第29話

 はじめからこうしていればよかったじゃないか――と星野わかばは気を抜ききった羊しかいない街を歩きながらそんなことを考えていた。


 どうしてこんなことに気づかなかったのだろう? 本当に自分は救いがたい愚か者だ。はじめからこうしていればあんなにもつらい思いをする必要なんてなかったのに。


 わかばは小学校で事件を起こした事件が見つかって以後、一度も味わったことのない解放感に包まれていた。


 抑圧されないことはこんなにも素晴らしいことだったのか。


 自分を殺さずに見る世界とはこんなにも輝いて見えるのか――と、強く思う。

 人間などこの宇宙にある小さなシミにすぎない。個人というにはほとんどの場合とてつもなく小さい存在だ。


 この星野わかばも例外ではなく、地球という小さなシミの中にさらに小さなシミ以外のなにものでもない。そんなものの影響力など存在しないに等しいと。それにやっと気づくことができた。


 その小さなシミに世界を変えることなどできない。できるわけがない。できるのならとっくの昔に戦争などなくなっているだろう。


 だが、有史以来戦争がなくなったことなど一度もない。それは人間が人間の社会を変えるにはあまりにも小さすぎ、現在はその社会が大きくなりすぎたためだ。二十世紀の爆発的な人口増加を迎える前の社会でも無理だったのにもかかわらず。人間の社会はいまもなお巨大になっている。その巨大なモノの中にある一個のシミが好き放題やってもなにも起こることはない。おかしくなったシミのまわりがわずかにおかしくなるだけで大勢にはまるで影響しないのだ。


 あの声が言っていた通り、自分があと残りの人生すべてをかけて好き放題にやったところで社会や世界という巨大なモノはまったく揺るがない。小さなエラーは勝手に修復されてしまう。


 世界を揺るがせる個人など百年に一度も現れない。これが、わかばたちがいま生きている世界の本質である。小さなシミによって世界や社会が滅ぶときは、求心力を持つ誰かによって先導され、相当数のシミが動き出さなければそれは起こりえない。


 そしてその先導者にはわかばがなれるわけないし、そもそもそんなことできる必要もない。必要なのは自由に生きることなのだ。


 ――自由。

 そう自由だ。


 それが本来わかばが求めていたものであり、もっとも大事なものである。

 自身が望むように生きる。

 自分が抱く愉悦と願望を肯定して生きる。

 それは簡単なようでとても難しい。


 ついさっきまでわかばはそれができていなかったのだ。

 自分の望みが常識という名の檻の外にある場合には。

 常識という眼鏡をかけて見ると『異常』と判断されるものならば。

 先ほどまでのわかばのようになってしまうのだ。


 自分には適合しない『常識』の眼鏡を無理矢理かけて生きようとすると、徐々に精神は徐々に蝕まれて、最終的に壊れてしまう。そうなった場合に行き着く先は冷たい牢獄の中だ。きっとわかばもあのままだったのなら、そう遠くない未来に残りの一生を牢獄で過ごすようになっていただろう。


 とてもじゃないが、そんなものには耐えられない。


 異常者だと言われるのはいい。それは事実だ。

 だが、適合しない『常識』に無理矢理適合させられるのは我慢ならない。


 何故、自分のようなものが好きにしてはならないのか?


 わかばがどれほど頑張ったところで世界どころか街一つ滅ぼすことすらできないのに。


 みな好き放題やっているのに、どうして自分だけは駄目なのか?

 わかばの望みが法律に違反しているからか?


 ――違う。


 わかばのような望みを認めることは、自分もそれと深いところで同じモノであると認めることだ。ただ多くの奴らはそれが我慢ならない。だから異常を否定する。理解の外にあるものを排斥し、存在しないもののように扱う。それが自己保存、自己防衛のためであることは理解している。


 だが、排斥される側にしてみればたまったものではない。そういった者たちにだって自己保存や自己防衛の欲求はあるのだ。


 常識という眼鏡をかけられない者たちが自由に生きるためにはなにをすればいいのだろう。


 答えは簡単だ。

 見つからなければいい。

 あの声が言っていたように、見つからないものは存在しないと同義なのだ。


 見つからないためには、常識という眼鏡をかけているふりをしなければならない。上辺だけはそれをちゃんとかけているように見えていなければ、見つからずに好き放題やることは不可能だ。できなければ牢獄に行くことになる。それが嫌ならば、できるようにならなくてはいけないのだ――


 さて。

 何年もずっと無理に抑圧してきたのだから、もうここで自由に生きるために第一歩を踏み出してもいいのではないか。


 狙いやすい羊には事欠かないのが都会のいいところだ。

 どうせなら人間を相手にしようではないか。

 そちらのほうがより大きな愉悦を得られるに違いない。


 それに小学生のころとは違って、いまのわかばはきっとウサギや猫の類では満足できないだろう。


 それならば人間のほうがいい。より大きな充足感を得るのだ。ウサギと違って人間はいつでもどこにでもいるし、小動物より捕まえて殺すのだって簡単だ。簡単でより大きな満足を得られるのであればそちらを選ばない理由はどこにもない。


 昨夜見たあれの死体のような――

 圧倒的なまでの残虐性。

 汚物のようでありながら、それでいて芸術的なものを感じさせる。

 あんなものを見せつけられて、自分の感性が刺激されないわけがない。


 できるならば、あんなものを――作りたい。

 だが、それはいまの段階では難しいだろう。

 大がかりなことは、ある程度手慣れてからやるのが無難だろう。

 自由に生きるのならば、慎重さは欠かせない。

 しかし、こうも無警戒な羊がいると目移りしてしまうな――


 外に出るとそこら中にいるこの生物は異物の存在は我慢ならないくせに、どうしてここまで異物に対する警戒心に欠いているのだろうか。どうかしてる奴なんかそこらにいくらでもいるのに。きっと頭が悪いんだろう。


 異物であることに気づかないでくれれば警戒しないというのはわかばにとって非常にありがたい。


 なんとやりやすいのだろう。

 それはそれで素晴らしいことだ。あとのことはどうだか知らないが。


 ああ。それにしても。

 痛い目に遭って泣いたり叫んだり死んだりするのが見たいなあ。

 どこか痛めつけて欲しがる馬鹿がいてくれないものだろうか――

 誰だっていい。悲鳴を聞かせて、みっともなくのたうちまわってくれるのなら男でも女でも子供でも年寄りでもなんでも――


「ねえ、もしかしてきみうちの学生? ひましてるなら俺とちょっと遊ぼうよ」


 背後から頭の中も軽そうな声が聞こえてきた。わかばはそちらを振り向く。頭の中と同じように綿菓子みたいに軽そうな格好をした大学生だった。わかばより二、三歳上と思われる青年である。顔は悪くないし、身長も高い――まあ、遊び相手にそんなものはまったく必要ないが――悪くない。いまは相手を吟味するより、目先の欲を満たしてやることのほうが遥かに重要だ。


「おにーさん、私と遊びたいんですか?」


 わかばはにこやかな笑みを見せてそう言った。


「そうそう。近くでお茶でもしようよ。奢るよ」


 そう言った青年の軽薄な口調は一切の澱みのない慣れたものだった。普段からよくこんなことをしているのかもしれない。


「へえ、それはいいですね。私の遊びに付き合ってくれたあとでいいなら行きますよ」

「え? ほんとに? 付き合うよ。なになに。なにすればいいの?」


 嬉々として男は二つ返事でわかばの質問に答える。なんて馬鹿なのだろう。やはり見た目通り頭の中も軽いみたいだ。もしくは股間に脳みそがあるのかもしれない。いまお前が話しかけた奴はなにをしようとしていたのかなにもわかってないようだ。わかっていなくていいのだが。脳みそは発泡スチロールなにかでできているのだろう。


「そうですね。ます――」


 と言ってからわかばは男に近づいて、自らの足を男の股間に向けて思い切り蹴り上げた。急所を思い切り蹴り上げられた男はなにか起こったのかわからないという顔をしたのち、すぐに苦悶の表情と声にならない呻き声をあげて膝から折れて内またになって前に屈みこんだ。


 そこでさらに位置の下がった頭にある目に向かって指を思い切り突き刺して指をかき混ぜた。差し込んだ人差し指には眼球の不思議な感触が広がる。蹴られた股間の痛みはまったく消えていないところに目を突き刺された男はそのまま再び無様な悲鳴を上げて、股間と目に自分の手を当てながら転げ回った。


「どうしたんですか? 私と遊びたいんでしょう。なんで地面に転がっているんですか? 早く立ってくださいよ。そのつもりで声をかけてきたんじゃないんですか? 付き合ってくれるっていったじゃないですか。なにしてるんです? みっともない悲鳴なんてあげてないでさっさと立ち上がってくださいよ。それとも、これは私を楽しませるためのあなたなりの配慮というやつですか? 地面に転がっているあなたをもっと痛めつけてほしいということですね。失礼しました。そういうのも遊びには必要ですものね。わかりました。存分にやらせてもらいます。次は鼻でも潰しましょうか。それでいいですか? 一番簡単にできますし、なにより血がいっぱい出て派手ですからね。ああ。なにかあればいいなあ。ボールペンくらい持って来ればよかった。そうすればもっと色々なことができるんだけど――ああ、あのコンクリート片にしましょう。どこがいいですか? 殴られたり入れられたりする場所を選ばせてあげますよ。やっぱり鼻以外だと尻が無難ですか?」


 わかばは近くにおちていた五センチほどの大きさのコンクリート片を拾った。面白みにかけるのは否めないが、まあ仕方ない。使える道具などそうそう落ちてなどいないのだ。


「ひっ……」


 男は痛む股間と目を押さえたまま恐怖の表情を浮かべて這いずってわかばから離れていく。


「なんで逃げるんです? さっき付き合うって言ったじゃないですか。まだちょっとしかやってないじゃないですか。タマ蹴り上げられて目を片っぽ指を突っ込まれただけですよ。人間ってやつは簡単に死ぬけど、意外と死なない生き物なんです。知ってますか? その程度じゃ死にませんからまだ付き合ってくださいよ。どうしてそんな顔をしてるんですか? バケモノでも見るような顔をして。失礼じゃないですか、女子に対して。その程度で音を上げるのに私に付き合うとか言ったんですか?」


 男は恐怖が頂点に達したのか、情けない悲鳴を上げながらわかばから離れていった。


 ったく。あの程度で逃げ出すなんて情けないなあ。たかが遊びなのに。軽いジャブじゃないか。若い男だからまだ色々なことができたのに。わかばの中で激しく渦巻いている嗜虐心はまだまだ治まる気配がない。もっと、もっと、もっと。痛めつけて滅茶苦茶にして壊れていくところが見たくてたまらない。


 だが、いまの失敗を悔いても仕方がないので、次はうまくやることにしよう。今度は逃げられないようにしたほうがいいかな。逃げられても面倒だし。うん、まずはどうにかして足を潰そう。


 ああ、それにしても。


 なんてこう誰かを痛めつけるのはこんなにも楽しいのだろう。いままで自分が抑圧してきたものが解放されるというのはなんという快感か。こんなにも素晴らしいことを我慢していたなんてどうかしていたとしか思えない。いや、どうかしていたのだ。どうかしていたから自分の望みを抑圧し続け、『普通』になろうとしていたのではないか?


 その通りだ。


 小学生のときの動物虐殺が見つかったあの日から、つい何時間か前までの自分はおかしくなっていたのだ。これが本当の自分だというのにそれを抑圧し、無警戒な阿呆と同じようになろうとするなど正気の沙汰ではない。


 ここまでヒトを痛めつけて殺すのが好きな自分が『普通』になどなれるわけないじゃないか。そこらにいるのも阿呆だが、私はそれ以上に阿呆だ。なにを考えていたのだろう。とてもじゃないが理解できない。


 そこでふと地面に目を向けると、男が逃げていったところにパック詰めされたなにかが落ちていることに気づいた。それを手に取る。乾燥大麻だった。あの男が自分のために遊びで使うために持っていたのか、誰かに売りつけるために持っていたのかはわからない。


 だが、そんなことわかばにとってどうでもいいことだ。あの青年が誰かに大麻を売ろうが自分に使おうが知ったことではない。


 こんなものを使わなければハイになれないなんて愚かなのだろう。そんなものに頼らなくとも、気分なんていくらでも上げられるのに。


 わかばは手に取った大麻を投げ捨てた。


 しかし、いくら我慢しきれなかったからといって少し派手にやり過ぎたかもしれない。次から、やるならもうちょっとうまくやらなくては。せっかく自由になったのに警察に捕まってしまってはなんの意味もない。


 少しずつやっていけばいいだろう。回数をこなしていけば大抵のことは上達するものだ。

 それにまだまだ獲物には事欠かない。どこにいっても能天気な羊が放されたままだ。お気楽なそいつらが警戒し始めるようになるのはもっと先になってからだろう。


 時間はたっぷりとある。

 だが、まずはこの衝動をどうにかしないと。

 このままじゃ気分が高まり過ぎて夜も寝られない。

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