六一七年 七月某日。


 皇帝、アーシュラ=オルガ・ヴィラ・アヴァロンが出産によって死去してから、半年余りの時間が過ぎていた。

 エウロ皇帝位は、エウロ人民の代表である議会の承認によって継承される。

 生まれたばかりの皇女マーゴットがすぐに帝位を継ぐことを議会が承認しなかったため、皇帝の位は少なくとも彼女が成人するまでは空位とされ、それまでの期間は、皇太子の父であるゲオルグ・アヴァロン大公が摂政として執務を代行することと定められた。


 リゼットは、暗い天井を呆然と見つめていた。

 こんな風に真夜中に目が覚めるのは、久方ぶりのような気がする。

 主人が亡くなった直後はよく眠れず、夜中に目を覚ましてしまうようなことも、度々あった。涙が出るかな、と、思ったけれど、ここ最近はもう、はじめの頃ほどは悲しくなく、涙も出ない。

 喪失感にすら、慣れというものがあるのだろう。自分の心が、すこしずつ彼女の死を受け入れつつあるようで――あまり、嬉しい気持ちにはならなかった。

「……?」

 ふと、遠く人の声を聞いたような気がして、身を起こす。

 それはおそらく、空耳のようなものであったに違いない。部屋は静寂に包まれていた。隣で眠っているはずの先輩メイドは、今夜は確か皇女の世話のため不在だ。

 音を立てないようにベッドを抜け出す。今ので目がさえてしまったので、少し、外の空気に当たろうと思っていた。

 住み込みで働く使用人達の居住スペースは、城の地下にある。

 細い廊下や、専用の階段が縦横に走り、城内の様々な場所に移動できるようになっているのだ。そんな、昼間はがやがやと騒がしい廊下を通り抜け、リゼットは中庭へ出た。

 びゅうと鋭い音がして、回廊を吹き抜けた突風が、下ろした長い髪と寝間着を揺らす。風には、清々しい草の香りと共に、バタバタと走りまわる、剣呑な兵士の足音が混じっていた。

「衛兵……?」

 こんな時間になんだろう。先ほど何か聞こえた気がしたのは、気のせいではなかったのだろうか。見上げた上の階で、兵が走っていくのが見えた。彼らが走るなんて、普通であれば無いこと。

 つまり、何か、悪いことが起きたのだ。あの靴音が向かう先にあるのは――――

「……姫様!?」

 先にあるのは、間違いなく皇女マーゴットの居室である。それが一体何を指し示すのか。恐ろしい事実に気付き、リゼットがうわずった声を上げた瞬間、眼前の星空が一瞬闇に遮られたように暗くなった。

「えっ……」

 ざり、と、衝撃を受けた庭の土が乾いた音を立てる。夜の中でさらに深い闇を切り取ったような大きな黒い翼が、夜の空気の形に柔らかく沈む。

 リゼットの足下に、大きな鳥――ではなく、黒衣の男が舞い降りていた。

 エリンだった。

 突然のことに息をのむ少女の前に、ゆらりと、男は立ち上がる。

 金色の長い髪は夜風にほつれ、白い頬にべったりと血が付いている。それが彼自身の血か、他の誰かのものかは、一見しただけでは分からない。

 彼の腕には皇女が抱かれていた。顔は見えないが、赤子はピクリとも動かない。

「エリン様……姫様は……!」

「……ご無事です」

 動転したリゼットにエリンが告げる。

「よ……よかった……」

 膝の力が抜けて、リゼットは思わずその場にしゃがみ込む。

 まだ生まれてたった半年のマーゴットが命を落としかけたのは、今夜で三度目である。一度目は病気のように見え、二度目は事故だと思われた。けれど、これは。

 エリンは傷ついているわけではないように見えたから、彼が浴びた血は誰か、おそらくは……皇女を害そうとした者のものなのだろう。


 マーゴットの曾祖父にあたる、先々代のアドルフが城内で殺害された事件は、未だ記憶に新しい。幼い皇女の安全のために、執事である父クヴェンが、どんなに心を砕いて信頼の置ける使用人を選んできたかはよく知っている。

 それなのに、とうとう、城内で再び血が流されてしまったのだ。

「……あなたを、探そうと思っていました」

 いつも飄々としているエリンらしくない、どことなく緊張した声が落ちてきて、リゼットは顔を上げる。

「私を……?」

 違和感のある台詞だった。彼が自分に関わりを持つ理由は無いはずだ。少女がそう思った刹那、パッと回廊の照明が灯された。

 エリンの、返り血を浴びた美しい顔に、思い詰めた表情が浮かんでいる。

「リゼット・パーカー、あなたに訊ねたい」

 低く澄んだ声が、自分の名前を呼ぶのが、なんだか不思議だ。

「この姫のために、不幸になっても構わないか?」

 にわかに騒ぎは広がり、上の階には使用人達も集まりはじめているようだった。

 言われた言葉の意味がわからず、リゼットは目を丸くして彼を見つめる。

「不幸……ですか?」

 何のことを言っているのだろう。

「頼みたいことがあります」

 少女の問いには答えず、エリンは少し俯いたまま口を開いた。彼の目の先には、自らの身に起きた出来事を未だ知らない、小さな姫が眠っている。

「この方を守る剣が要る」

 集まった衛兵や使用人達の剣呑な声が遠く耳をかすめた。暗い中庭からは、灯りのともった回廊はまるで闇に浮かんでいるように見える。

「私が、皇女殿下の剣を育てます」

 青年はゆっくりと顔を上げてリゼットをまっすぐに見つめ、そして、告げたのだった。

「あなたに、その運命を背負う子を……この方の弟を、産んで頂きたい」


 あまりに唐突で、あまりに残酷で、そして、あまりに甘美な頼み。

 皇女の弟、つまり、あの方の……ゲオルグ・アヴァロンの子。

 彼は今は少女の主人であり――そして、彼がその名で呼ばれるようになるよりも前からの、長い横恋慕の相手だった。

 リゼットは、突然の嵐のような申し出に、息が詰まるような目眩を覚え――その時は、何も答えることができなかったのだった。






 恋情というものは、全く融通のきかない代物である。

 少女が知った初めての恋は、哀れなことに、叶わないどころか、その想いを口にすることすら憚られるものであった。

 それが恋だと気付いたときには、彼はもう、当時はまだ皇女であった彼女の主人アーシュラの恋人になっていたのだ。だから、リゼットには、はじめからどうすることも出来なかったのだ。

 もちろん、早く忘れようとはした。

 仲睦まじい二人の姿を目にすることを辛いと思ってしまうこともあったし、自分の忠義心には誇りをもっていたから、そんな自分は許せなかった。

 なにしろ、ゲオルグが現れるまで、少女が世界で一番好きな人は、他ならぬ主人アーシュラだったのだ。彼女の幸せは、少女の心からの望みだった。

 だが、そんな少女の矜持をあざ笑うかのように、恋心はリゼットを翻弄した。背筋のぴんとした、背の高い彼の後ろ姿を見かけるだけで心が浮き立ち、わけもなく嬉しくなったり、悲しくなったり。そしてそんな自分を自覚する度、酷い自己嫌悪に苛まれるのだ。

 やがてゲオルグとアーシュラが婚約し、彼がアヴァロン城に居室を与えられるようになった頃には、リゼットは、可能な限りゲオルグを避けることで、心の平安を手に入れていた。アヴァロン城は広く、自分の仕事場はゲオルグの居住区からは遠い。このまま、彼のことを考えないですむ時間が続けば、きっとあの罪深い恋心から解放されるに違いない。

 ずっと、そんな風に考えていたのだ。


 あの夜皇女の暗殺未遂があったことは、一夜にして城内を駆け巡り、翌朝には既に、知らない者はいないような状況になっていた。

 何でも、養育係の女が皇女を連れ出して、庭へ投げ落とそうとしたらしい。すんでのところで阻止されていなければ、いたいけなマーゴットは今ごろ骸になっていたことだろう。

 しかし、幸いにも、女の企みは阻止された。エリンによってその場で殺されたというそのメイドが誰なのか、使用人達に伝えられることは無かったが、共に暮らし、働いている者達同士の間で、それが分からない筈はない。

 犯人の女は子育て経験のある真面目なメイドで、とてもそのような凶行に走るような風には見えないと、誰もが驚く人物であった。

 女が、皇女に敵対する勢力――おそらくは、城を追われた彼女の叔父を支持する勢力である――と、どのような繋がりを持っていたのか、使用人達を指揮・監督すべき立場にあるクヴェンは必死に調べたが、情報はろくにつかめなかった。

 事件以後、城内は噂で持ちきりであったが、対外的には厳しく箝口令が敷かれ、皇女の身辺にはびこる争いの影が、アヴァロンの外に知られることは無かった。


 主人アーシュラが踏むことの無くなった廊下を磨き、窓を開けて空気を入れ換える。仕事場が静かで孤独なのが、今は有り難かった。不穏な空気に包まれる城内で、しかしリゼットは、他の皆とはまた別の混乱の中にいたからだ。

「はぁ……」

 誰も聞いていないのをいいことに、盛大にため息を漏らす。

 あの夜、エリンに言われた言葉が離れなかった。

 彼は決して、冗談を言うようなタイプではない。だったらそれは――つまり……ゲオルグもあの話を了承しているということなのだろうか?

 そんなことはあり得ない、と思う。けれど、ゲオルグにそれを直接確認するような勇気はなかった。

「新しい、剣……」

 呆然と呟いた言葉が、無人の廊下にむなしく響いた。

 子育ての経験が無いリゼットには、皇女の世話はまだ任せてはもらえない。世話をすべき皇族が減ったアヴァロン城では、使用人の仕事も減少傾向にあった。だから、近頃は時間を持て余すことが増えていた。

 そんなある日の、午後のことであった。


「お父様、何かお困りごとでしょうか?」

 クヴェンの仕事部屋で、深刻な顔で給仕用のトレイを見つめる父の姿を見つけたリゼットは、何の気無しに声をかけた。

 血のつながった親子であるクヴェンとリゼットは、家族としては暮らしてはいない。けれど、この部屋に二人で居るときだけはお互いを親と子として時を過ごすことを許されていた。

だから、時間のあるときは、少女はこの部屋を訪ねていた。のんびりと父の入れた茶を飲んでいるようなこともあったし、仕事を手伝うこともあった。

「リゼット、丁度良いところに」

 娘の言葉に、困り果てていた様子のクヴェンは、何となくホッとしたようにリゼットを呼び寄せた。父の手にあったのは、おそらく今下げてきたばかりのティーセット。トレイには、飲み残されたらしい薬が置かれてあった。

「これは?」

「大公殿下が、ここ数日体調を崩されているのだ」

「えっ!?」

 思わず声を上げる娘に、クヴェンは深くため息をつく。

「はじめの頃はきちんと薬を召し上がってくださったのに、昨日からひとつも飲まれていない」

 亡き妻にかわり、突然摂政としての務めを果たすことになったゲオルグが、慣れない執務に日々追われていることは知っていた。その上、先日の事件のこともある。

「お加減……だいぶお悪いのですか?」

 やはり、心配だった。

「随分熱心に励まれていたから、お疲れが出ただけだとは思うのだが……」

「どうして薬を飲まれないのでしょうか?」

「薬を飲んで眠ると、必ず悪夢を見るのだと仰せなのだ」

「夢?」

「陛下の夢をご覧になるらしい」

 アーシュラの名前が出たことに、ギクリとして手が止まる。

 やはり、あの日エリンが言った言葉は、ゲオルグが関与している話ではなかったのだろう。

 ホッとしたような、どこか寂しいような。

 だけど――それならば。

「お気持ちはわからなくもないが……今は、体を治して頂かないと……」

 途方に暮れるクヴェンの手から、リゼットは薬と水の載ったプレートをやんわりと奪った。

「私が行って、飲んで頂いて参ります」

「お前が?」

「お父様は真面目だから、大公殿下にきつく仰れないでしょう?」

 病人なら、長らく側で見てきたのだ。だけど、彼女の知っている病人は、こんな風に周囲の者を困らせたりはしなかった。

「今は……我が儘の通るお立場ではないということを、分かって頂かないと!」

 ああ、懐かしい感じがする。

 リゼットは少し腹を立てていた。こんな風に、ゲオルグに怒りを覚えるなんて、いつぶりだろう。

 敬愛する主君の心を射止め、見事エウロで一番の幸せな花婿になった男なのだ。今は、愛らしい皇女殿下の父だし、アヴァロンの要でもある。

 辛い立場なのは承知している。喪も明けていないのに気の毒なことだ。だけど、しっかりしてもらわなければ困る。

 そして――多分、今のゲオルグにそれを言えるのは、自分だけだ。




「大公殿下」

 彼が居るはずの、執務室のドアをノックする。返事は無かった。

「大公殿下!」

 もう一度。やはり返答は無い。

「…………」

 ここは、ずっと近づくのを避けてきた部屋。

 けれど。

「失礼しますっ」 

 訪れた大義名分を思い出し、大きく息を吸い込んで気持ちを落ち着け――思い切って無断で部屋に足を踏み入れた。

 部屋は片付いているが、机が酷かった。つけっぱなしのホロモニタと、山のように積まれた書類。蓋が開いたままのインク瓶。あれは確か、特別な認証署名に使うためのインクのはず。あんな風に出しっぱなしでは乾いて駄目になってしまうのではないか。

 はじめて目にするゲオルグの仕事ぶりに呆れつつ目を移すと、机の脇の長いすで、丸くなって眠るゲオルグの姿があった。

「あっ……」

 ドキリと、いとも簡単に心臓が跳ねる。

 我が儘を咎めるつもりでやって来たのに。

「…………」

 だけど、今日の自分には使命があるのだ。薬を飲んでもらわなければいけないし、だいたい、具合が悪いならこんなところで眠っていたのではだめだ。

「…………大公殿下、大公殿下」

 ためらいがちに声をかけ、そっと肩を揺すってみる。

「ん……な、に……クヴェン……?」

 寝ぼけた声もやはり想い人のもので……心が動くのを我慢して、できるだけ厳しい声を出してみる。

「父が大変心配しておりました。お薬をお飲みください」

「えっ……リゼット?」

 彼女の登場が予想外だったらしい、ゲオルグは驚いて身を起こす。

「で……殿下の代わりはいらっしゃらないのですから、我が儘は仰らないでくださいまし」

「随分……久しぶりだね」

 人の話を聞いていないのか、ゲオルグは弱々しく微笑んで言った。

「……はい」

 返答に窮して、少女は小さくなって床に座る。

「元気にしていた?」

「そんな話をしに参ったのではございません」

「クヴェンに泣きつかれて、僕を怒りに来た?」

「そうです」

「そっか……」

 いかにも熱があるらしい、ぼんやりした赤い目に見つめられると、怒る気には到底なれない。立派な仕事ぶりとはいえないようだけれど、それでも、彼が今精一杯頑張っていることはよく分かる。

「……悲しい夢ばかり見るから、その薬、嫌なんだ」

 父に聞かされたのと同じ理由を、申し訳なさそうに繰り返す。

「夢で……陛下にお会いになれますか?」

「うん。とても元気でね……そういうの、一番悲しくない?」

「それは……」

 慰めの言葉は見当たらなかった。大切な人に夢でしか会えないつらさは、自分にだってわかる。眉根を寄せて瞳を揺らすリゼットをしばし見つめて、ゲオルグは嘆息する。

「あーあ、風邪で死ねたらいいのに」

「な、何をばかなこと……!!」

「会いたいんだ」

 熱に潤んだ目は、目の前のリゼットでは無くどこか遠くを見つめて、

「アーシュラに」

 やはり笑っていた。

 知っている。知っていた。こんなことで今更傷ついたりしないし、まして、死んだ人に嫉妬なんてするはずがない。

 だから今、言うべき台詞は決まっている。

「……そんなこと、冗談でも仰らないでください。大公殿下が居なくなったら、姫はどうするのです」

「マロゥ……」

 ゲオルグはぼんやりとその名を呟き、それから、のろのろと熱い息を吐いた。

「……君の言うとおりだね。ごめん」

「殿下……?」

「薬は飲むよ。マロゥをちゃんと育てないとね」

 少し気を取り直したように言って、よいしょと長椅子から立ち上がる。伸びっぱなしの乱れた髪をごそごそと結い直す後ろ姿を、何も言えずに見守った。

 ――嬉しい。こうして二人きりで話ができるのが。

 そして、そう感じてしまう罪悪感に、リゼットは恐れおののく。どうすればこの想いを消し去ってしまえるのだろう。

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