【23】揺れる心

 医務室で一夜を明かしたリュイーシャとリオーネは、朝食を持ってきた二等士官ハーヴェイに、少しの時間でいいから甲板に出ても良いか許可を求めた。

 我慢できないことはないが、やはり船底に近いこの部屋は暗く、木が腐ったような垢水の臭いも強く、閉塞感が否めない。


「やくそく、してたの覚えてる?」


 リオーネの問いに若き士官ハーヴェイはこっくりとうなずいた。


「あ、もちろん。覚えてますよ。じゃ、これから一緒に甲板まであがりましょうか」


 ハーヴェイはリオーネに微笑んだあと、リュイーシャに向かって機嫌を伺うように口を開いた。


「外はとても良い天気ですよ。リュイーシャさん。太陽の光はあたたかく、雲一つない真っ青な空で、果てしなく水平線が広がってます」

「……じゃあ、アノリア港が近付いたら、すぐにわかりますね」


 リュイーシャは感情のこもらない声でつぶやいた。

 青緑色をした碧海の瞳を憂いの影で曇らせながら。


「姉様……」


 覇気のないリュイーシャの様子をみて何か感じたのか、リオーネのまっすぐな新緑の瞳も曇る。

 

 このままアドビスの船に乗って彼の故郷へ向かうのか。

 それともアノリア港で降りるのか。

 あるいはクレスタへ戻るのか。

 リュイーシャはもう心を決めていた。

 ただし、それをアドビスはきっと認めないだろう。

 だから気持ちが上向かないのだ。

 

 リュイーシャは上半身を吊り寝台から起こしたまま、虚空を見つめ嘆息した。そんなリュイーシャの様子を見て、リオーネがおずおずと口を開く。


「その港で降りるの? 私達?」

「え、ええっ!? アノリアで降りるんですかーー?」


 ハーヴェイが驚いて声を上げた。

 リュイーシャは無言でリオーネを睨んだ。

 妹にはまだアノリア港で船をおりるとは言ってない。

 それなのにリオーネは何故それを知っているのか。

 リュイーシャは頬が上気するのをおぼえた。

 アドビスとの話が聞こえたのなら仕方ない。けれど、もし、あの時の語らいをみられてしまっていたのなら。

 リュイーシャは何故か恥ずかしさではなく、みじめな気持ちになって口をすぼめた。


「リオーネ。私は港で降りる、とは言ってないわよ」


 リュイーシャの険悪な様子を悟ったのか、リオーネが目を見開きながら大きく何度もうなずいた。


「そ、そうだったね、姉様! ハーヴェイさん、どうしたの? なんか変な顔~」

「え、ええっ?」


 突然リオーネに振られてハーヴェイが面喰らった。声が裏返っている。


「い、いや。あ、あの……リュイーシャさん?」

「はい」


 リュイーシャはすでに険悪な表情を消し去っていた。

 今は可憐な白百合を思わせる笑みをその顔に浮かべている。


「本当に、アノリアで船を降りてしまうのですか?」

「まあ。ハーヴェイさんったら。リオーネと一緒でせっかちさんね」

「はあ……?」


 リュイーシャは吊り寝台から白い素足を床に滑らせた。

 右手を出してリオーネと手を繋ぐ。

 肩に滑り落ちてきた長い月影色の髪を梳き、動揺するハーヴェイにリュイーシャは意味ありげな眼差しを向けた。


「私達は生まれ故郷の島から一歩も外へ出たことがありません。ましてそれが異国の港なら……一目見てみたいと思うじゃないですか?」




 アノリア港に着くまであと二日。

 いや、夜が明けたから、あと一日と数時間――。



 リュイーシャとリオーネは上甲板に行くため、ハーヴェイに連れられて医務室を出た。

 そして薄暗い通路を船尾方向へと進み、太いミズンマストが柱のように立っているそばの階段へと歩いていった。

 この階段を第三甲板、第二甲板、上甲板と、三つの甲板を通り抜けながら上に上がっていく。


 基本的に船内は窓がなく、ぽつりぽつりと壁に吊り下げられたランプの光のみが唯一の明かりだ。そして第三甲板と第二甲板は黒光りする大砲がずらりと並んでおり、その上に白いハンモックが隙間なく吊られていた。


「たくさんの、人がいるのね」


 リオーネが人の気配に気付いてハーヴェイの濃紺の軍服の裾を掴む。

 五十組ほど吊られたハンモックからは、このフォルセティ号を動かすために乗っている水兵達が眠っていた。


「非番の連中です。もう少ししたら、彼等は起きて今の当直と交代します」


 ハーヴェイは平然とした口調でリオーネに語りかけ、まもなく外に出られますからと言って階段を昇っていった。




「おいみろよ。あの姉妹だぜ」


 甲板に座り、傷んだロープの組み継ぎをしていた水兵の一人が声を漏らした。船の丁度中ほどにあるメインマスト前の甲板で、彼等は仲のよい者同士、四、五人の円陣を作って作業している。


「海神みたいだった姉の方、目が覚めたんだな」


 古くなったロープをほぐしていた水兵の一人が、作業の手を止めて船尾の方へ顔を向けた。その声をきいて他の水兵達も顔をあげる。

 ミズンマストの前にある昇降口から、士官ハーヴェイに連れられて、あのリュニス人の姉妹が姿を現わした。


 ハーヴェイのひょろっとした背中の後ろで、姉リュイーシャの長い金の髪がなびいている。正午を過ぎた日の光を受けて、それは金色のリボンのように空を舞っていた。その隣には無邪気な笑みを浮かべ、あたりをきょろきょろと見回している可愛らしい妹が立っている。


 水兵達の脳裏に昨朝、海の上に立つリュイーシャの姿が浮かび上がった。

 あの時の彼女は海神「青の女王」のように静謐な表情で、近寄り難い神々しい気配に満ちていた。

 けれどハーヴェイに連れられて、船尾楼へ上がるその横顔は、十代の少女らしい清楚な花を思わせた。


「けっ。ハーヴェイの奴。あの娘と手ぇ、つなぎやがった」


 伸びた無精髭を擦って、水兵の一人が恨めしげに呟く。

 その隣にいた茶髪の水兵は、うらやましそうに溜息をもらした。


「かーっ。こういう時、士官っていうのは役得だよな~。ハーヴェイと代わりてぇ」


 水兵たちはめいめい頭を寄せ、ハーヴェイに向かって呪いの言葉を吐いた。


「突風が吹いて海へ落ちやがれ」

「そしてそのまま浮かんでくるな」

「……」


 ふとハーヴェイが頭を動かしメインマストの方を見た。

 くすんだ金髪を海風に揺らしながら、穏やかなその顔が何かを見たせいで曇る。眉間を寄せてこちらを見ている。


「やばっ!」


 水兵達はハーヴェイと目を合わせまいと一斉に下を向いた。

 士官に対する不敬行為は懲罰の対象になる。船内の規律を守るため、発覚すれば、その人間は光が射さない錨鎖庫で、両手両足を鎖で繋がれ、航海が終わるまで水しかもらうことができない。


 アドビスの船に乗る水兵たちは、いい加減海と戦いばかりの航海に飽きつつあった。半年も海賊船を追いかけ回していたので、拿捕賞金もかなり貯まっているはずだった。国に帰ったらこの金を何に使おう。めいめいそう胸算用しているので、余計に陸での生活に焦がれて始めているのだった。

 だから、ここでハーヴェイに目をつけられるわけにはいかない。


「まもなくどっかの港に寄るって話だぜ?」


 頭をつきつけ、雁首揃えた水兵達はひそひそ会話を交わす。


「上陸休暇、あるかな?」

「そりゃー、いい加減あるだろう。金鷹だって、静かな所であの娘と話したいに違いねぇぜ?」


 水兵たちは黙って両隣りの仲間の顔を見回した。


「あの娘が目を覚ましたから、艦長は医務室に降りていったらしい」

「見張りのカレンザが言ってたぜ。昨夜、医務室から出てきた艦長が、なんと、鼻歌歌って甲板を歩いてたって!」

「おおおーー!」

「海賊を捕まえてもにこりともしねえ――あの金鷹が?」

「鼻歌って、脈ありだったってことか!? なんてうらやましい……いや、恐ろしい!」


 水兵たちは震えながら、めいめい胸に祈りの印を切った。

 そしていつもの猥談になろうとした時だった。


<何をお話していらっしゃるの?>


「うわぁあ!!」


 頭を突き合わせて話をしていた水兵達は、突如響いた聞き慣れぬ異国の言葉に度胆を抜かれのけぞった。


「ああ、わわ……」


 ぱくぱくと口を開け、声にならない声で叫ぶ。


<ごめんなさい。何だかお仕事、邪魔したみたいですね>


 水兵達の前にはリオーネと手を繋いだリュイーシャが、彼等の顔をのぞきこむように立っていた。

 もちろんその後ろには、彼女を護る騎士役とでもいわんばかりに、士官ハーヴェイも立っていた。



「アーネスト、ジンはどこだ?」


 ハーヴェイは淡々とした口調で、顎に無精髭を生やした水兵に話しかけている。

 エルシーア語で。


「ハーヴェイさんってすごいね。リュニス語もエルシーア語もできちゃうんだもの」


 リオーネがリュイーシャの顔を見上げた。


「そうね」


 リュイーシャは相槌を打った。

 甲板に出た時、ハーヴェイが困ったようにメインマストの方向を見ながら言った。


「リュイーシャさん。実は、あなたが命を救って下さった水兵のジンが、是非お礼を言いたいといってるのです。連れてきますので、ここですこし待っていてくれませんか?」


 リュイーシャの目にも甲板に座り込み、大量のロープを手にして、何やら作業している多くの水兵達の姿が見えていた。

 ハーヴェイの言う通り、今日は昨夜の嵐は何だったのかと疑問に思うほど天気がいい。空は青く高く澄みきっており雲一つ浮かんでいない。


 日差しはあたたかく、むしろ、その光をずっとあびていたら額に汗が浮いてくるほどなので、作業をする水兵達の頭上には、日除けにするため白い帆布が、マストと帆桁の間に張られている。


 リュイーシャはものめずらしげにそれらを見やり、改めて黙々とロープの組み継ぎや帆の繕いをしている水兵達に視線を向けた。

 当然ながら、全員男だ。しかも二十人はいる。

 洗濯済みの白いシャツに濃紺の長ズボン、素足または短いブーツという格好。長期の航海に出ているせいか、ほとんどの者が首の後ろで伸びた髪を無造作にたばねている。彼等は作業をしながら、時々顔を見合わせて潮焼けした顔に笑みを浮かべたり、低い声で笑ったりしている。


 普通の女性なら、ましてそれが異国の人間ならば余計に、見知らぬ男の集団になんぞ近寄り難いと思うのが普通だ。

 ハーヴェイが気を遣ってくれるのも無理はない。

 彼は海軍士官であり、紳士だった。

 それらを察したうえでリュイーシャは口を開いた。


「ハーヴェイさん。私も行きます」

「えっ」


 ハーヴェイの顔が見る間に青ざめた。信じられない。

 リュイーシャを見る彼の顔にはそう書いてあった。


「しかし」


 リュイーシャは目を細め小さく頭を振った。


「私、前から船乗りさんの仕事を見てみたかったんです。こんな大きな船をどうやって動かし海原を駆けることができるんだろうって。だから、一緒に行きましょう」


 リュイーシャはそう言うと、顔を上げ、すたすたと船首方向へ――水兵達が座って作業しているメインマスト前の甲板へと歩き出した。

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