程の本を枕にして、すやすやと眠り込んでいた。


 年の頃は七、八才ぐらいの小柄な女の子――いや男の子だ。上質なリネンの白いシャツ、膝丈まであるズボンに、シルクの白い靴下を履いている。


 一瞬女の子かと見間違えそうになったのは、伏せた長い睫とほんのり赤い小さな唇、いつもは首の後ろで束ねているのだろう――肩甲骨を覆う程まで伸ばされた長い金髪だったからだ。


 私は暫し何の邪気も感じられない無防備な子供の寝顔を眺めていた。

 男の子にしては覇気がなく、眉が細いせいか優しい顔立ちをしている。

 誰かに似ているような気もするが、それが誰なのかすぐには顔が浮かんでこない。  


 この子供は何者なのか。使用人の子供にしては身なりが良すぎる。

 エイブリーは言わなかったが、グラヴェール屋敷には他にも客が来ているのだろうか。


 子供の素性が気になりながら、私はふと興味を惹かれた。

 子供が枕代わりにしている本が見覚えのあるものだったからだ。


『何を読んでいるんだろう』

 長椅子の前に膝をついて、私は背表紙をのぞきこんだ。



<海事法―エルシーア創世1204年度版>

<造船技術の向上・最新艦アストリッド号建造報告書>

<星座と推測航法>



「何で、こんなものを」


 私は一瞬辟易したが、すぐに本の出所の目星がついた。

 ここは代々海軍将校を排出しているグラヴェール家の屋敷だ。

 きっと現当主の書斎から持ち出してきたのだろう。


 私は思わず息をつきながら、この子供は本当にこれらを読んでいたのだろうかと訝しんだ。

 たまたま枕にするのに丁度良いからと、屋敷から運んできたにしては、この痩せぎすの細い子供の腕では重すぎて辛いはず。


 他には何を持ち出してきたのだろう。

 私はびっくり箱でも開けるように、内心どきどきしながら、残りの題名を見ていない本へと視線を転じた。


 だが子供の華奢な金髪が幾重にも覆い被さっているのでよく見えない。

 私はそれを持ち上げるため手を伸ばした。


 潮風にさらされて傷んだ自分の髪とは違い、子供特有のこしが柔らかく羽毛のように軽いその髪は、私の手の中で眩しい光を放っている。まるで硝子細工の箱の中に光そのものを閉じ込めたように。


 私はその輝きに目を止め、懐かしい想いにとらわれた。

 まるで『彼女』の金の髪のようだったから……。


「ん……」


 さざなみのように光が揺れた。

 小さな吐息と共に。


 私は思わず身を強ばらせ、手の上に載せた子供の髪が、するするとこぼれ落ちていくのも構わずに、ただその場に固まっていた。

 鮮やかな碧海色をした二つの双眸が、金色の睫の下からのぞいていたのだ。


 それは一瞬焦点が合わないように何度かまばたきを繰り返した後、長椅子の前に膝をついている私の顔をとらえた途端、子供とは思えないくらいの鋭い光を帯びた。ゆっくりと、ほのかな紅色をした唇が言葉を紡ぐ。


「あなたは、誰?」


 枕にしていた本の上に右手を載せ、子供は見知らぬ顔に驚いたのか、慌てて上半身を起こそうとした。


 その時、重ねていた本がぐらりと不安げに揺れた。長椅子には肘置きがついていない。本は子供が右手を載せた勢いに任せ、そのまま前方へ崩れ落ちていく。その小柄な体ごと……。


「――っ!」


 本が芝生の地面めがけ落ちた。

 その質量の重さからくる振動を感じながら、私は右手を伸ばし、頭から芝生へ転落しかけた子供の体を夢中で捕まえた。


「おい、大丈夫か?」


 思わず芝生に尻餅をつき、胸の中に抱きとめた子供に向かって呼び掛ける。

 子供は突然の出来事に驚いてしまったのか、一言も声をあげず、ただただ小柄な体を縮こませ、私の体にしがみついていた。白いリネンのシャツにベストを着た双肩が、動揺の激しさを表すように上下に大きく動いている。


「本を枕などにしているからこうなるんだ。それより、怪我はないか?」


 芝生に腰を下ろしたまま、私は仕方なく子供の頭をそっとなでた。

 そうしていると、荒い呼吸をしていた子供の肩がそれほど大きく上下しなくなり、しがみついていたその指から、ゆるゆると力が抜けていった。


「……もう、大丈夫です。はなして、下さい」


 ささやくようなソプラノの声。少しそれは小さかったが、年の割にはしっかりとした口調だった。


「あ、すまないな」


 私は子供の頭をなでるのをやめ、ようやく顔を上げてじっとこちらを見つめるその視線を受け止めた。


「あっ……」


 今度は私が驚きの声を上げた。

 そこには忘れることがない、彼女の碧海色の瞳があったからだ。


 やはり見間違いではなかった。

 それでは、この子供は――。


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