第35話

 勝利の味というのはなんと甘美なのだろうか。


 勝利を確信した増田道夫はすべての感情を塗り潰すほど強烈な多幸感に満たされているのが実感できた。


 頭がおかしい弟の同級生を上手に利用して、あいつに協力していた女を人質として連れ出し、こちらが圧倒的に有利である状況に引きずり込む――なんとエレガントなことか。このようなこと他のクズどもにはできるはずもない。そんなのは宇宙の果てまで確定した真理である。


 やはり増田は勝利の女神というやつの寵愛を受けている――いや、そもそも増田自身が勝利の神といっても過言ではない。増田は神を超えた究極の存在である。そうである以上、増田はいつどんなときだって敗北することはない。増田が敗北するなど、なにが起ころうとも絶対に起こってはならないのだ。絶対に勝利できるのはあの男などではない。この増田だ。


 いまあいつは一体どのような顔をしているのだろうか。それを考えるだけで笑いが止まらない。あれだけ増田にふざけたことを言っておきながら、無力な協力者を増田に攫われるという、この体たらくだ。なんという愚か者。クズの極み。ここまでされたのでは笑ってやらなければ失礼というものだ。


 増田は攫ってきた女に視線を向けた。


 大人しく眠っている。この女がやつのことを追っていたという話だが――ふん、たいしたことのないどこにでもいる女じゃないか。


 だが、こちらをあそこまで追ってきたというその執念だけは少しばかり評価してやらないでもない。とはいっても、増田にしてみればなんの有用性もない有象無象のクズに変わりないが。


 さて、これを見たあいつはどんな反応を見せてくれるのだろう。きっと、愚か者のクズらしい反応を見せてくれるに違いない。どうしようもないクズが圧倒的なものの前に打ちひしがれる姿はどんなものだろうか。


 価値のないクズでしかなくとも、そのときはなかなか滑稽なものを見せてくれるはずだ。死の恐怖を前にしたときとはまったく違うものを見せてくれるだろう。あの調子に乗り切った鼻づらをへし折って叩き潰せると思うと、奥底から笑いが際限なく湧き出してくる。


 しかし、少し残念なのはあの女が気を失っていることだ。


 あいつが来たときのために、あの女に対して色々とやって反応を見てやろうと思っていたのに意識を失っているのじゃ楽しめるものも楽しめない。


 なんの力もない普通の女の一人や二人を気絶させなければ連れてこれないなんてやはりやつは無能のクズだ。


 これが終わったらやつのことは真っ先に切り捨てるのが無難だな、と増田は思う。


 もとよりあんな幽霊ごとき、偉大なる支配者である増田にしてみれば敵ではない――だが、害のない羽虫に過ぎなくとも近くを下手に動き回られると目障りで鬱陶しい。それを我慢するのも限界だ。やつが増田の中から消えたら、真っ先に行うのはやつの始末をしよう。


 それがいい。


 協力をしてくれた相手に裏切られるなど、あの愚かな幽霊には考えもついていないだろう。それを知ったらどんな狼狽を見せるだろうか。少し楽しみである。そのときだけはクズ幽霊にも幾ばくか価値が見出せるだろう。


 協力をしていた相手であろうとも、邪魔ものはさっさと始末したほうがいいのはいつの時代でも明らかだ。


 すべては増田の掌の上にある。


 だが、そんなことは誰にも想像することができない。仮にできたとしても、人間というものは自分が誰かによって踊らされていることは認めたくない生き物である。


 この世すべての支配者である増田によって踊らされているのに、自分は自由であると思い込んでいる愚かな存在が人間というものだ。


 なんて度し難いのだろう。

 そのような度し難いクズに偽りであろうと自由を与えるべきではない。

 クズはクズらしく、優れた存在にすべてを管理されたほうがいいに決まっている。

 生きる価値のないクズに人権など不要なのだ。


 しかし、この世界にいるほぼすべてはそれを理解していない。だからこの世界はここまで間違ってしまったのだ。


 唯一神である増田はそれを正すのが目下の使命である。この力を使えばそれも容易い。なんといってもあらゆることを可能にする力なのだから。その力を使って、生きるべきものと死ぬべきものを選別する。当然、それは世界規模で行わなければならない。それによって多くの無駄が根こそぎにされ、あるべき姿へと戻る。その先にあるのは輝かしい理想郷だ。


 その理想郷を作り上げた増田の功績は宇宙崩壊する時の果てまであらゆる時代で語り継がれていくことだろう。


 その理想郷では増田に対する賞賛で満たされるに違いない。

 そんなもの増田には得て当然の結果だ。


 すべてを超えた圧倒的な存在である増田にしてみればその程度、地球の生物が息をするぐらい当たり前のことである。


 当たり前のものを当たり前と思ってなんの不都合があるのか。


 あるわけがない。


 そして、その理想郷でさらに偉大な存在となって増田は永遠に頂点に君臨し続けるのだ。


 それはもう決まったことである。

 なにが起ころうとも、それが変わることなどあり得ない。


 他でもない増田が決めたことである以上、それが変わっていいはずがないのだ。

 すべての頂点に立つ増田にはあらゆることが許されている。

 人を殺す権利も、人を裁く権利も――なにもかもだ。


 クズがやったら牢獄に入れられることであっても、増田がやったのならそれは罪にはならない。なるはずがない。なっていいはずがない。


 なにもかも許される究極の特権を増田は生まれながらにして持っているのだ。

 ゆえに増田は王であり神である。

 生まれた時点で増田は有象無象のクズどもとは一線を画しているわけだ。


「おい」


 増田は自分の中にいる目障りなクズ幽霊に声をかけた。


『なにかね?』

「あの女、どうするつもりなんだ?」

『どうするつもりとは……交渉が終わったあとのことかね?』

「当たり前だろ! 他になにがあるっていうんだ!」


 なんでそんなことも察することができないんだこのクズ! と喚き声をあげた。


「お前、あいつが言う通りにしたらあの女を大人しく返すつもりなのか?」

『そのつもりだが……不満かね?』


 どうしてそんなことを訊くのだと言わんばかりの声であった。

「当たり前だろ! あいつが俺にどんな無礼を働いたのか知ってるだろ! というか、どうして圧倒的に有利な立場にある俺たちが約束を守らなきゃいけないんだよ! おかしいじゃないか! 譲歩する必要なんてどこにもないだろ!」


 主導権はすべてこちらが握っている。

 その状態でわざわざ相手の約束を守ってやる必要などどこにもない。


 奴の目的が果たされたら、一方的に約束を反故にして谷底に蹴り落としたほうがどう考えても気分がいいではないか。


 ……それに。


 なにより、それくらいやらなければ、あいつから受けた増田の屈辱を晴らすことなどできるはずがない。あの男に自分に逆らったことを心底後悔させてやらなければ駄目だ。頂点に立つ存在に無礼を働いたらどうなるのか知らしめる必要がある。指先から切り刻み、あらゆる苦しみを与えて、絶望の谷底へと突き落として、物言わぬ無様な肉塊へと変えてやるのだ。


『……ふむ。私としてはあの娘を捨て置いたところで、我々がなにか損するわけでもないから大人しく解放してやろうと思っていたが――おぬしの言うこともわからんでもない。確かにいまの状況で我々に約束を守らなければならない義務はないからな。希望を持たせておいて背後から蹴り落とすというのもまた一興か』


 珍しくやつはこちらの言い分に同意していた。ここまで来てやっとこちらを察することができるようになったわけか。


『とは言うものの、私にはあの娘を殺す理由も必要もないのは事実であるが――まあとにかく、おぬしがなにかしたいというのなら、私の用件が済んでからにしてくれないかね?』

「ふん。いいだろう」


 増田は支配者らしく尊大な返事を返した。


「じゃ、お前の目的が達成されたら好きにさせてもらうぞ」

『構わぬ。おぬしがなにをしたところで私には止める理由がない。殺すなり食うなり苦しめるなり好きにするといい』


 まるで大物のような言いかたをしている。が、お前の目的が達成されたときは、同時にお前が無様に死ぬときでもあるということをまったく理解していないらしい。なんと愚かなのだろう。本当にグズだな。それを思うと、自分の奥底から湧き上がってくる笑みを堪えることができなくなる。


『……ずいぶんと楽しそうだな。なにかあったのかね?』

「当たり前だろ。せっかく楽しみが増えたんだ。笑えてもくるさ」


 さて、どうしよてやろうか。


 あいつの始末が終わったら、この幽霊をどうしてやろうかを考えておかなければなるまい。


 増田のような優れた存在は、いつだって次の一手を想定して動いているものだ。やつがあれこれとくだらない茶番をやっている間に考えておこう。


 やつらの茶番劇が終わったあと、すべての主導権を握るのは増田である。

 だが、それは最後の瞬間までやつらに悟られてはならない。

 とはいっても所詮はクズ。増田のそんな遠大な考えには至るはずもないだろうが。


 すると、三十メートルほど先にある大きな鉄の扉が開かれる音が聞こえてきた。

 扉を開いたのは呼び出したあの男。


 のこのこと一人でやってきたらしい。

 馬鹿め。


 なにをしたところであの女を助けられないという事実をまったく理解していないようだ。


『では、変わってくれるか。彼と話をしたいからな』

「いいだろう」


 やつらが繰り広げる茶番劇の結末を最後まで見てやろう――そんなことを考えながら、増田は意識だけの存在へとなった。

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