第31話

 あの不用心で頭の軽い馬鹿にちょっかいを出してから、わかばに近づいてくる者がいないことに少しだけ苛立っていた。せっかく遊んでくれるというから相手をしたというのになんと情けないことか。あの程度で阿呆みたいな悲鳴を上げて逃げ出すなんて一体どのような教育を受けていたのだろう。あまりにも辛抱がなさすぎる。これが昨今よく言われるゆとり教育の弊害というやつか?


 下手に手を出してしまったせいか、余計に気分が高揚してしまっている。まだ指先には先ほどの眼球の柔らかいような硬いような不思議な感触が残っていた。指先についた液体を舐めてみる。悪くない味だった。


 誰もいいから痛めつけてやりたい。目を潰すだけでは駄目だ。あれでは刺激が弱すぎて遊びにすらならない。あれで満足できるのならこんな高揚感には襲われていないはずだ。目を貫いたあと頭蓋を砕いてその手を脳までぶち込み、その中身を引っかき回してから握り潰して引きずり出すくらいのことをしなければこの高まりはおさまってくれないだろう。


 果たして素手でどこまでやれるだろうか。どこまでやれるのかわからないが、やれるところまでやってみたほうがいいに決まっている。


 何事も試してみるのは重要なのだ。


 自分の身体が醜悪で異臭を放つ血と肉と汚物に塗れることを考えるだけで気分が果てしなく高まっていく。このまま昂揚していくと、慎重にやることすら忘れてしまいそうだ。街にいる誰かを片っ端から殺し回るというようなエレガントさに欠けることをしてしまうかもしれない。それもそれで悪くないかもしれない――が、どうせならば長く楽しみたいところである。ならば慎重さだけは捨てるわけにはいかない。


 それになにより、素手ならば血や肉や臓物の温かさに直接触れられる。道具があればできることの幅は広がるのは確かだが、素手で直接潰したり千切ったりする感触というのは道具を使ったのではなかなか得られない。一度だけでも味わうべきものだろう。


 そんなことをするならば誰がいいだろう。

 街にいる無警戒極まりない者どもを眺めながらわかばは考える。


 わかばは痛めつけたり殺したい相手に特定のこだわりがあるわけではない。ただ純粋に痛めつけられて苦しんだり死んだりするところが見たいだけだ。それが見れるのであれば子供でも大人でも男でも女でも年寄りでもなんでもいい。


 そこで、あのおかしな空間で聞こえてきた声が言っていたことを思い出す。

 あの声はわかばのことを『鬼』と言っていた。

 なかなか面白いことを言うとわかばは思う。


 わかばが痛めつけたり殺したりしたいという衝動の中には憎しみも金も倒錯した性的願望も一切ない。痛めつけられて苦しんで死んだり殺したり殺されたりするのだけを純粋に望んでいる。星野わかばという存在は殺戮という概念を好いているわけだ。こんな奴、『鬼』という他ないだろう。


 鬼であろうが悪魔であろうがなんでもいい。

 そんなものはもうわかばには関係のないことなのだ。


 殺戮という概念に溺れて愉悦する以外なにも得られないことを――自分にとって無価値である知ってしまったのだから。


 自分にとって殺戮以外すべて無価値だというのなら殺戮をする以外なにもないも同然だ。殺戮をする以外の道はすべて閉ざされているのだから。


 星野わかばという人間は人間社会そのものに対する不適合者である。もしかしたら、人間ではないのかもしれない。むしろそうであったのなら気が楽になる。人間でないから、人間以外の『なにか』であったのなら、人間とは思えないような鬼畜の願望を抱いたって不思議ではない。人間でなかったのなら人間には理解の及ばないモノであって当たり前だろう。それならば幾分か救われる。


 ――そうだ。

 それに気づいたとき、わかばの身体の中に細胞のすべてを一つ一つが電撃の槍で貫かれるような衝撃が走った。


 ――それでいいじゃないか。

 自分はきっと人間ではない『なにか』なのだ。


 ヒトでないのなら、人でなしの鬼畜であって当然ではないか。どうしていままでそんな単純なことに気づかなかったのだろう。考えてみればそんなの当たり前のことだ。本当に頭が悪い。その馬鹿さ加減には呆れるばかりだ。どれだけ間違えていれば気が済むのだろう。それさえ知っていればもっと早く救われていたじゃないか――


 だから、なんの痛痒も抱かずに、たまたま話しかけてきた見ず知らずの人間の目を潰したりできるのだ。

 仮にそうではなかったとしても、そう思い込めばいい。

 思い込んで、自己を改革する。


 星野わかばは人間ではない『なにか』であると自分自身が思い込んでいれば、自己改革は即効性の猛毒のように勝手に進行していく。


 続けていれば必ずそれに騙される者たちが出てくるだろう。

 星野わかばは人間ではない『なにか』であると勝手に吹聴してくれる。

 その手の馬鹿ほど出す声が大きいもので、大きい声は嫌でも多くの耳に残る。


 人間は誰でも嘘をつくようにできているくせに嘘を見抜く能力はとても低い。

 だからどれだけ馬鹿な話であっても騙される奴が出てくる。別に率先して他人を騙そうとは思わないが、勝手に騙されてくれるというのならそれを否定しようとは思わない。それが、自分が得になるのなら儲けたものだ。


 それで自分に害を被ることになったとしてもそれで構わないと思う。

 どうにでもなってしまえばいい。

 その先には破滅しかなかったとしても、知ったことではない。

 滅ぶのなら勝手に滅べ。

 どうせ人間という生き物は異物排除が好きで仕方のない存在だ。ヒトでないわかばのことだって排斥する当然だろう。


 ならこちらだって好きにさせてもらうだけだ。


 災害のように人間に害をまき散らす災害のような『なにか』になってやろう。その先にあるものが自分の死であっても。人間なんてどうせいつか死ぬのだから、いつ死んだって同じようなものだ。


 それに、星野わかばのような不適合者が長生きなどできるはずもない。死ななかったとしても、このような不適合者がなんらかの形ですぐに破綻するのはどう考えても明らかだ。なら、好きなようにしたほうがいいじゃないか――


 もともと長くないのなら、より幸せになれる道を選択するのは正しい。

 苦しんで長生きしたところでなんの意味があるというのか。

 苦しみながら死んだように長生きし続けた先になにが得られるというのか。


 ――なにもないに決まっている。


 あえて苦しみを味わいたいのなら僧侶にでもなればいい。

 あるいは、貧困と戦乱で荒れ果てた国にでもいけばいい。

 そうすれば地獄のような苦しみなどいくらでも味わうことができる。


 苦しみたいのなら勝手に苦しめ。その選択は誰にでも許されている。わかばにそれを止める権利などない。


 だが、私はもうそんなことしたくないしするつもりもなかった。いままでみたいに苦しむのなんてごめんだ。星野わかばは人でなしの『なにか』として災害のように人間社会に災厄をまき散らした挙げ句、人間から石を投げつけられて死に、その死体は誰にも供養されることなく汚物と雨風に晒されて惨めに朽ちていくのが相応しい。人でなしの鬼畜にはお似合いの結末だ。


 わかばが人間に対して貢献ができるとするなら、きっと死ぬとき以外ないだろう。死んで貢献できるのならそれでいいではないか。大半の人間は生きていようが死んでいようが貢献なんて一切できないのだから――


「いや、それは違うな」


 わかばの立つその場所を貫くようにそんな声がどこからから聞こえてきた。聞き覚えのある声。これは誰だろうか。わかばには思い出せなかった。声が聞こえてきた方向を振り向く。そこにはどこかで見たことがある青年が立っていた。誰だろう。よく思い出せない。思い出せないということはたいした知り合いでもないのだろう。どうせこれからのわかばには関係ないことに変わりないのだから。


「それは本当にきみが望んでいることなんだろうか? 災害のように害をまき散らすことをきみは望んでいたのか?」


 青年の声には明らかに疲労の色が見て取れる。それも尋常なものではないのは明らかだった。離れていてもわかるほど異常な発汗をし、不整脈でも起こしているのではないかと思うほど息は荒れ、顔色は肺病を患っているのではないかと思うほど蒼白だ。わずかだか四肢が痙攣しているのだって見られる。余命半年と言われた人間が病院から抜け出してきたと言われても信じられるほどだ。それくらい目の前の青年は弱っていた。


 この人はどうしてそんなことをしているのだろう。


 何故そんな苦しむようなことをしてまで、彼は自分に話しかけてきたのだろうか。わかばにはまったくわからない。意味不明で無意味だ。そんなに苦しいのなら休めばいいのに。なにか意味があるのだろうか。


 彼には意味があったとしても、わかばにとっては意味がないことに変わりない。

 そんな奴、放っておけばいい――いまにも死にそうじゃないか。無視してここから離れればそれで済む話だ。


 しかし――

 どういうわけか身体が動いてくれない。


 彼の姿を見た途端、自分の身体が地面と一体化したかのように足が動かなくなってしまった。

 あの青年の前から立ち去ることを身体が拒否している。


 先ほどまで身体中に満ちていた高揚感が急速に遠のいていく。それと同時の生まれてくるのは強烈な恐怖と不安。冷たい汗がとめどなく流れ、身体を冷やされていく。


 彼の前から離れてしまったら、もうお前は二度と戻ってこれないぞ、自分のどこかがそう言っているような気がした。


 ……何故そんなことを思っている。


 二度と戻ってくれなくたっていいじゃないか。

 戻ったところでもうなにもない。


 どうせこの先、ろくなことになることはない。それはもうずっと昔に決まり切っていたことだ。小学生のとき、興味本位で飼育小屋のウサギを惨殺して自分の嗜好を自覚してしまったときから。


 ただそれから目を背けていただけ。

 認めることができなかっただけだ。


 災厄をまき散らす災害のごときわかばがどうやったところでまともな生を歩むことなどままならない。星野わかばはこの人間社会にとって異物にすぎないのだから。異物なら異物らしく奴らが望むようになってやればいい。それが自分に残された幸せのはずだ。


 なのに――


 どうしてあの疲れ切ったいまにも死にそうな青年から離れることができないのだ。彼の話には耳を傾けなければならないと思ってしまうのは何故だ?


 冷えてきた身体に今度は困惑と怒りによって熱が生み出されていく。


 わからない。

 わからない。

 わからない!


 他人の言うことなどすべて無視してしまえばいいのに。


 自分以外の誰かがなにをどうしたところで星野わかばという人間ではない『なにか』を救うことなんてあるはずもないのに。


 星野わかばは狂う以外に救われる手段なんてなに一つ残っていないはずなのに。


 ――殺してしまえばいい。


 ふと、その思考が頭の中を早馬のように駆け抜けていった。

 そうだ。それでいいじゃないか。


 無視できないなら、拒否できないのなら――それを殺して壊してしまえばいいじゃないか。あまりにも簡単な解決方法にして拒絶の極地にあるモノ。


 そうすればもう惑わされることはない。

 あの青年が現れてから乱れていたわかばの心は落ち着いていった。

 それに、相手はいまにも死にそうなくらい弱っている。


 男女の身体能力の差というのはかなり大きい。

 だが、あれだけ弱っているのならできるはずだ。さっき近づいてきた馬鹿と同じように不意をついて怯ませたあと、押し倒して今度は逃がさないようにすればいい。


 視線を左右に向ける。

 道の隅に手ごろな大きさのコンクリート片が落ちていた。


 あれで死ぬまで殴ろう。


 もとの顔がなんだったのかわからなくなるほど殴って、殴って殴って殴って、頭蓋も眼球も脳も入り混じった立派で醜い合いびき肉のオブジェにしてやろう。


 きっとそれは素晴らしい――


「殺したいのか? いいぞ。やってみろ。それが本当にやりたいことなら好きにすればいい。僕にそれを止めることはできないからな」


 青年はこちらの考えを見抜いたかのようにそんなことを言った。そこに恐怖はまったく見られない。はったりでもなんでもなく、本気で『やってみろ』と言っているようだった。


 彼のそんな姿を見ていると何故か頭が痛くなる。

 どうして。

 こんな男、どうでもいいはずじゃないのか?


 ――違う。


「個人的な意見を言わせてもらえば、きみが災害のようになって救われるとは思えないな」


 何故そんなことを言う。

 お前なんかに私のなにがわかるというのか。

 私がどれだけ苦しんでいたのかわかってたまるものか。


「わからないさ。わかるわけがない。僕はきみじゃない。きみの苦しみを理解できるのはきみだけだ。他人の苦しみを理解できると言えるほど僕は愚かでもないし優れてもいない」


 ならどうしてそんなことを言う?


「楽な道を選ぶのはいい。いままで苦しんできたのだから、これからは苦しまずに生きていきたい。そう考えるのは当たり前だ。僕だってより楽ができるのならそちらを選ぶ。


「でも、きみがいま選ぼうとしているものはきみを幸せにするとはどうしても思えないんだ。何故かと言われると答えられないんだけどね。だから、そんな選択をしないでほしいと思ってる」


 私の幸せは私が決める。お前が口を出すことじゃない。


「そうだね。その通りだよ。自分の幸せは自分で決めるべきだ。別の誰かに選ばされて幸せになんてなれるわけがない」


 そこまでわかっていて、どうして。


 ――何故、こんなにも彼の言葉は突き刺さるのだろう。

 ――頭が痛い。

 ――なにか、忘れてはならないことを忘れてしまっているような――


「きみがそうしようとしているのはきみが純粋に望んだことじゃない。きみ以外の悪意によって背中を押された結果だ。きみがそうなったのはそれのせいだ。すべてきみが悪いわけじゃない。だからそんなことをするのはやめてほしい」


 ま、勝手すぎるお願いだけどね、と青年はいまにも倒れそうな声でそんなことを言う。あまりにも必死なその姿は痛々しすぎてもはや滑稽に感じる。


 でも、それを笑うことはできなかった。

 笑おうとも思えなかった。

 いや、笑ってはならないのだろう。

 それはきっと、なによりも尊いもののはずだから――


「それに、自分をおかしいとか狂ってるとか言わないでくれ。おかしい、狂っていると思い込んでしまえばそりゃ楽だろうさ。狂気に落ちれば世界にあるのは自分だけだ。自分以外誰もない世界はそりゃあ楽だ。自分を煩わすものがないんだから。ならどうしてきみはその選択をしなかったのか? その楽な道ではなく、困難な道を選び続けていたのは何故だ? いまのようになってしまうことを心から望んでいなかったからだろう」


 ――ああ。

 そうか。


 だから自分はいまのようになることを拒否していたのか。

 あんなにつらい思いをしても。

 あんなに心を削っても。


『普通』でありたいと願っていたのはそういうことだったんだ。


「じゃあ、私は……」


 わかばはやっとの思いで絞り出したような弱々しい声で言う。


「私は――どうすればいいんですか、指針さん」

「知らん。そんなもん自分で考えろ」


 ……彼ならそう言うと思った。

 でも、その無慈悲な言葉を言われても悲しいとは思わなかった。


「それでも、手助けくらいはできる。僕にはできないけど、知り合いにいい先生がいるからその人にでも相談に――」


 と、そこでおかしな形で刃の言葉が途切れた。

 疲れ果てた顔には別の色が浮かび上がっている。

 焦り、困惑、そして怒り。そこには鬼気迫るものが感じられる。


「おい! どうした! なにが起こった?」


 よく見ると刃は耳にイヤホンをつけていた。彼の様子が変わるまで誰かの通話をしたままでいたらしい。ということは通話相手になにか――


「くそ!」


 吐き捨てるように悪態をついた刃はスマートフォンを取り出して、操作をする。それからすぐに話し始め、その会話からいままでとは別の相手と連絡をしていることだけはわかばにも理解できた。


「すまない。他にやらなきゃならないことができた。あと少ししたらここに誰か来ると思うから、それまで待機しててくれ」

「は、はあ」


 わかばにはなにが起こったのかまったくわからなかったが、どうやら想定外のことが起きたらしいことは理解できた。


 なにが、起こったのだろう。

 もしかして自分はまたなにかしてしまったのかとわかばは思った。


 強い風が自分の横を通り過ぎていったかと思ったら、目の前にいたはずの刃の姿は消えていた。そこでわかばは彼の身体が通常とは違うものであることを思い出した。なら、そんなこともできるのかもしれない。


 狭い路地に一人取り残されたわかばだったが、とても晴れやかな気分だった。


 間違いなく自分はあの人に救われたのだ。

 決定的に道を踏み外すまえに、引き戻してくれた。

 自分がなにを望んでいるのかを教えてくれた。

 お礼を言う前に彼がどこかに行ってしまったのが少しだけ悔やまれる。


 でも、お礼なんてあとで言えばいい。彼は自分の前に戻ってきてくれる。これが最後だなんて思えない。根拠なんてまったくないのに、何故かそうとしか思えなかった。

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